シン
ガウェインたちが去った後、貴族の屋敷でアクロは目を覚ます。
「ムウゥ……」
一瞬──慣れない眩しさに手をかざし、顔を背けて目を瞑る。しばらくして、恐るおそる瞼を開く。とても高いところに、まっ白で大きな四隅まで掃除が行き届いた天井があり、その真ん中に星空のように無数の光を放つ、大きな何かがぶら下がっていた。
──綺麗……
世界中の貴族たちの間では当たり前に使われているシャンデリアも、アクロからすれば未知の魔法のような物だ。そして、これほど柔らかく寝心地の良い大きなベッドも生まれて初めての物だった。
明るさにも慣れてきたところで、似たようなことが以前にもあったと思いながら上体を起こすと、向かいに座る二人組と目が合う。アクロは咄嗟に身を引いて構え、周囲を見まわす。部屋の壁には、幾つも絵画が飾られ、書棚が並び、向かって右手に入口らしき大きな扉、左手とうしろに窓があり、カーテンが閉められている。
ふたりの背後にはスペースがあり、その壁の左端に、奥に部屋があるのか扉がひとつある。部屋の中央には長方形の大きなテーブルがひとつ、それを挟むように向き合って置かれたソファーがあり、そこへ互いに座っていた。どうやらアクロが眠っていたのはベッドではなかったようだ──
「起ギダガ……」
「おはようございます──」
エリスと異形の者が同時に落ち着いた声で話しかける。
「あなたたち、たしか以前……」
アクロは見覚えのある赤いミドルヘアーの眼鏡をかけた女性と、鎧を着たような異形の姿をした者へ返事した。
「はい、海人国で見世物にされていたあなたを以前──お見受けしました」
アクロはそれを聞いて、ハッキリとその当時のことを思い出す。
「あの時──奴隷商人たちと揉めていたふたりね。あなたたちがわたしを……? なぜ──?」
アクロはふたりを警戒し、腕を組んで睨む。
「そのように怖い顔をなさらないで下さい──」
エリスが右手の指先で眼鏡を持ち上げた後、アクロに丁寧に説明をはじめる。
「今あなたがいるのは東の大陸の最奥、蟲人国、その中心都市ムシノスの東区画にある、こちら、我が国の盟主であられるシン様の屋敷です──」
エリスは隣に座る異形の姿をした者を指してそう言った。
──これが……蟲人──噂に聞いてはいたけれど、たしかに異質な姿をしている……
蟲人の男は微動だにせず、膝を組みその上に合わせた両手を置いて、じっと──アクロのほうを向いている。
「私の名はエリスと申します。この屋敷のメイド長をしております。旦那様は発声が不得手ですので、代わりに私が事情を説明させていただきます」
アクロは無言でじっと見つめてくるシンが怖くなり、意識しないようエリスのほうへ半身になった。
「あなたは本日の昼頃に、奴隷商人と獅子人によってここへ運び込まれ、たった今お目覚めになられるまで、半日程そちらのソファーで眠られておりました」
──そういえば今朝……奴隷商の男になにか嗅がされて……
「ここでは大勢のヒトが屋敷の仕事や旦那様の身のまわりのお手伝いをしながら共に暮らしています。旦那様は我々、ヒトに好意を寄せておられ、様々な事情を持つヒトを集め、手を差し伸べて下さっているのです」
──見た目は怖いけど……話を聞く限り悪い人ではないのかしら……?
