彼女
待合室で見掛けた女の子が気になる。
術後五日経って松葉杖なしで歩けるようになった俺の視界に入ったあの娘。年齢は十五、六歳だろうか。
真黒な髪をぴたりとシニヨンに纏め、黒のノースリーヴに黒のスカート。
目尻の上がった黒目がちの娘。
ただ、尋常じゃなく痩せている。
肩から両腕のラインにしてもスカートから除く色白の脚にしたって折れそうなほどに細い。
彼女は健康さが露程も感じられない細い足を揃えて待合室の席の一番後ろの列に座っていた。何を待っていたのだろうか。受付が終了するぐらいの時間まで待合室に彼女はいた。
歩ける喜び、まさに喜び、幸せは平凡な中にあると悟った俺が、まだ痛む左足を引き摺りながらも、小躍りしたいような気分で病院内を逍遥し、待合室を通りかかる度、俺の視界に彼女は必ず入り続けた。
彼女の目は前方に注がれていて焦点を遠いところに結んでいる。ただ黒目の大きな目に何かの光景が写っているような色はなかった。色白の肌を持つ彼女の目には、生きている人としての色は無かった。
あれは死人だ生きてはいない少なくとも肉身の俺と同じ形式での生存はしていない。
だって彼女の輪郭が薄ぼんやりとしていたから。
その消え入りそうに仄かな輪郭が空気に融けこむ外縁、肩口から後頭部にかけてを灰色の影が覆っていたのが気になる。
あの娘は死んでいる。そしてあの場に何かの思いを残している。何かを待っている。
それぐらいは俺みたいな鈍感にも分かる。人は皆思いを残す。一回限りの訪問だった老婦人にしたって、そうだ。婆さんだって自分は未だ生きていて入院生活を続けているっていう思い込みがあるから部屋の壁のシミに成り下っても現世に留まり続ける。きっとあれから味塩撒いたせいで抜け出て来れないだけで。だから、あの娘はこの病院に待合室に何らかの強い思い入れを持っている。待合室に自分の存在を突き刺すような強い思いを持っている。それを確かめるのは俺の役目だ。医者の連中は怪我や病気を人間の自然治癒力に期待しつつ治療するのが務め。心療内科医、精神科医だって仄聞するところじゃ、いくら薬を処方したところで結局は本人の心が元の円満な姿に戻ろうとする反発力なしには成功しないらしいじゃないか。だから精神にも自然治癒力はある筈だ。きっとあの娘もまだまだ治癒力持っている。だったら今や立派な怪我人の俺だって彼女の内から治ろうとする意志や欲求を引き出す程度のお手伝いなら可能かもしれないし、幻視を除けば退屈な入院生活の中で、ひとつくらい刺激があっても良さそうだ。まあ、ぐだぐだと後付の理屈なんてどうでもいい。
あの娘が気になる。
俺があの娘を癒してみせる。
結局翌朝まで寝つけやしなかった。一睡もせぬままに、決意を秘めて待合室へと向かう。
午前六時。
誰もいない無人の筈の待合室。
しかし彼女はいた。
昨日と同じ場所に同じ姿のままで。三人掛けの椅子が横に二列、縦に三列並ぶ待合室の最後列。受付から見て一番左の席に。
早朝で清澄な筈の室内の空気には、彼女の持つ淡く儚いが、暗い――コノヨノモノデハナイ――雰囲気が沈殿しているような気がした。
話し掛けても大丈夫なのか。俺のやろうとしていることって後戻りの出来ない致命的な何かを紐解くことじゃないのか。左足を引き摺って彼女に近付く俺には、切り立った岸壁から遥か底を覗き込もうとしている時に襲ってくるような怖気が生じていた。でも、スリルがあるから人はついつい深淵を覗いてしまうんだろう。そこに何があるのか本当は分かったもんじゃないのに。だから、彼女の斜め後ろに立ったときの俺に躊躇は無かった。その華奢な肩越しに声をかける。
いつもそこにいるんだね。いつもって言っても、昨日初めて見かけたんだけどさ。
だが、彼女は動かない。微動だにしない輪郭すら動かない。
けれどもその輪郭が風にそよいだかのように一瞬だけ揺らめいたように感じた。不吉なイメイジを喚起する灰色の影も伴って。
俺の声が届いているのは確からしい。もう一度声をかける。
今日もここで待つの?
