触れる
「私を理解してくれたのあなたが初めてだから・・・・・・」
俺の了解も無しにベッドの上に腰掛けている彼女はそう言って――勿論、彼女は口なんて開かなかったけど――微かに笑った。恥ずかしそうに俯いたままの姿勢で。その恥らう表情なんて、さっきとキャラが違わないか、そう思ってはいても相手が相手だけに指摘するわけにもいかない。こういう場合どうするんだっけか。俺は自分の中からありったけのノウハウを引き出すべくしばし立ったまま沈思黙考した。
幻視自体は幼い頃から頻繁に経験している。色んなモノが見えたとしても、小さい頃なら、
見てみてお母さん、あそこあそこ、お部屋の端っこの変な色。
あら、買い物の途中の神社ででも拾ってきちゃったのかねぇ、
という具合に、家族の中では当たり前のこととして、日常のひとコマで済む話だった。
もちろん、俺の家の中だけに限定して通ずる話であることは幼心にもちゃんと理解していた。だが幼稚園に入ってからはマイッタ。明るく元気な園児たちの顔の周りに肩の背後に見える見える。色々なモノいろんな色が。とくにあの頃は色が良く見えた。姿としての『形』ではなく、雰囲気としての『色』が。多分、モノの形とそれを指すコトバが俺の中で上手く繋がらなかった、つまりは認識力がまだ形成途中だったためだろうと思っている。形は理解できてもそれが何かが分からない、となると、結局、印象に残るのは色ばかり、という感じだったのだろう。
とにかく、群青色やセルリアンブルー。山吹色からビリジアン。毎日が十二色のクレヨンでは足りない。二十四色三十二色の水彩絵の具をぶちまけたような色彩の中にいた。だから、普通の幼稚園児にとっては、『みずいろ』と言えば、『みずいろ』という一種類しか存在しないが、俺は既に同じ色の概念でも、明るいモノから暗いモノまで細かな違い色んなバリエーションがあることを理解していた。
そして、それぞれの色に、「幸福」と「不幸」、「善いもの」と「善くないもの」があることも。
いずれにしたって、色彩感覚は図抜けていただろう。その後語彙が増えるに従い、残念ながら色への鋭さは失われていったけれども。
田舎にいた頃は幻視のことは誰にも言ったことはない。到底理解されることは無いと考えていたし、不可視のものが見えるだなんて、気味悪がられるのがオチだったろう。
俺は学校という舞台では、俺にとっての本質的な部分――幻視――を決して明らかにしないという台本を完璧に演じきったつもりだ。
そして、そんな舞台役者であり偽りであり仮相である俺の後ろに、本当の俺が隠れている、あるいは隠されている、そう考えていた。
格好良く過去の自分を語るとすれば、だが。
突然、左ひざの中に熱湯を注ぎ込まれたような痛みを覚えた。いけない。突然の彼女の訪問という予想せざる難局に直面したことから、過去に逃げ込んでしまったらしい。現実逃避は終了だ。それにしたって貫徹明けの疲れた頭には衝撃が大きすぎだよ。左ひざの痛みで現実に帰ってきた俺。そうそう、思い起こそうとしていたのはノウハウだった。こういう場合は取り敢えず大人しく帰っていただくに限る。さっきまでとはシチュエーションが真逆だし。彼女がいる場所へ俺が赴いた時の主導権は俺にあった。引き返そうと思えば引き返すことが出来た。でも今は違う。ここは俺の病室。客であるべき彼女だけれど、先に部屋に入られたことで主導権は彼女に握られている。ましてや病室を「病室」たらしめている象徴のベッドまで、椅子代わりに取られている。椅子取りゲームなら俺の敗北だ。何にせよ大人しく帰ってもらうのが幸いでしょう。だから俺は静かに言ってやった。
それはあなたの勘違い、だよ。少し関心を持っただけで。もういいんですよ。どうぞお引取りを、と。
触らぬ神に祟りなし、と言うではないか。だったら、刺激せぬ霊に障りなし、そうに違いない。根拠はとくに無いけれども、古人の知恵の応用だから大丈夫だろう。
