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自動記述の白い壁  作者: polisha
9/9

反転

 病室の白い壁。そこかしこのシミを除けばただの白一面と思っていたが、入院してかれこれ・・・・・・かれこれ何日目なんだろう。とにかく何日目かにして、『白いばかりの壁』という認識が全くの見誤りであることを発見した。

 

 実は、白い壁紙には、木の葉模様が規則的に配置されている。主観が落ち込む陥穽がこんな六畳ほどのスペースに存在していたとは驚きだ。眺めつづけていたこの壁、白かったのは、むしろワタシの目の方だったんじゃないかしら、目という器官の背後にある「私」だったんじゃないのかしらと入院以来おそらく何十回目かになる不安の感情にとらわれる。

 『存在』に伴う不安に。

 膨れ上がる不安の色は常に同一だ。

 灰色。

 のっぺりとした灰色が視界の上のほうから、のたーっと降りてくる。

 すると心の自由は奪われ、身じろぎも出来ない。気付けば、灰色の底なし沼にはまったようで・・・・・・。

 

 でも、大丈夫。もうワタシは気付いている。壁紙に木の葉がデザインされ散りばめられていること。両親はワタシのことを愛してくれていたこと。そりゃあ、少しは親のエゴが混じっていても、充分、立派に愛してくれた。過剰なエゴは過剰な愛の裏返しだったってことを知っている。だから、いつかの待合室のあの娘だってしっかりと認識してあげたから、その存在がこの部屋でしっかりと『在る』ことを観てあげたから、大丈夫なんだと思っている。音がワタシの網膜の裏に生む色彩だって、流れるような幻視――時折暫く居座るけれど――だって、全部が全部、きっと存在自体が愛なのだと不意に気付く。

 論理を越えてワタシはそう直感した。


 膝が痛い。膝十字だろうが前蹴りだろうが、何だっていいじゃない。原因行為が何かなんて、もう関係ない。手術という新たな縁が時間を経てまた新たな因になって快方に一直線に向かっているのは、確かな気がするんだから。包帯で二重三重に包まれた左膝を少し曲げてみる。痛いって言っても所詮は自分の膝。その筋肉組織や腱や靭帯や半月板や縫い合わされた皮膚なんかが、その存在を『痛い』という形でアッピールしているだけだ。痛みを受け入れてやるワタシ。受け入れられる他者。観るものも観られるものも異なるモノにして同一だ。世界は間違ってなんかいなかった。圧倒的に徹底的に間違っていたのは、ワタシの認識だったんだ。世界を否定し、両親を否定したいばっかりに、自分を否定し、自分の人生も性別すらも否定し続けていたワタシが間違っていたんだ。弟だってきっといた。不意に眠りに落ちる寸前の切れ切れの短い夢のように、ある情景が浮かんだ。溺れる俺が目にしたのは、必至になって手を伸ばし、ワタシを助けようとする弟の姿だった。

 天使のような弟の姿―――。


 そしてあの時、ワタシは助けられた。おねえちゃんおねえちゃん、と叫びながら、弟は小さな手を伸ばし、指先に引っかかったワタシのブラウスの襟首を頼りに岸まで引き上げようとしていた。けれども、水を吸った衣服を身に着けたワタシは重くって、弟の力では引き上げることは出来ない。だから、弟は自分の命の危険を顧みず、泳ぎなんか碌に出来もしないくせに池に飛び込んた。バシャバシャと足で水を叩き、藻掻くように小さな身体全体を使って私を岸まで押し戻していく。そして、弟がワタシの踵を後ろから持って、岸にワタシの身体全体を押し上げたときワタシは膝を強く捻ってしまった、はずだ。バキバキメキメキと音がしたのを覚えている。そのまま弟は力尽きて、池の底へと。あの時、池の水を大量に飲んだせいで憔悴し、どんどん昏くなっていく私の視界に、最期に映った弟の姿が、笑顔だったんだ。弟はいつも笑顔だったけれど、この時も満足したように笑っていた。微かな笑みを湛えたまま、最期に空をチラッと見上げ、弟は池の中に消えていったんだ―――。


