【第一幕】群れを外れた羊は丘を登らない-Rough Landing ,Hollyhock-
「え? これって、どういう事?」
「分からん。ただ、あの時電車が見えて、それで」
記憶にはしっかりと、先ほどまでの光景が残っている。
マミが突然逃げて、僕らはそれを追った。そうしたら、何もなかった筈の線路に電車が走り、駅がいきなり現れた。実に奇怪な話だ。
「……こいつには、分かってるのか」
そして今起きた現象を、マミは分かっている。
線路を歩く僕らを誘導するかのように外に飛び出し、その線路には電車が現れて、止まった場所が駅になっていた。
マミに案内されるがまま、僕らはたどり着いたのだ。
この街の駅に。
「……迷わせられちゃったのかな、わたしたち」
僕に抱えられたマミを見て夢前がぽつりと言う。
「どういう事だよ」
「この駅、なんか今まで見てきたものより凄く懐かしい感じがしない? あの券売機も、切符しか通せない改札機も、そこの待合室も……全部懐かしい。だから、また迷っちゃったんだよ」
「何を言いたい」
「この街の事」
「……」
言われる通り周りを見渡すと、確かに懐かしくて、昔ながらの雰囲気がある。
けれど、全体的に錆び付いていて、街中のあの温かい空気が無く、ひどく冷たい。冷え切っていると言ってもいい。
別物だ。
「この街で何か起きたって事は、わたし達の『懐かしい記憶』にも何かあったんだよ、きっと」
「なんでそんなの分かるんだよ」
「思い出したんじゃない?」
「何を」
「さあ?」
「……」
あっけからんとした様子で語る夢前。一体何を思い出したと言うのだ。
この光景を気に留める事もなく、平然として、何を考えているんだ。
僕には、分からない。
分かってはいけない。
「で、どう? 兵悟さんはさ、駅に来れた訳だけど、何か思い出せたの?」
「……」
正直に言って、ここは僕の記憶には存在しない駅だった。
懐かしさはある。だが、それは自分たちの思い出があるが故に感じられるものでは無く、あくまで空気感の話だ。 古くさいと言った方が正しい。街頭テレビや、フォークソングなんかを知った時の、あのような感覚に近い。
つまり、ここは僕らの場所とは『何か』が違う。
僕は首を横に振り、寒気さえ覚えるこの空間から、早歩きでさっさと出る。
どうやら夢前が後に続いて来た、合わせず構わず先に足を進めていく。
出迎えた夕焼けすらも怪しい雰囲気だった。
なんなんだ、この状況は。
「もー、わたしの周りの人ってなんで置いてきたがるの」
「猫は人じゃないだろ」
「一緒だよう、そんなの」
唇を尖らせながらついて来ているであろうか。声が不服そうだったが、僕はそのままの速度で自転車を置いた場所を目指した。
「なあ、お前は何か感じなかったか? あの駅に」
街中に入ったところでようやく後ろを振り返る。制服のスカートをのろのろ揺らしながら、少し駆け足で近づいて来る夢前がいる。
「そりゃー、急にあんな場所に居たからビックリしたよ」
「そうじゃなくてさ、もっとこう、空気感とか」
「んー、何回か来たような感じはあったな。実際にあの券売機とか改札とか待合室とか、使ったと思うし」
「……」
僕が単純に忘れていているのだろう。そう思うのが正しい。
思い出しに来たのはいいけど、結局思い出せなかった。あり得る話だ。
だが、何故こんなにはっきりと、あの場所が自分の記憶に無いと断言でしまうのだ。
記憶というのは、機械みたいに完全消去なんて出来ない。忘れても、確実に少なからずの記憶の破片が残る。だから、人間はその曖昧な記憶の破片を何かに結びつけてしまっては、なんとなく懐かしいなどと感じるのだ。
じゃあ、おかしいじゃないか。
この街の駅が、自分の記憶の破片のどれとも結びつかないだなんて。
「いいや、夢前。帰ろう」
前を再び向いて、足を進める。
緩やかな坂の先にある踏切の、自転車を置いたその場所まで。
「ねえ、待って」
不意に後ろの夢前に呼び止められ、反射的に振り返る。
なぜか両手を広げて辺りをキョロキョロと周りを見回して。
「なんだよ」
「いやぁ、ね。急にいなくちゃったの」
「はあ?」
一瞬何を言っているか分からなくて、ぼくは聞き返した。
が、なんとなくその様子からして予想はついた。
またヤツが逃げ出したらしい……さすがに振り回され過ぎだと思う。
「マミちゃん。気付いたらいなくて」
「……いいんじゃね。飼ってるとかじゃないし」
「そうだけどさぁ」
残念そうにしながら、空を仰いで「はぁ」と大きい溜息を吐く夢前。そんなにあの猫がお気に入りだったのだろうか。なら、もっと警戒をしておけばいいものを、油断するのが悪い。