アクロは改めてシンのほうを向こうとしたが、表情は読めないが、やはり自分のことを食い入るように見られている気がしてやめた。
「旦那様は海人国で檻に入れられ見世物にされていたあなたを救い出すため、奴隷商人と交渉し、彼らからあなたを買い取ったのです」
エリスは胸に手を当て誇らしげに語る。その様子を見てアクロは、エリスは主人のことを本当に信頼しているのだなと感じる。
「じゃあ、わたしはもう奴隷商人たちに追われることはないってこと!?」
アクロはテーブルに手をついて、エリスの方へ身を乗り出して質問した。
「世界中の奴隷商人たちは皆、ひとつの組合に属しており情報は共有されています。一度、顧客に売って手放したあなたを、今後また攫うようなことは彼らの商売の信用にも関わる為、ありえないでしょう──」
「本当──!? それは嬉しいわ! 助けてくれてありがとう!」
アクロは立ち上がり、ふたりに向かって深々と頭を下げる。
「じゃあ、わたしはもう自由なのね! お願い! わたしを猫人国へ帰らせて下さい! 故郷の人国にも帰りたいわ!」
アクロはこの人たちなら手助けしてくれるかもと、淡い期待を抱き、胸に手をあて、ふたりの顔を見て訴えた。
「それは……」
「ゾレバ駄目ダ──」
エリスが答えづらそうな反応をしたところ、シンが食い気味に言葉を発した。
「あなたには旦那様に救って頂いた恩があるでしょう? それにあなたのようなクロノヒトには外の世界は危険が多いわ、私たちもあなたひとりの為に時間とお金をかけ、人国まで旅することはできません」
アクロは何よりもまず、セレンのことを心配している。 二ヶ月前の夜、一度は死んでしまったと思ったセレンが、森の入口まで追いかけて来たのだ。
「あなたひとりで人国に帰ることは困難でしょう……。それよりも、ここで何不自由なく安全に暮らしたほうが幸せではありませんか? 旦那様もそう思っておられるのですよ?」
口を封じられ、叫び声は届いてなかったかもしれないが、セレンはあの場に立っていた。だからこそ、今すぐこの場を飛び出して確かめに行きたい。
「奴隷商人たちから解放して下さったことには本当に感謝しています。でも、わたしには待ってくれている家族や大切な人がいます!」
必死に訴えるアクロを見て、エリスは胸に手を当てシンを見た。
「たとえ何不自由なく安全な生活だったとしても、自分の意思で行動できないなら、それは自由ではありません──」
シンは微動だにせず、黙って聞いている。
「わたしには夢があります! わたしは大切な人と一緒に世界を見てまわりたい、大切な人たちが私を待っているんです! この御恩はいずれ必ずお返ししますから、一度、帰らせてはいただけませんか?」
エリスにはアクロの訴えが、痛いほど心に突き刺さった。
いつもなら屋敷で働かせ、共に生活するのが通例で、今まで誰もこの好条件な申し出を断った者はいなかったし、実際にみな満足している。
エリス自身、これ以上幸せなことはないと信じてきたし、自分たちはヒトを救い、良いことをしているという自負があったのだ。だがアクロがセレンを愛する気持ちが、自身の義父を愛する気持ちと重なり共感してしまった。
「駄目ダ……オ前バ……私ノ物ダ……」
エリスが、どうにかアクロに助力できないかと、隣に座る義父に相談しようとした時、今までの義父からは考えられないような言葉が飛び出した。
「旦那様……なぜ……」
シンは立ち上がり、後ずさるアクロへゆっくり近づき、口を開いた。
「オ前バ……美ジイ……何モジナグデ良イ……欲ジイ物バ全デ与エヨウ……ダガラ……何処べモ行グナ……私ノ女ニナレ……」
──駄目だ……これは……逃げないと……!
シンがそう言って顔を近づけ、肩を抱こうと手を伸ばした瞬間──アクロは入口のドアへと向かって走り出す。
「無駄ダ……」
アクロが扉を開けて飛び出した先にはふたりの男の執事が立っていて、アクロはすぐに捕らえられてしまった。
「シン様──! この少女……どういたしますか……?」
両腕を掴まれたアクロの体は宙に浮き、ジタバタと暴れる足が空を切る──
「用意ジデアル……部屋べ……連レデ|行ゲ……鍵ヲ掛ゲルノヲ……忘レルナ……」
離して! 助けて! と泣き叫び、声を上げるアクロの声が屋敷の奥へと消えていく──
最近、どこか以前と変わってしまった義父シンの背中を眺めながら、エリスはひと雫──涙を流した。