 自分で何重にも塗り固め覆い隠していた真実が露わとなる。悔恨と申し訳なさとで私の身体は小刻みに震えていた。ほんとうはワタシも弟のように天使になりたかった。なのに、それを受け入れたくないばっかりに、ワタシのために生涯を閉じた弟のことを認めたくないばっかりに、異なる人生を生きたくって、逃げて逃げて、結局は・・・・・・。


 悔恨の涙に後れて笑いがこみ上げて来る。私が徹底的に間違っていた。自分の愚かしさがどこまでもおかしい。あんなに愛されていたというのに・・・・・・。情けなくって、申し訳なくって、悲しくってどうしようもない。失ったモノ、失った時間は余りに大きすぎるように思え、私は泣きながら自らを嘲り、笑った。幻視は出来ても、一番大切なモノは全然見えていなかった自分を笑いながら、泣いた。いっそ、このまま存在自体、消えてしまいたかった。


 その時だった。


 ぼくは後悔なんかしてないよ。


 胸の中で弟の声が響いた。懐かしい面影は残したまま青年へと成長したような弟の声。あのまま弟が成長していたら、きっとこうなった筈だと思わずにはいられない、声。再びその声が響く。


 おねえちゃん、ぼくは後悔してなんかいないんだよ―――。


 流れつづける涙を掌で拭いながら、私は心の中で弟にひたすらにことばを返す。ごめんね。ごめんね。ほんとうにごめんね。みんな、本当にごめんね。

 頭の中に、水滴を垂らしたように徐々にオレンジ色が拡がってゆく。いままで幻視したこともないほどに荘厳なオレンジ色だ。オレンジ色は拡がるにつれて、濃くなってくる。これは『救い』だ。『神の救い』が近付いている。私はそう直感した。そして、ベッドの上で身体を折り曲げ、胸の前でしっかりと手を組んで、これまでの人生で初めての、神への祈りを捧げた。自らの罪の大きさを知った私には、心から許しを願うしか為すべきことが無いように思われてならなかった。


 どれくらい祈っていたのだろう。私は瞼の裏に感じられる外の様子がおかしいことに気付いた。目を開けて身体を起こしてみると、左手の窓のカーテンの隙間からは、日の光が射し込んで来ていた。この病室から、初めて感じる陽光だ。

 体重をかけないよう注意しながら左足を床にそっと降ろし、右足で立つ。窓までの数十センチを右足で跳躍する。そして、一気にカーテンを開け放った。駐車場なんか無い。あるはずはなかった。

 ただそこにある、がらんどうの景色。


 ここはあの地獄だ。ここが地獄だ。


 幼い日、恐怖で震えた地獄。あの空虚な世界で、ただひとつ見えた白っぽい建物―――。あの中に、私はいるんだ。全てを私は理解した。


 だけれども、上方から日の光は射し込んで来ている。

 淡い白金色の光。

 救いの光。


 だから恐怖は無い。これっぽっちも無い。恐れは、左足の小指の先の小さな爪の甘皮ほども無い。膝の痛みも今は治まっている。包帯の下に、痛みなんて本当に在ったんだろうか。冷房の利いた部屋にいる筈なのに背骨に添って汗が一筋流れ落ちる。違う、汗じゃない。私は顔を上げて泣いている。静かに身体を震わせながら泣いている。だから涙が首元を伝って背中にも流れ落ちたんだろう。


 がらんどうの空間を照射する光のイメイジ。

 いや、イメイジじゃなく、実在する、光。

 今はまだ遠いけれども、間もなく炸裂するような眩しい光がきっと射して来る、私は直感した。

すぐに来てくれる。あの娘が。


 そして弟が。


 神の御使いが。


 窓に映る自分の顔はさっきまで見慣れていた筈の自分の顔とは違う気もする。涙で自分の瞳に薄い膜が出来ているからだろうか。でも、自分の顔なんて、もう忘れた。そんなことよりも、観るものと観られるものとは同一だ。だからもうすぐ私にとっての世界も変わるんだろう。期待を込めて、悔い改めて、祈りを込めて窓ガラスを開ける。


 救いの力が臨むことを信じて、神の御使いの到来をじっと待つ。

                                     (了)      


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