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自動記述の白い壁  作者: polisha
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天使

 俺はたった一度だけ空を舞う天使ってヤツを見たことがある。


 季節は覚えてはいない。

 でも記憶に残るあの空の高さから言って、おそらくは秋の筈だ。いや、違う。あれは間違いなく秋だ。それははっきりしていることだ。そんなことすら分からなくなっているなんて、俺は矢張りどうかしているらしい。

 五歳の秋。幼稚園の年中の時のことだ。

 じっとしていられなかった性質の俺は、園内のお教室でのひらがなカードを使った授業があまりに阿呆らしく思え、いつものように教室を飛び出し、砂場で小さなバケツで山を作っては壊し、家を作っては崩していた。毎度のことだから先生には放っておかれていた。そんな俺がふと上空を見上げると、二階建ての幼稚園の園舎の少し上を、白金色をしたモノが糸を引くように飛んでいる。目を凝らすと先ず大きな白い翼が目に付いたので、最初は白鷺かなと思ったが、違う。それは既に当時、幻視慣れしていた俺でも見たことのない、アリエナイモノだった。 

 夕陽の余光を纏ったような僅かに赤みがかった栗色の長い髪を風に靡かせ、白い布を足元まで身体に巻きつけた女性の姿。いや、単に髪が長かったから女性と思いなしたのかもしれない。本当は、男性の姿だったのかもしれないし、そもそもアレに性別なんて無かったのかもしれない。そして背中から生えているんだろう二枚の大きな翼はゆっくりと羽ばたいていた。

 絵本の中から抜け出た天使の姿そのまんまだった。翼を含む全身は、空中だったら在り得る筈も無い白金色の光に覆われている。それが飛行機雲のように、金色の飛沫のようなものを後ろに散らしながら、飛んでいるのだ。今だったら、その姿を見たら合掌するなり願い事をするなり逃げ出すなりするのだろうが、当時の俺はただただ呆けたようにその姿を見ているだけだった。


 そして、お帰りの時間となり、さっき見たばかりの異形のモノについて母親に話そうと勢いよく自宅のドアを開けた俺の目の前にいたのは、隣家のおばさんだった。その人が言うには、妊娠中であった母親は俺が天使を見たあたりの時間に急に産気づいたらしく、俺の世話をおばさんに頼んで病院に向かったとのことだった。


 そして、その夜、弟が生まれた。


 見てごらんよ可愛いでしょう。あなたの弟よ。この寝顔天使のようだよね。見せてあげたいから先生に頼んで抱っこさせてもらってるのよ。出産疲れで青ざめているのに幸せそうな母親が言った。親父も嬉しそうだ。こりゃ、かわいい子だよなぁ。我が家の家系かな。母親の胸に抱かれた皺だらけの赤ん坊を前に、俺は何ともいえない屈辱でいっぱいになっていた。そうだよ、母さん。こいつは天使なんだよ。僕なんかとは違うんだよ。


 弟がハイハイできた。すごいすごい普通より四ヶ月は早いよ。今日はタッチできたのよ。すごいすごい、こりゃ天才だ。今日はマンママンマって言ったのよ。でも、マンマってご飯じゃなくってママのことだよね。きっと『ママ』って言ったのよね、賢いわねえ。毎日毎日が弟祭りだ。俺は、ささやかな抵抗を試みた。今日は幼稚園の先生に鉄棒の逆上がりが上手いわねぇって誉められたよ。今日は一日、教室でじっとしていられたよ。必死になって自己アピールに励んではみた。もっと愛して僕のこと。もっと見ていてよ、ワタシのこと。

 だが、全てが無駄だった。天使の前では、俺の邪気は歯が立たない。愛されるための策を弄しても空回りするばかり。主役を乗っ取られ脇役へと成り下った俺を見てくれる人はいなかった。観るものと観られるもの。観るものが不在のとき、果たして観られるものは存在するのか。両親の唯一の期待、希望であった筈の俺のことを両親が夢見ることが無くなった時、俺は在るのか。認識論と存在論の混交した問いを持ったのはこの時が初めてだろう。もっとも両親が俺に愛を全て注ぎ込んでいたなんてのははじめっから幻想だったのだろうけれども。あるいは美しき誤解か。両親が子供もう一人欲しいね、なんて二人して相談をしていた瞬間に、俺はこの地上から姿を消していてもよかったんだろう。


