地下鉄で二駅
コーヒーショップのバイト中、ミウはもうすぐ夏休みが終わることを思い出した。
「私、小学生にならないと」
何言ってるの、と同期のユリは笑った。ミウは自分と同じ歳で、ずっとここで働いてるじゃないの、と。
「そう。そうなんだけど……私は小学5年生なの」
今から戻って間に合うだろうか。学校の場所がわからない。この街は飲食店やデパートばかりで、子供の行くようなところが見当たらなかった。
「ちょっとミウ!」
「ごめんユリ、また会えたらいいね」
ミウはエプロンを脱ぎ捨て、走り出した。ロッカーで荷物をまとめようとすると、赤いジャージを着た男がやってきた。
「ミウ! どこに行くんだ」
「あなたは誰?」
「この店の店長だ」
店長がこんな格好をしているとは思えない。本当に店長だったとしても、小学生のミウが遠慮する必要はない。
「どいてください」
「シフトの途中だろう。制服はどうした」
「どいてくれないと帰れません」
ミウは男にリュックを投げつけ、ロッカーにあった傘を口に押し込んだ。男は傘を飲み込み、ばさばさと苦しみながら赤いコウモリになってしまった。もう部屋の隅にぶら下がっていることしかできない。
「悪いことしちゃったかしら。でも早く行かなきゃ」
リュックから財布とパスモだけを出し、ポケットに入れた。小学生には口紅も書類ケースも必要ない。
裏口から外に出て、坂道を下ってケーキ屋の前を走り抜けた。
バイトを始めたばかりの頃、初給料でいちごのミルフィーユを買おうと決めていた。そんなことを思い出し、すぐに忘れた。
マユキ先輩を探そう、とミウは思った。
5年生のミウが知らないことでも、6年生のマユキ先輩ならきっと知っている。
学校への行き方くらい、すぐに教えてくれるだろう。
「えーと……マユキ先輩はどこかしら」
マユキ先輩は小さくていつも走っていて、机の中や本棚にすぐ隠れてしまう。それしかわからない。住んでいる場所も私生活も知らなかった。
* * *
マユキ先輩は高い木の上に引っかっていて、すぐに見つかった。ミウは手を伸ばしたが、指先すら届かない。
「ミウじゃないですか。久しぶりです」
木の下でジャンプをするミウを見て、マユキ先輩は身を乗り出した。
「今撮影中なんです。終わるまで待てますか」
見ると、木の下にはカメラが集まっていた。マユキ先輩は気象予報士で、番組をいくつも持っているのだ。
「この木の上は30度ですが、下界は50度にする予定です。来週は15度にします。オホーツク海気団がイクラとクリオネを伴って来るので、噛まれないように戦ってください」
こんな調子でいつまでも喋っている。ミウは木の幹を揺さぶった。
「あ、わ、わかりました。わかりましたよミウ。終わりにしましょう」
マユキ先輩は器用に降りてきたが、ミウの揺する手にぶつかって跳ね飛ばされてしまった。
「マユキ先輩!」
「大丈夫です。頭から硫酸銅が落ちただけです」
カメラがいなくなってしまうと、マユキ先輩は白衣とヘッドマイクを道の端に投げ捨てた。
「いいんですか」
「いいんです。僕たちはもう小学生ですから」
マユキ先輩はミウと違い、小学生になっても正確な天気図が描けるし、気象予報士になっても鍵盤ハーモニカが吹ける。
「学校は地下鉄で二駅ですよ」
下り坂を走っていくマユキ先輩を、ミウは急いで追った。どんどん暑くなる太陽の光に汗を拭い、紫の雨や雑穀パンの雲を追い払いながら走る。
地下鉄の駅ではたくさんの人がマユキ先輩を待っていた。
「お兄さん、ちょっと予報変えてくれない?」
「そうだよ、思い切って氷点下なんてどう?」
マユキ先輩はあっという間に埋もれてしまう。ミウは大人たちの間をかき分け、マユキ先輩を掘り出そうとした。
「何するんだね」
「私たちは正当な理由があって交渉に来ているんだぞ」
「そうだ、特に理由のない正当性だが」
