【第二幕】思い出を掻き鳴らして-Play The Star Candle-
「助けたい、ね。ボクは悪者か何かなのかい? 例えばその、キミにとってとか」
飄々と、男は表情を崩さず両手を広げて周りを見渡す動きをする。
まるで子供をあやすかのような、大袈裟な様子で。
「悪者なんかじゃないです。でも、悪くないからこそ、そいつは閉じこもってしまったんです」
「ほう……閉じこもってしまった、か。じゃあ悪い事をしたね……その子に」
僕の言葉に笑みを浮かべながらも、今度は目を閉じて感慨にふける仕草をし、机の上の冊子に手を伸ばす。
それは何かの芝居をしてるかのような変わりようだった。
「でもごめんね。ボクは何も出来ないし、何もしてあげられない。忘れちゃったしね。少しのこの街の事と、少しの忘れ物についての事、そして少しの家族の事。ふと思い出したそれらだって、もうじき頭の中から消えてしまうみたいなんだよ。だから、さ」
男は冊子を開いてパラパラとページをめくり、真ん中辺りまできたところで手を止めて僕に渡した。
古ぼけて、色あせてしまったその冊子を、お前が読めと言うように。
「キミが……キミ自身が、そのお話を終わらせるんだ。その子の為に、"最終回"を教えてあげるんだ。そしたらきっと、"夕焼け"は"朝焼け"に変わるよ」
「……やっぱり、あなたは」
そして男は道化のように張り付いた、お面みたいな笑顔をして、最後にこう告げた。
「ああ、そういえば、ボクの娘は出来が悪いんだ。本業の方、遺伝しなかったし」
◇
この街に来た時、それがいつくらい前なのか、何故そのような状態になったのかなんて言うのは、やっぱり思い出せないところではあるのだけれど、唯一の記憶と呼べるモノが、僕の今に至るまでの行動へと繋がっていたのは、確かな事であった。
その記憶というのは、一人のある人物を示しているので間違いなくて……しかしこの街の夕焼けにかき消された情報群の一つで、具体的にその人物のどういった記憶なのか分からないのが現状だった。
だからおそらく、夕焼けにその『本来の記憶』を溶かされないように、先にこの街に居た"ある人"が僕に対して、してくれた事があったのだ。
そう――先ほどまで身に着けていたストップウォッチ。
これがそれに当たる。
この街の時間は止まっていて、ずっと居ると色々な記憶を忘れていく。
その中でストップウォッチは、自分の手で時間を示す事ができ、止まった時間の中で、指針的な役割を果たしてくれる。
実際、僕は二十四時間で一周するストップウォッチとともに毎日を過ごし、一日三食と睡眠時間、その他諸々の生活リズムを整え、さらに学校に行っては義務教育の時間割をきっちりと消化し、登下校を日付通りに行った訳で、時間を無くてした街に於いてのれっきとした時計の役割を果てしていた。
そうやってストップウォッチを頼る事によって『本来の記憶』と同じような生活を送り、なんとか全部を忘れないように済んだのだ。
全てを忘れた場合はどこか遠くの場所へいざわれてしまう……それこそ僕にストップウォッチを預けてくれたその人がいつの間にか消えた時のように。
その人が、居なくなった時に言ったように。
しかし少し前に忘れ物に気付いて、戻って来たその人と同じように。
嘘の時間を終わらせる為に――。
「じゃ、ボクは先に戻るよ。その冊子、キミに渡せてよかった」
どこまでも続くような気さえする長い廊下を見据えて、男は職員室を出る。
窓の外には揺らめき始めた雲と、怪しい色味をちりばめた空。
「あの、いいんですか。これ、取りに来たんですよね?」
そして、ただはがれていくだけの夕焼け。
「うん。でも、やっぱ完成版がいいからね。それに本当はあの子が持って来てれるんだろ? その忘れ物を……なら、ちゃんと完成した状態でさ、向こうで会った時にもらうよ」
はちみつ色に照らされた廊下を男はゆっくりと玄関へと歩いていく。僕もその後ろを渡された冊子を片手に進んでいく。
コツンコツンと、二人だけの足音は、やっぱり寂しい。
「ボクはね、最後まで"いとまごい"出来なかった。だから、キミだけでもちゃんとしてあげてよ。その子、大切な人なんだろ?」
「……いや、ただの幼馴染ですよ。これかも」
「そうかい。そう、だよね」
靴を履き替えて、玄関を出る。男はそのまま僕より先へ歩き、そのはがれたオレンジ色の空を見上げていた。
「自転車かい?」
「はい、そうですけど」
「駅まで歩かないか。なあに、たかが十五分くらいの距離さ。いいだろ?」
僕は頷き、駐輪場に止めていた自転車を持ってきて、校門を出る。
相変わらず、校門大きな看板が立てかけてあって、けど、いつのまにか書かれている文字があって、僕はそれを口の中で反芻した。
「思い出してきたのかな、この町の事。本来キミ達がいた、この"街"じゃない、この『町』の事」
男は僕の視線をたどって、看板に飾られていた青い花びらを手に取り、目の前に差し出す。その花は職員室にあったものと同じで、花屋で見かけたものとも一緒だった。
――そいつはなんて花だ?
