ミレーニア
「……」
「これは……知ってる天井だ……」
それは四隅に蜘蛛の巣が張った、薄汚れ、割れた、厚みの無い木の板で作られた、低い天井──中央に吊るされた一基のランタンの薄明かりに照らされ、無数の埃と小虫が数匹、踊っている。
──この体の窮屈さ──久しぶりな気が……
子供の頃には何も感じなかったが、大きくなるにつれ小さくなった机、椅子、ベッド──
──やっぱり……寝るには足を曲げないと難しいな……
最近はすっかりご無沙汰で、忘れかけていた懐かしい景色──
──この背中は──誰……!? いったい何が……
一瞬──セレンは戸惑い思考を巡らす──
「おや……目覚めたか……? ナナシ……」
セレンはあり得ない状況に理解が追いつかず、目を点にして固まった。
「あなたは──あなたが……なぜ……ぼくの家に……!?」
振り返ったその見慣れた、低く、少し折れ曲がったシルエットは、ここでは絶対にお目にかかれる筈のない者のそれだった──
「なぜ……? それはまず、こちらが聞きたい……。前回お前と会ってから、もう十日になる……。三日前──いつものように森の入口に来てみたら、お前が倒れていた。どうした……!? 何があった……? なぜあんな所で……?」
──何を言って……!?
立てつづけに浴びせられる質問にセレンは混乱する──
「森の入口!? 違う──! あれは──ぼくの家の前で……痛っ──!!」
現状を理解するために整理しようとするが、強い痛みと頭に霧がかかってハッキリと記憶を思い出せない──
「あぁ……。確かに……なにやら庭が荒れていたな……」
老人の口調はとても落ち着いている──
──この人……いつもはもっと嫌な感じなのに……
そんな風に古い記憶から遡り、セレンは大切なことを思い出す──
「そうだ──! アクロ──! アクロは!? それにアイツ! ガッ……ガ……そう! 獅子人! ガウェイン!! アイツがアクロを──」
セレンは老人がいるにも関わらず、迂闊にもアクロの存在をもらしてしまう──
──やはりか……
老人は少し笑っているように見える表情でセレンに言葉を投げる──
「アクロ!? 獅子人!? なるほど……ナナシお前、こんな所で女と暮らしていたのか? それで最近はなにかと張り切って働いていたわけか……。まぁ、お前も……もうそんな歳か……。お前の家に入った時、室内を見ておおよその検討は付いていたが……。だがその女も男も、よくこんな場所にまで来たな……」
セレンはなぜか老人が喜んでいるように感じる──
「それにしたってどうやって女と……? いや……お前の母親のような変わった女もいたしな……。いや……その話はもう……」
──この人……なにか勘違いして……
セレンは老人に下衆な勘繰りでもされているのではと思い、それどころではない状況でなぜか母の話まで持ち出され、少し癇に障った。
「お前……大方、他所の男の女に手を出して、女の取り合いにでもなって殴られでもしたか? 腹にそんな大痣まで作って……。それにしても三日も寝込むとは……情けない……」
先日の記憶は断片的にしか思い出せない──
身体を確認すると腹に大きなアザがあり、触ると少し痛む──それに以前よりも皮膚が固くなっている気がした──
だが今はそんなことを気にしてはいられない──!