 あいつは俺から見れば天才だった。二歳にして日本史に通暁していたとか、三歳で水墨画を描きショパンを弾き熟した、とかじゃない。では何の天才か。それは愛の天才。愛される資質。とくに両親の気を引いたのは、その集中力だった。興味関心があっち飛びこっち飛びする俺とは、遺伝子構造自体が異なるんじゃないかと思うくらい、ヤツはひとつところにじっとしていることが出来た。朝、絵本を見始めれば夕方まで集中が途切れることなく何かを読み続けた。その周りにはやつの手により家中の本が整然と並べられていた。童話や俺のために母親が買ってくれた図鑑、小学生用の読み物。オヤジの買ってきた週刊誌や夕刊紙まで並べては片っ端から読んでいた。ひらがなすら碌に読めやしないのに、その類まれなる集中力で文字を眺めていることが出来たのだった。ご飯はゆっくりよく噛みましょうねと教えられれば、ヤツは何百回も咀嚼した。モグモグモグモグ・・・・・・。嚥下することを忘れたかのように一回一回噛むことに集中し、ミクロのレベルまで分解し、原子と原子の隙間まで味わうようにヤツは咀嚼した後、漸く飲み込むのだった。普通の親なら心配してもおかしくないと思うが、うちの両親は大喜びだった。こんなに集中力があるなんて、きっと将来は偉人だよ。ニュートンだよ。ははは。


 俺はアイツに勝てるわけはない。アイツの後ろに俺は見ていたからだ。その背中に、まだ肩甲骨にちょこっと付いているぐらいだけど、小さな小さな羽根が生えていることを。母親と俺と弟の三人で風呂に入っているときに俺は見たのだ。その羽根を。多分、母親にも見えていた筈だ。母親が洗い場で身体を洗い、湯船に浸かっている俺たちから目を離した時、俺は弟の小さな二枚の羽を毟ろうとしたこともある。アヒルの玩具を湯に浮かべ遊ぶ弟の背後から。しかし、羽を掴んだ筈の俺の指は素通りしていた。掴もうとしてもつかめない。可視の存在なのに実体がない。驚愕する俺のことを、母親が手桶でシャボンを流しながら咎めるような、軽蔑するような目で一瞥したのを覚えている。


 幼稚園で見上げたあの天使。それが弟であることを俺は直感していた。確信していた。あいつは天使の受肉化身応身だ。当時、俺は、家にあった百科事典の『天使』の項で仕入れた知識で、そう解釈していた。そして弟は俺を見抜いている。俺の邪心、ダークサイドを。俺の作り上げた稚気に満ちた俺。無駄だと思いつつ母親の愛情を奪い返そうと必死になっている俺のことを。家の中には天使がいる。御伽噺でも何でもなくって、現実に天使がいる。それも同じ子供部屋に。夜寝ているときも朝起きたときも隣にいるのは天使――。

 学校だけが俺の楽園だった。天使のいない楽園。そして下校時間で楽園追放、失楽園っていうのが日常だった。生まれてきたとき既に楽園を追われていた俺は、第二の楽園も追放されるのだ。


 いつしか俺が弟を殺そうと思い始めたのも自然な流れだろう。しかし天使を殺害するなんて出来るのか。小四の夏、大型の台風が愛媛を直撃し便所の小窓がガタガタと震える夜、便器に跨ったまま自分の考えに恐怖し震えながら俺は思案した。汲み取り式の便器の底から鼻腔を刺激する嫌な臭気が立ち昇ってきた時、俺は閃いた。そうだ、ヤツを俺が認識しなければいいじゃん、と。徹底的に圧倒的に完膚なきまでに無視を決め込めばいいじゃないか。視界に入れず、たとえ視界に入ってきても意識をしない、認識しない。弟の存在を思いもしない。愛の端緒は関心だ。きっとヤツの身体は人の愛で出来上がっているんだろうから、愛のキズナを断ち切ってしまいさえすれば――それが俺から弟へという貧弱なものであっても――、もともと現世に馴染まぬ天使の存在は消えてなくなってしまうに違いない。俺はこの考えに憑りつかれた。朝から晩まで心の中で「認識せず」と唱えていた。でも、もちろん、その主体は俺だった。「僕は弟を認識せず」のつもりだった。しかし、言霊の力か、それとも無意識下では主体が喪失するせいなのか、呪文を間違えた魔法使いよろしく、『認識せず』にされたのは、俺の方だった。 