「どうしてそんなこと言うの? 私はあなたを待っていたのですよ、ずっと前から――。私はそれが分かったのです。きっと、ですけれども・・・・・・」
その理屈が変であることより、むしろ口調――彼女から俺の頭の中へと突き刺すように伝わって来る思い――がさらに変わったように思えたことのほうが俺を驚かした。艶かしくて高慢で、どこか自信の無さが見え隠れするような危うい雰囲気。黒いノースリーブからうかがえる身体のラインは成長途上の雰囲気なのに、この立ち昇ってくるようなエロティシズムは何なんだ。ひょっとすると、色気ってギャップから生じるのかもしれない。
不意に思いつく。
そう、これは、風にそよぐ後れ毛だ。それも信号待ちをしている時に偶々隣に居合わせた、憂い顔で信号が変わるのを待っている女性の、後れ毛。自動車の排気ガスを含んだ風にそよぐ、その後れ毛――。
いけない、また現実から遠く逃げ出そうとしてしまった。疾走しようとしていた。今、ここで一番大切なことは、彼女の『ずっと以前から俺を待っていた』とかいうコトバ。全く意味が分からないだけに、余計に恐ろしい。だが複雑な気持ちもある。黒目がちで色白の女の子が俺のことを待っていたなんて、嬉しくないわけじゃあない。「黒目がち」で「切れ長の目」、「色白」なんてスペックだけで見れば、むしろ好きかもしれない。そうそう初恋の記憶って言うのかな、と遠い初恋に思いを馳せようとした瞬間、左ひざが痛んだ。どうも過去を追想するあるいはしようとするだけでも左ひざは痛むらしい。今度、担当医に相談してみよう。手術は成功したはずなのに。でも、この娘の場合、痩せすぎだ。スレンダーなんてモノじゃない。あまりに細すぎるし、あばらとか思いっきり浮き出しているんじゃないかしら。拒食症としか思えない。幽霊にも拒食症があるのかは知らないが。それとも、俺を待っていたと言っていたけれども誰か何かを待っているうちにここまで痩せ衰えてしまったって訳だろうか。
カーテンがわさわさと揺れる。自らの窮地を救うエスプリの利いた言葉が見つからぬまま黙り込む。沈黙は金の筈だけれど、この場合は適当か否か、自信は無かった。そのとき、朝食、お持ちしましたよっ、とノックも無しに勢いよくドアが開けられ、早朝からテンションの高い看護師が朝食を載せたトレイを持って入ってきた。
ごめんなさい、検温まだでしたよねっ。計っておいて下さいね。看護師はトレイの上に体温計を置いた。入院も一週間ぐらい経過すると扱いもぞんざいになってくるものだ。
看護師が退出したので振り返ると、彼女はまだベッドに腰掛けたままだ。
朝日の中君は腰掛けている口元のうぶ毛は朝露を乗せた花びらのように光っていたよ―――。
突如詩心がうずく。ヘボ詩人の血が。彼女はまだ居座るつもりなのか。消え去る様子の無い彼女。一体、どうすればよいのか。彼女に、隣に座るよ、僕のベッドだから、と言って、俺は彼女から少し間隔を開けベッドの枕側に腰掛けた。膝の上にトレイを乗せ今朝のメニューに仕方なく見入る。
極薄の食パンが二枚。目玉焼き。マーガリン。カップに入ったコンソメスープ。以上。メニューというより献立といった方が相応しい。食欲は涌きそうにもない。テーブルにトレイを置いてから、君も食べる? と膠着状態を打開するためだけにどうでもいいことを聞く。
が、返事はない。まぁ、そりゃそうだろう。朝食をいただく霊なんて、聞いたことないし、きっとフェアリーテイルを生んだイギリスにだってそんな記録は無いだろうよ。この状況に焦れた俺は、半ば捨て鉢になって言った。この部屋にいたけりゃ、好きなだけいればいいよ。この際、あなたの「俺を待っていた」とかいう気持ち、受け止めるよ、と。
すると突然、俺の隣で彼女がえずいた。彼女が口を両手で押さえ前屈みになる。拒食症の人に食事を勧めたからか?