――……忘れちゃったなあ。
あいつの、忘れた思い出。
「ええ……結局、ここはあいつの場所なんですね。僕はこんな花の名前を知らないですし、どういう意味があるのかも分かりません。ただ、ついてきてしまっただけみたいです。本当にただ――」
手に取った花びらを握りしめた後、僕はゆっくりと冊子の中へそれを入れた。花びらを栞のようにして、すぐにそのページが分かるように。
男は少し微笑んで、再び歩き出す。遠くなっていく校舎をぼんやりと見つめながら。道を進んで、『帰る場所』へと。
「キミは、ただついてきたんじゃないさ。自分の意思で引き止めようとしてたんだよ……向こう側に行ってしまわないようにと、手を伸ばしたんだ。本当にそれだけの話なんだよ」
「それは……分かりません」
「はは。そうじゃなきゃ、こんなところまで来ないんだよ。普通は」
少し肌寒い空気。肩を切って自転車の規則的に悲鳴を上げる車輪の音が静かに響くなか、そっと振り返れると、なぜだか校舎が見えなくなっていた。
周りの街並みも、どことなく懐かしや温かさと言ったあの雰囲気が薄れているようで、景色自体が変わってるのが分かった。
――こんな場所にマンション建ってたっけ。
――ここの住宅街ってあんなに広かったっけ。
――あの抜け道、どこに行っちゃったんだろう。
なんだか少しずつだけれど、着実にこの街が消えていっているのを実感する。
"昔"から、『今』に向かっているのを、感じる。
「キミはこちら側の人間ではないから、あとちょっとしたら本来の記憶を思い出すんだろうね……いや、この街の記憶を忘れる、と言った方がいいか。そうしたらきっと、ついてきた事さえも記憶から消えていく……ほら、見てごらんよ、夕陽が微かに沈んでいきている。夜に近づいているんだ」
首の動きだけで差し示された方向には、あのオレンジ色の無限大が、いよいよ霞んで暗さを帯びているのが分かった。見ているだけで意識が持っていかれそうになるあの感覚も、微々たるモノになっている。
終わらない夕焼けが、終わりに進み始めたのだ。
「どうして、こんなに突然……」
「来るべき時が近づいてきたんだろう。大した理由じゃない。きっと、自分だけが知らなかったってだけで、意図的にも無意図的にも思い出したのさ」
「……何をですか」
「この街の事。キミ達の記憶の事」
あの時の言葉と同じモノを言ったのはわざとなのだろうか。
そっと遠くを見ては息を漏らし、何を訴えかけたいのか。
僕は返す言葉を探して、改めて街を見た。僕らの記憶。僕らの思い出。そしてここにいた証明。
――それらは、全部消えようとしている。
もう、たそがれの街が終わりを迎えるのだ。
「……あ」
大きな木が目に映る。公園に生えていた、高く伸びる大きな木だ。
どうやら、いつの間に公園の方まで来ていたらしい。街が変わってきているから距離の感覚にもズレが生じているようだ。僕が思っていたよりも早く着いたのはその為か。
にしても公園、ね。
僕とあいつとの、紙芝居おじさんとの場所で。
タイムカプセルを隠した、未来の自分が戻って来る……場所。
そのくせ、あまり行く気にはならかったところ。
なんでだろう。存在は知っているし、そこでした事も覚えているのに、行き方が分からかったのか、避けていたのだ。
なぜかたどり着けない気がして。
足を伸ばせば行けるのにそこで立ち止まってしまって、進めない。
つまり、それは何を示すのか。
「にしても、すごく久しぶりだな。ここでボクは紙芝居をしたんだよね」
公園の入口で男は目を細めながら笑った。忘れた筈の記憶を再び取り戻しているのだろうか。こちら側に居た時の昔の記憶。それはきっとこの街が『消えていく』からこそ、出来たのかもしれない。
「たくさんのお話を作っては、たくさんの子供たちに聞かせた気がするよ。楽しい話、面白い話、優しい話、怖い話、綺麗な話……そして、たそがれる話。どれもこれもボクの作品で、皆の作品だった。ああ、とてもあの時は幸せだったよ。紙芝居は終わらせない限り、終わらないからね。ずっと皆の中で続くんだ」
そう言って公園内に入って行く男の後を、自転車を置いてから追っていった。
小学生の頃の冒険が出来た頃の小さな世界を、ゆっくりと当時の思い出を振り替えながら。
「っと、危ない危ない」
すると突然男が転びかけた。ここに足を取られる様な物なんて無いのに。何につまずいたのだろうか。
とにかく僕は速足で近づいて男の隣に並んだ。少しふらついているけど、怪我とかはしてないみたいだったが、ちょっと様子がおかしい。
彼の視点がどうも定まってない。歩き出しても、進む方向が見当違いでとてもたどたどしい。
……もしかして。
「目、見えないんですか?」
歩調を緩めた男は、やはりどこか定まらない視点で、僕の声のする方向へと手を伸ばした。
きっと肩を貸してほしいんだろう。すかさず体を寄せて手を置かせる。
そして触れた手の感覚は、羽が乗っかったのかというくらいに、軽い。
どういう事だ。
「……はは、やだなぁ。さっきまで見えてたのに、また見えなくなっちゃったよ……ああ、本来の町に戻って来てるからかな……悪いけどさ、ボクと同じ速度で歩いてほしい」
少し高いところから肩に手を乗せ、先ほどのような諦めてしまったかのような遠い表情を見せる男。もうどうしようもする事が出来ない、向き合わなければならない現実を、ただ受け入れているのだろうか。
――おそらく男は昔、視力を失っている。