 日を追う毎に俺の存在感が家の中で薄くなる。母親なんて俺の分の晩飯の支度を忘れる始末だ。それどころか学校でもハブにされ、小学生にとって最大の娯楽であった休み時間のドッジボールにも人数ピッタシだからと入れてももらえない。これはおかしいと思い悩み、きっと俺の企みに気付いた天使の反撃だと思い至ってからは、呪文により一層、精を出す。しかし、季節が変わっても因果律は捻じ曲がらない。俺が強く思えば思うほど、俺の存在はみんなの中で希薄になっていった。天使に呪いをかけようとした俺がバカだったのか。下校途中、家が近所なので偶々帰りが一緒になった隣のクラスの女の子に言われた一言が、「アンタって、影薄いよね」だった。『影』が俺の学校での存在感のことなのか、本当に砂利道に出来た俺の影が他の人と比べて薄かったのか、その日初めて先生以外の人から話し掛けてもらえた嬉しさと気恥ずかしさとで俯いてしまった俺は、尋ねることが出来なかったけれど、きっと、影自体が薄くなっていたんだろうと思う。多分、影が薄いどころか俺を通して向こう側の景色さえも見えたんじゃないかしら。

 俺と二重写しに、でも俺の姿よりもはっきりと、秋の夕陽を背負い赤く染まった山々の稜線が。


 天使に弓引くことは、その親たる神さえも敵に回すっていうことだ。そんな俺が死後、天国に赴くことは無理だろう。きっと地獄だ、煉獄だ。俺はそう思いこんだ。そして最初こそ薄ぼんやりしていた地獄のイメイジが段段明瞭に、その輪郭がはっきりと、ありありと実在と、なってくる。

 こうして地獄の幻視がはじまっていった。

 くるくると目眩く地獄の幻視―――。小学校四年の三学期から五年生に上がったばかりの頃、それは何時でも、何処にいようとも突如俺のところにやってきた。目眩がしてきて視界が薄闇の中にいるようにぼやけ、世界がくるりと反転する。

 其処は全くの空虚。

 何にも無い場所。

 完全な空っぽ。

 だが遠くには、箱のように四角くて白っぽい建物がひとつ浮かんでいる。地面なんてみえない。そこに俺という認識主体のみが放り出されている。

 普段、世界はあれほど色に満ちていたのに、ここは蜃気楼のように儚く見えるひとつの建物を除いては、色が無い。暗いがらんどうの場。その光景――光景という言葉が適当なのか分からないが――を言葉で掬い上げ、定義することなんて出来ない。ただ突然くるりと世界は様相を変えることだけは確かだった。

 それが、地獄。

 

 何故、あれを俺が死後行くだろうと考えていた地獄と結びつけたのか呼び始めたのか判然としないのだけれども、徹頭徹尾リアルだったことは確かだ。だが、そのリアルさは他人には伝わらない。お母さん、大変。さっきもね世界がくるって回って、お母さんもいなくなって、ただただ、がらーんとしたんだよ。そこではワタシの声だけが大きく高く響くんだよ。口に出していった言葉じゃないのに、思ったことが響くんだよ。こわーいと思うと、こわーいこわーいこわーいって。やまびこってきっとあんな感じだよ。そして、声だけが空っぽの中に何層にも重なって沈んでいくんだよ。とにかく、怖いんだよ。そうなんそうなん。いつも大変なぁ。でも大きくなったら治るからそれまでの辛抱な。お母さんなぁ、今、お洗濯しとるき。だから、また後でなぁ。

 こうして俺の訴えは、同じく幻視体質である母親にすら軽くスルーされてしまうが、それを唯一、キャッチしているのが弟だった。あいつはいつだって薄く笑っていた。憐れむようなその表情は、俺にはひどく冷酷に感じられた。そして母親が二人仲良く待っててなぁ、お願いよと言って、夕食の買出しに出て行った後、俺は弟を縊り殺したのだ。

 天使、殺害サレル。

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