「それよりも速く──アクロを──! 痛っ……!!」
セレンは急ぎ立ち上がろうとするが、全身が痛んで上手く起き上がれない。
「やめておけ……。お前……先程──獅子人と口にしたな……? あんなのに本気で来られたら、普通は死ぬぞ!? そのアザひとつ程度で許してもらえたんだ。お前の置かれた環境を考えれば、寄って来る女がいれば他人の女でも欲しいのはわかるが……」
老人の頭の中ではもう都合の良い話が出来上がってしまっている──
「違います──! そんな話ではないんです──!」
セレンは誤解を解こうと必死だ──
「ではなんだ……? どんな話だ!? はっきり言ってみろ!」
アクロのことを話せる筈がない──
「それは……言えません……」
セレンは言葉に詰まる──
「お前は三日間ずっと眠りっぱなしだったんだ、何をするのかは知らんが……今はゆっくり休みなさい……」
早くアクロを追いかけたい気持ちと、上手く説明できない、できても理解される筈もない現状に、セレンは無性に怒りが湧く──
「さっきからなんなんですか──! ずっと上から目線で……母さんの話まで持ち出して──! それに──助けて貰って、こう言うのは間違っているかも知れませんが……ぼくたち赤の他人ですよね!? いいから、もう放っておいて下さい──! 大体あなた──今までぼくと一度も、まともに口を聞いたことすらなかったじゃないですか──! 何を今更……」
セレンは自分を助けてくれた筈の老人を、無下に扱ってしまう──
老人は無言で、ただセレンを見据えて固まった──
「……すいません……。今のは、ぼくが言い過ぎました……。まだお礼も言ってなかったのに……本当にごめんなさい……。でも、あなたにだって家庭や仕事があるでしょう……? ぼくはもう大丈夫なので、もう帰ってあげて下さい……」
セレンはこの老人と、こんなに話をしたことはない──
「仕事は……まぁ問題ない。今、私の仕事相手はお前しかいないからな、お前が治らなければ私は毎日が休日だ……。第一ここで私以外の誰がお前の面倒をみてくれる? この家どころか森には誰も近づかんというのに、それに私に家族はいない、妻はとうの昔に死んだ……」
セレンは老人が、森に入り自分を家に運んで、傍で介抱してくれていることがいまだに信じられないでいる。
「それは知りませんでした……ごめんなさい……」
なぜ老人が自分にこんなに構うのかが理解できない──
「……息子は一人いたがな……。こいつがどうしようもない馬鹿息子でな、若くに結婚し子どもを作ったのはいいが、無責任な根性なしで、すぐに自分の妻子を捨てて逃げた。挙げ句、酒に溺れて病ですぐに死んでしまったよ。妻子ふたりには可哀そうなことをした……」
少し自分と境遇が似ていると思い、セレンは同情する。
「そのふたり……今は……?」
セレンはつい気になり、話に食い付いてしまう──
「母親は亡くなった……息子は元気にしている……」
セレンはひとりで過ごす寂しさを知っている──
「そのお孫さんはおられるんですよね……? 待っている方がいるじゃないですか……! おじいさんがこんな場所に三日もいたら、心配してますよ!?」
セレンは老人を追い返したいからではなく、素直に、自分のために家族に心配をさせないで欲しいという気持ちで、老人を説得する。
「あぁ……いるな……。定期的に……合ってはいるがな……。心配か……まぁ……そんなに良い関係というわけでもない……。今迄……そんなに口を聞いたこともなかったが……ずっと──見守っていたつもりだ……。国の〝役人〟という立場上、近づき過ぎることはできなかったからな……」
役人は急に会話の歯切れが悪くなり、セレンは彼の家庭環境が何かよくない状態なのかと心配した。
「聞け──! ナナシ! 何をするもお前の自由だ──! 大人になればどこへだって好きに行けばいい──! やりたいことをやればいい──! だがな……今は無茶なことはやめなさい……。お前の母もお前のことを心配しているぞ……!」
突然、説得されたかと思えば──また母親の話を持ち出され──セレンは何がなんだか訳が分からない──
「さっきから──なぜ何度もあなたが母さんのことを口にするんですか……!? 関係ないでしょ……!?」
暫しの沈黙の後、役人が冷静な口調で語り始めた──
「関係ないか……。それに……無鉄砲なところは母親そっくりだな……。ナナシ……お前のことをあの娘に頼まれたからだよ……」
役人は今迄、見せたことのない真剣な面持ちでセレンを見つめる──
「お前は何も知らないだろうが……あの娘は元は役人で……私の部下だった──。一緒に今の仕事をしていたんだ……。お前の面倒を見ていたナナシがいただろう……? あれを元々、担当していたのがお前の母親だ……」
セレンは心臓の鼓動が急激に激しくなるのを感じる──
「私はお前の母──ミレーニア──に我が息子を紹介した……」