ミウは雑穀パンのかけらを投げた。大人たちは一瞬ひるんだが、すぐにまた主張を始める。小学生相手に呆れたものだわ、と思いながらも、ミウはだんだん焦り始める。
このままではマユキ先輩が潰されてしまう。
「何か武器になるもの……何か」
その時、ばさばさと風が動いた。赤いコウモリの群れがやってくる。ミウは思わずしゃがみ込んだ。
『ミウ』
『ここにいたのか』
『どうしても学校に戻るのか』
聞き覚えのある声が電子音のように響く。耳から頭へ、頭から全身へ、するすると伝わっていく。
「そうよ! でもきっとあなたのところにも戻ってくる」
補償はできないけど、と心の中で付け足した。
コウモリは赤い口でにやりと笑う。二十匹、いや五十匹はいるだろうか。大人たちを取り囲み、一斉に襲いかかった。
「うわあ! 体が、体が」
「逃げろ……ぎゃあああ!」
大人たちはあっという間にしぼんでぺらぺらになり、地面に貼り付いた。その上にコウモリがべしゃりと落ち、蓋をするように平たくなった。
気づくとそこには、赤黒い穴がぽっかりと空いているだけだった。
「これは……」
「ウサギ穴ですね」
マユキ先輩は穴のふちに膝をついて調べていた。背中に靴跡がついているほかは、傷ひとつない。
ミウが駆け寄ると顔を上げ、にこりと微笑む。
「あいつの世話になるのは癪ですが、使ってやりましょう」
* * *
ウサギ穴に飛び込むと、暗闇の中に轟音が鳴り響き、いくつもの星が下から上に流れた。とてつもなく眩しく、熱い。燃える星だ。
自分も燃えてしまう。
そう思った瞬間、そこはもう地下鉄の中だった。
マユキ先輩は銀色の手すりに腰かけている。
「ミウも座りますか」
試しに座ってみたが、すぐに転げ落ちてしまった。何度も座り直していると、隣の車両から男の子が二人やってきた。
「げ、アザラシ」
マユキ先輩は手すりをつたい、荷物棚に登ってしまった。
何もしねえよ、とにやにや笑う大柄な少年はアザラシ先輩。
切れ長の目をした、魔法使いのような少年はウサギ先輩。
二人とも少し大人びて、でもうっすらと日に焼け、夏を満喫している様子だ。
「久しぶりです!」
「ミウじゃん。まだ夏休みだよ」
ウサギ先輩はポケットから折り紙のケーキを出し、本物のいちごミルフィーユに変えた。
「くれるの?」
言い終わらないうちに、アザラシ先輩がばくりと食べてしまった。
「マユキ、下りてこいよ」
「アザラシとは遊びません」
「今日は人間でいるからさ。食い物もたくさんあるしな」
ウサギ先輩はミルフィーユの他に、メロンパンやオムライスも折ってくれた。
「オレとアザラシは夏も小学生だから、まあ暇だよな」
ミウは首をかしげた。学校がないのにどうやって一ヶ月も小学生でいるのだろう。
ふと、ミウの肩に赤いコウモリがとまった。気づくと逃げていき、吊革のそばにぶら下がった。
「すげーじゃん、お前の折り紙」
「あれはオレのじゃない。ていうかメロンパン食うなよ、ミウに作ったんだから」
小突き合う二人とミウの間に、マユキ先輩がふわりと下りてくる。目の端でちらりとコウモリをとらえ、ミウに笑いかけた。
「また始まりますね」
「はい! 楽しみです」
ミウは大きくうなずき、あと何度戻れるのだろうと思った。
夏休みが終わり、冬休みが終わり、そして。
黒い窓に明かりが走り抜ける。
先輩たちがいなくなっても、ミウは戻ってこられるだろうか。
赤いコウモリが笑うように揺れる。
「ほらミウ、メロンパン」
「僕の頭上から渡しましたね!?」
「マユキはでかくならねえなー。間違えて食っちまいそう」
先輩たちの声が遠く、近く、心地よく揺らいだ。
「ありがとう。みんなで食べたいな」
ミウはメロンパンを受け取り、丁寧にちぎった。
あとどれくらいこうしていられるのだろう。
わからないまま、地下鉄は光を追い越して走り続ける。