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自動記述の白い壁  作者: polisha
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逃走

 今日も外は熱いですよ今年は猛暑ですね。検温の時間に看護師がそう言っていた。去年は冷夏だったのにホント今年は大違いですねぇ、アチラの皆さんはタイヘンですねぇ、とも。

 去年の夏、俺は何をしていたのか記憶が定かではないが、そのうち思い出すだろう。とにかく今は、あの時のことに集中しなければならない。弟は泡を吹き白目を剥いて涎を垂らし絶命した。安堵する俺。小学五年生の殺人者の誕生。脱糞したようで異臭漂う弟を俺は部屋の布団に横たえた。そして、帰ってきた母親を、弟は調子が悪いらしいけど、熱は無いから安心してね。面倒は今日だけ僕が見るからお願いだから今猛烈に兄弟愛に目覚めているの。だからお願いだから頼むから今日だけ任せてね、と説き伏せ、二階の部屋に入ってくることを阻止した。まあ、明日、起きたら死んでたってことでいいでしょう。


 しかし、翌朝寝坊して、慌てて一階の食卓へと駆け下りた俺が目にしたのは、ちゃんと幼稚園の制服にお支度を整え、悠々とトーストを齧っている弟の姿だった。妙な違和感。この時まで昨日のことをすっかり失念していたが、弟の顔を見て思い出した俺は息を呑んだ。


 オマエノコトキノウコロシタヨナ。  

 ナンデココニイルンダヨ。


 膝に力が入らず、その場にぺたんと尻を落とす。小五にして初めて知る『腰を抜かす』の意味。よろよろと立ち上がって席についた俺を、弟は紅茶を啜りながらじっと眺めている。菩薩像のように有るか無しかの笑みを顔に張り付かせたままで。

 こいつはやはり天使だ、

 神の使いだ。

 俺は慄きながら目を逸らした。あいつの羽は正面からも見えるほど成長してやがる。まるで宗教画の光背のように肩口から斜め上に羽は伸びており、その周りには明るいブルーの光線が明滅していた。  

 天使は敗北を知らず。

 汝、直ちに改心し、許しの門を頭を低くしてくぐれ。


 そんな言葉がどこからか聞こえた気がした。少なくとも、テレビからではないようだ。でも、例え許しの門をくぐったところで、俺にとっての救いがもたらされる訳でもない、そう思えてならなかった。たとえ許されても、所詮、俺は弟の後塵を拝し続けることとなる。先を歩くことは決して出来ない。そりゃ、そうだろ。ヤツは天使だもの。でも永遠に弟の後ろを追いかけ続けるなんて辛過ぎる。あのがらんどうの地獄だって、看板掛け替えて定義を変えて、そこが地獄ではなくなるっていうだけで、空虚であり続けるのは変わりがないかもしれない。俺はまたきっとあそこへ追い込まれる筈だ。

 俺は半熟の目玉焼きの黄身をかき混ぜながら必死になって考えた。そしてひとつの結論を得た。 

 だったら俺が世界から逃走すればいいじゃない。この間違った世界から。

 今までみたいな闘争ではなく、逃走を。

 来年になれば、弟も小学校に上がってくる。俺の楽園は完全に失われるんだ。それだったら、今すぐ家を出よう、町から出よう。逃げよう逃げようどこまでも。観るものと観られるもの。観られることのない地平まで、そのもっと遥か先まで逃げつづけよう。気概がへその奥の方から脳天に向かって、とぐろを巻き螺旋状に熱くこみ上げてくる。この力に身を任せれば、きっと俺は、きっとワタシは逃げきれる、そう思った。だが、俺の導き出した結論は脆かった。立ち昇るエネルギーは鼻の穴から少し漏れて、耳穴からも出て、尻の穴からも逃げた。毛穴からも蒸発する水分のように消し飛んでいって、気概はすぐにすっかり無くなった。

 駄目だ。こいつからは逃げられない。こいつはきっと俺を観る。探す。探さずして発見する。

 だって世界はこいつの愛で満ちているから。

 ならば、取るべき手段はただ一つしかない。

 ワタシガコノヨカラキエテシマエバイイ。


 テレビに写った天気予報を無感動に眺めながら、俺は急造の自殺肯定論者となった。同時に志願者にも。そして、どうせ遅刻だからとのんびり家を出た俺は、通学路から逸れ、地元では子供たちの格好の釣り場となっている池に身を投げた。すぐに沈んでしまうに違いないという楽観的な予想に反し、暫くは身体は浮いていた。が、やがて水を吸った衣服が重くなり脚の方から身体が沈み込んでゆく。それからはすぐに引きずり込まれるように首元まで沈んだ。


 俺が最期に見た光景は、鮮緑の葉を茂らせた木立がざわめく岸でいつものように薄く笑っている弟の顔だった。その時、猛烈な後悔が襲ってきたのを覚えている。

 享年十一歳。

 こうして俺は最悪の逃走を行ったのだ。

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