嘔吐。
苦しそうだ。彼女の細い指の隙間からは、ぬらぬらと粘液状のものが流れ出している。はじめは糸を引くように無色のものが少しずつだったが、それが血の混じったような赤色に変わってからは、彼女は堪えられなくなったのか、口元を押さえていた手を外して一気に勢いよく吐き出した。
が、吐瀉物は止まらない。
赤から黄色となり群青色に薄緑色に、そして青色にと目まぐるしく変化変色して止めどもなく流れている。臭気は全く無い。ただただえずく彼女の口からは今度は錆色に変化した反吐が奔流のように出続けている。その白い手は膝の上できちんと重ねられていた。
彼女の吐瀉物は瞬く間に部屋の床一面を覆い尽くし、すぐにその嵩を増して、俺のくるぶしあたりまでも包んでいる。
でも、不快じゃなかった。
嘔吐し続ける彼女。気づくともう、俺はふくらはぎの辺りまでも彼女の戻したものに包まれ彼女に満たされていた。このまま部屋一杯の反吐に溺れてしまうっていうのもいいかもしれないな。何故か分からないのだが、この場から逃げようという考えは全く過ぎらず、従容として事態を受け入れる心持ちになっていた。だが彼女の口元から吐き出されるモノは次第に減ってくる。そして最初みたいに細い、銀色の糸となった。それは室内を照らす蛍光灯の光の束を集めて瑠璃色にも見えた。
キレイだと俺は思った。
彼女は泣いていた。赤い目をして泣きながら反吐を垂らしていた。涙は透明。生きている人間と同じだった。透明な涙は口元で瑠璃色に交じり合いながら下に垂れていく。彼女の赤い目は、涙が床に垂れ落ちるあたりにぼんやりと注がれている。そこでは小さい泡が浮かんでは消えていた。
直感がやって来る。
言葉を越えて言葉を使わなくっても俺は理解した。
彼女が全部吐き出したことを。
そして彼女がここに在ることを知られただけで満足したってことを。
拒食症になるまで苦しみながらも待ち続けた何か。それが何か、誰のことなのか迄は分からないけれど、そのことが理解されただけで嬉しくって、彼女は何年何十年分かの思いを今、ここで俺の前で吐き出している。待っていることを誰にも知られなかったことへの負の感情も一緒に吐き出している。そうして吐き出したくって、彼女は待っていた。
俺のことを。
少々強引だが、辻褄はあう。オーケーです了解です何も聞くまい何も語らせまい。俺は今全てを――勿論、彼女の何分の一かの全てを――悟ったのだ。理解してあげたのだ。俺は彼女の精神に触れた気がしていた。そして不健康そうな彼女の身体にも触れたくなっていた。
そろそろと左手を彼女に伸ばす。
だが彼女に指が届いた瞬間、彼女はぴたりと吐くのを止めた。彼女は床に水銀の雫のような唾を吐いてから、顔を上げ隣に座る俺を直視した。はじめて焦点が俺の目に結ばれた。もう目は赤くない。黒目がちのその目は笑っていた。そして膝下付近まで溜まっていた筈の反吐もキレイに消えている。彼女を覆っていた灰色の影ももう無くなっていた。
何も言わなくていいよ俺にはよぉく分かったよ。俺も彼女に笑いかけた。
そして彼女は消えはじめた。
その姿がだんだん薄くなる。
彼女の向こうの壁が透けて見えてくる。
シミまで見えてくる。
俺はウインクを一つした。ウインクってこういうときに使うのねなんて思いながら。
姿が消え入る瞬間、彼女もウインクを返してくれた気がする。
幻視の彼女。実体の無いあの娘。
だけど、俺の左手の中指の先には、彼女に触れたときの有り得る筈のない感触が確かに残っている。