またもや彼女の姿が不安げにそろりと揺れる。彼女は誰かの何かの訪れを待っている。待合室にいるぐらいだから自分が呼ばれるのを待っているのか誰かが診察を終え帰ってくるのを待っているのかは分からないが、いずれにせよ彼女は何かを待っていると俺は直感していた。
そんな直感は彼女を一目見て以来去ることは無い。直感って面白いと俺は思っている。直感とは、実は全然不思議なものではなくって、知性理性の働きを動員した演繹から来る感覚であるという考えもあるかもしれない。だが、俺はそれだけだとは思わない。
あれは単なる経験則とかじゃあ、無い。
むしろ天啓に近いモノだ。
勿論、種類も幾つかある。考えに考え抜いた末に不意に天降ってくるような、まさに天から祝福の花びらのように降ってくるとしか言えない直感もあれば、突如体内か脳内か精神の枠の中で火花が弾けるように閃くものもある。この時の直感は胸の底から湧いてくるような感じだったけれども。といっても岩の裂け目からの湧き水みたいにキレイな感じではない。
道路排水溝から汚水が逆流してくるような感じだ。
不吉で嫌ぁな直感だ。
「――――そう、待っているの」
はっきりと彼女の声が聞こえた。黒目がちの眼は俺を見上げている。だが、その焦点は俺を通り越して遥か後方に結ばれている。声が聞こえたと言っても老婦人の時と同じで彼女の口は動いていなかったから、勿論空気中の振動としての音ではない。直接鼓膜に音が文字として刻みつけられた感じだった。でも、それは視覚に訴える文字や記号じゃない。俺には彼女の声が聞こえたのだ。か細いけれども明瞭に聞こえたのだ。待っているって誰をいつからいつまでこの場所で・・・・・・。すぐに全ての疑問への答えが返ってきた。
あの人ずっと前からあの人が帰ってくるまでこの場所で。わたしはずうっと待っている――。
彼女と向かい合っていたのは、精々一分足らずの時間だったと思うが、俺はひどく疲れていた。急に左膝が痛み出す。体重を支えている右足から力が抜けて膝から折れそうになるのを懸命に耐えてはいるが、エネルギーが気力が萎えていく。半透明の圧縮袋に押し込まれ、掃除機のノズルで空気を抜かれている布団の気分ってこんな感じかも、と思った。いけないいけない駄目だ駄目。布団にシンパシーを感じてる場合じゃない。とにかく俺はここにいちゃあいけない。それが次に浮かんだ直感。今度は天降ってきた。心の中で強く警鐘が鳴る。早く部屋に帰ろう。白い個室に戻らなきゃならない。
「―――あなたも一緒に待ってくれるの?」
来た来た。やはり深淵を覗き込むんじゃあなかった。これじゃあ心霊譚だよ夏の怪談。こんな体質になぜ母親は生んだんだよ、恨むよ全く。いけない。「恨む」だなんてネガティブな感情を持っていると、また別の変なモノと通じて幻視が始まってしまうかもしれない。
ありがとう。
皆さん今まで有難う。
神様有難うございます。
仏陀もキリストも有難うございます。
オリンポスの神々よ、心から感謝いたします。
取り敢えず思い浮かぶ信仰の対象たる偉大な存在に呼びかけ、心の中を感謝の思いで満たす。感情は言葉の後からついてくる。言葉は露払いであり、感情はその後をしゃなりしゃなりと付いて来る。早く来い、有り難さ。まだかよ、感謝の念。焦る俺を少しずつ満たす、日本語で「ありがとう」という言葉で表現される感情。
その時、彼女との「対話」が切れた。ケータイが突然、圏外に入った感じ。彼女の視線が俺の方向から外れた。顔の向きを変え俯き加減で前方に視線を落とす彼女を気の毒に思ったが、俺は一緒には待たないよと容赦なく言ってやった。言葉にして。俺はあなたとは違うから、とはっきり言い放つ。彼女からはもう言葉に先立つ思いは伝わってこない。それからは後ろも振り返らずに病室に精一杯の早足で戻る。左足が痛むけど構わない。俺には任が重すぎた。部屋の前には半透明の車椅子のじいさんがいたけれど素通り、まさに素通りして部屋に入った。後ろ手でドアを閉め、ベッドに仰向けに上体を横たえる。それから痛む左足、そして右足をゆっくりとベッドに乗せる。足首まで鳥肌が立っていた。黒ずくめの格好の彼女に会うからとお揃いを気取ってちょいとめかし込み、療養中の精一杯のお洒落のつもりで、黒のハーフパンツに同じく黒のタンクトップを身に付けていたが、どちらも冷や汗か脂汗かで身体に張り付いている。壁掛けの時計を見ると六時七分。僅か七分間の大冒険。七分間心霊劇場。あれが俺の歪んだ想像力と鬱屈した心のなせる幻覚であったとするなら、俺は早々に整形外科から精神科の病棟に移ったほうがよさそうだ。