「あ。あれ」
突然に視線を辺りに戻した途端、夢前が近くに何かを見つける。
同じ方向を振り返ってやると、そこには時代に置き去りにされたかのような佇まいの店があった。
看板には、"花屋いつじま"と細い質素な字が並んでおり、店頭を見る限り、またその名の通り花屋があった。
「今、あそこにマミちゃんいた。行ってみようよ」
「マジ? よく見えたな…………つうか、花屋なんてあったのか? この街に」
そして、そこはどこか重苦しい行き詰まった空気を漂わせ、やはり僕の記憶には存在しない場所であった。
さっきの駅の時と同じような、妙な違和感。
正直行きたくない。
「分かんない。けど、見てみよ」
「あ、おい。勝手に突き進むな」
一人で先に駆け出してしまう夢前。その後を僕は渋々追っていく。
あそこはあまり近づきたくはない。
でも、だからこそ、こいつを一人の状態で放っておくのは気が引ける。
「マミちゃん、おいでー」
店内に響くように呼び掛けていたが、夢前の様子を見るにマミの姿は無さそうだ。
僕も店内へと追いつく。店には、独特の花の香り。夢前は再度呼びかけていたが、その声に反応する音は聞こえない。
「なぁ、そこまであの猫にこだわらんでもよくないか? どうせ、ひょっと次の日には顔を出すと思うぞ」
「嫌だよ。逃しちゃうの、何か嫌」
「……頑固だな、お前も」
店内の花の束を掻き分けて、夢前は隅々まで調べていく。僕も見た目、手伝ってやってるように振る舞いつつ、狭い店内を見ていく。
が、やはりマミの姿はない。もう、違う場所に逃げたのではないだろうか。
「いないなぁ。マミちゃん」
「こんな狭い場所にいないのなら、もう別のとこにいるんじゃないか?」
「うーん………………。そうかもね。この狭さで居ないだもん。仕方ないか。とりあえず、今日は一旦戻ろ」
意外にあっさりと諦めて帰るようだ。その辺は無理をしないスタイルなのか、単に面倒になったのかは知らないけど、帰るのなら一応、僕も最後に周りを見渡しておこう。
……赤い花、黄色い花、紫の花、水色の花。まさしく色とりどり、様々な種類の花が咲いていて、綺麗に置いてある。
店自体は古いのに、花は全く枯れそうな感じもない。
きっと、ここでずっと咲き続けてるのだろう。
「それにしても、綺麗だよね。ここのお花」
僕の視線に気付いたのか、夢前が近くの赤い花を見て言う。屈んで鉢植えを触りながら、花を眺め始める。
「これはタチアオイ。花言葉は情熱とか熱い恋とかそんなのだった気がする。源氏物語で詩が詠まれてるんだね」
「へえ、すげえな」
さすが、花屋が夢であった故によく知っている。さらに、僕は花なんてまるで興味が無いが、その語られた内容に思わず関心を示せた程だ。良いとこだけかいつまんで説明出来る辺り、幼少期のそれだとしても、伊達じゃなかったのが分かる。
「こっちの黄色のはアンデスの乙女って言うの。可愛い名前だよね。小さな花をたくさん咲かせてる感じも可愛い。確か散房花序って言うんだっけ。花言葉は『素敵な未来』」
「そっちの紫のも形が似てるな」
僕もちょっと面白くなって隣にしゃがみ込み、アンデスの乙女と対面に位置するその鉢植えを指さす。
見た感じ、形状は今話にあった散房花序に似ている。
「ああ、ヘリオトロープね。ハーブとしても有名だよ。バニラのいい匂いがするから、香水の原料にもなってる。花言葉は『夢中』。好きな人に送ってもらいたいよね」
「へぇ。結構使い道あるんだな、花って」
もうしばらく花談義に花を咲かせてもよかったが、このタイミングで腹が鳴った。ストップウォッチを見る。十九時間二十分。いつもなら夕飯を食べる時間だ。
「そろそろ何か食おうぜ。ファミレスとか向こうにあったし」
「あ、うん。そうだね。大分歩いたし、ガッツリしたカツ丼でも食べたいね」
「昨日食ったやんけ」
「忘れちゃったなぁ」
わざとらしく言いながら立ち上がり、店を出る。店先にはさっきの青色の花がポツンと置かれていて、どこか寂しげだ。
「……」
後から出てきた夢前がふと、その花を見て立ち止まる。少し思いにふけるような、懐かしむ表情をして、何やら両手を合わせる。
「失礼します」
そう言うと、いくつかの苗の一つを、サッと手で切り離した。持って帰るらしい。あの猫同様、お気に召したのだろうか。いや、雰囲気的にあまりそういう感じには見えなかったが……。
「そいつはなんて花だ?」
僕の問いに、しばらく両手に転がしたそれを夕陽にかざして、夢前は静かに呟くように告げる。
「…………忘れちゃったなぁ」