八時になれば朝食の時間だ。その前には検温だってある。徐々に「人間の時間」になる。物の怪タイムは終了だ。これからどうする。一眠りしてから様子を見に行くか。それとも、直感に従って、あの待合室に行くのは金輪際やめるか。やはり俺の手には負えないだろうし・・・・・・。
ベッドから降り、薄緑色のカーテンを引いて窓を少し開ける。そして個室の強みをいかして、キャビネットの引き出しから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。喫煙スペースには待合室の横を通らないと、俺の部屋からは行くことが出来ない。だから、彼女との接触を避けるなら退院までこの病室で煙草を吸うことになるだろうが看護師に見咎められなければ構うまい。匂いと灰と吸殻は窓から外に逃がしてやればいいだろう。いや、吸殻は吸い殻入れへ、が良心にも咎められなくっていいかもな。
外からは朝方とは思えないほどの湿気を孕んだ熱気が室内に入り込んでくるのが感じられる。病院の駐車場に面した一階のこの部屋から見えるのは、向いの雑居ビルと車が一〇台ほど留めることのできるスペースだけだ。だが夏の朝だって言うのに、今日も外は暗い。本当なら、駐車場のアスファルトの粒子は朝の光を反射して青く瞬いているはずなのに、全てが暗がりに包まれていた。熱気だけが真夏であることを告げている。
今日もどうやら暑くなりそうだ。結局三本吸った頃には、ニコチンの力か先ほどまでの恐怖は微塵も無くなっていた。手術のため職場に休暇をもらっているこの身、現下の仕事はあれしかないでしょ――。
彼女のこと。
そう思えてならない。
徹夜明けで実は朦朧とし始めており正常な判断が出来なくっていることは自分でも分かるのだが、彼女のもとへ赴こうという欲求が膨れ上がり、どうしようもなかった。俺はカーテンだけを閉めてからティッシュペーパーに包んだ吸殻をポケットに突っ込み、再び病室を後にした。待合室に行く途中の廊下では、出勤してきた病院の事務員と顔を合わせた。小さく挨拶を返し目的の場所へ向かう。左足を引き摺りながら。
だが、そこに彼女の姿はなかった。
気配さえも残してはいない。その代わりに待合室横の玄関には、確か入院の初日にも見た、小さな男の子の姿があった。幼稚園児ほどの年にしか見えないその子は真っ赤な色の野球帽をかぶっている。そして白い半袖のシャツから出た右腕からは、血が流れていた。前に見たときと一緒だ。その子は青ざめた顔に嬉しそうな表情を浮かべて俺をちらと見やってから、奥の外科病棟のほうへ走って行ってしまった。小さな背中は真っ赤に染まっていた。
彼女はどうした。不安に駆られた途端、左膝が痛みはじめた。その個所だけに血が集中して流れ込んでいるようで脈打つように痛みがリズムを刻んでいる。眼が霞み頭も朦朧としてくる。視界が狭くなる。いかんいかん、これ貧血だよ。寝ていないからか。呼吸も苦しい。きっと青息吐息ってこのことだよな。あの娘も待合室にいないことだし、部屋に戻ろう。右足を軸に身を翻し、俺は病室に引き返した。やけに距離が遠く感じられる。だが、もうすぐだもうすぐ、がんばれ俺。自らを鼓舞し一歩一歩足を進める。暗くなってきた視界に部屋の扉が見える。あと少し。朝食パスして一日中眠ってやる。いっそ退院する日までぶっ通しで眠り続けるのもいいかもしれない。漸く辿り着きドアを開ける。
そこでは、彼女が俺を待っていた。