#2 HelloWorld
「ふぇ?」
オレは今までにないほどに情けない声を上げて目を開けた。しかし、その目に映るのは鮮明な世界ではない。全体がボヤけ、全く何が何やら視認できなくなっている。まるで水の中にいるかのような感覚だ。
目が駄目ならばと手探りで起き上がろうとするが、それもまたままならない。四肢の関節は重く凝り固まり、身体の体勢をピクリと動かす事もで出来ずにいた。身体中に張り巡らされた神経が僅かに残った力で脳に現在の状況を送ってくる。恐らくオレは伸びている。手足を地面に放り出し、だらしない格好で大の字になって伸びている。
それにしてもここが天国ならばこの仕打ちは酷すぎではないか。こっちはついさっき死んだばかりで状況がよく呑み込めておらず、オマケに楽園に着いた余韻で気持ちよく目を瞑っていたと言うのにそれを叩き起された。やったのは天使だろうか、それとも神様だろうか。どちらにしてもここの接客態度とサービスは最悪だ。
そんな文句を心の中で叫んでいるうちにだんだんと視界がクリアになってきた。キラキラと目の前で光っているのは一体何だろうか。広範囲に渡っており、不規則に光っているのを考えるとあれは木漏れ日と予想する。
地面の草の感触といい木漏れ日といい、オレは森にでもいるのだろうか。天国ならば神殿かふかふかの雲の上で目覚めるというのが定石だろう。本当に常識がなっていないところだ。後で神に文句の一つや二つ言ってやろう。
そして木漏れ日を遮るようにしてオレの前に立っているのが先程、モーニングコールをしてくれた不届き者だ。視界がクリアになってきたので声の主の姿が見えるようになってきた。
髪は長く黒色で多分ポニーテール。全身はローブか外套を羽織っているのか、黒く塗りつぶされ体型も分からない。だが声や髪型から推測するに女性だろう。
「さぁ、少年。早く起きるんだ」
そんなに催促されてもなぁ...こっちは見えないし立てないんだ。そっちが何とかしてくれ。軽口まじりでそう言うはずだったが、喉から出るのは掠れた吐息だけだった。声もやられているのか。
だが、相手にも会話の意思があるようだ。何とかすれば助けてくれるかもしれない。そう思いオレは何か喋ろうと唇を動かす。しかし何も起こらなかった。第三者から見れば今の状態は滑稽だろう。高校男児が大の字になって倒れ、何も出来ずただ口を陸に上がった魚のようにパクパクさせているのを女性に見られているのだ。想像するだけで恥ずかしくなってしまう。
「あぁ、なんだ。君、転移後遺症か。それならそうと早く言ってくれよ」
だが女性はそんな風には思っていないようだ。オレに親身になって心配くれている。訳の分からない単語を口走った事を除けばいい人なのかもしれない。
すると今度は彼女がオレの胸に手を置き、再び訳の分からない言葉を喋りだした。
「エファセ⚫エラトマポテレズマ⚫アンスロポス」
すると触れられている部分が暖かくなり、その温もりがやがて体全体に広がり始めた。いかにも効いてるという感じだ。ゆっくりと手足の重みは消え、目の濁りも無くなってきた。
やがて完全に身体の不具合が無くなると、それを確認するように顔の前で手をヒラヒラさせてみた。腕は問題なく動く。どうやら本当に治ったようだ。
「どうやら良くなったみたいだな」
女性にそう言われ助けてくれたお礼を言わなければ、と思ったオレは立ち上がった瞬間動きを止めた。
それは彼女があまりにも美しかったからだ。さっきぼんやり見えた通り、髪は綺麗な黒でポニーテールは腰くらいまで伸びている。目は透き通った黄金色でまさに宝石のようだった。
「おい、どうした少年。まだ転移後遺症で頭がボーッとしているのか?」
オレはあまりにも彼女を凝視しすぎたらしい。これ以上怪しまれて不審者のレッテルを貼られる前にお礼を言っておくべきだろう。
「あぁ、いや。ありが....」
そこまで言いかけて再び言葉が詰まる。今度は相手の美しさによるものではなく猛烈なめまいと吐き気が襲って来たからだ。
突然立っていられなくなる程の不快感に脳が満たされ、堪らず近くの茂みに嘔吐した。吐き気は身体の奥底から無尽蔵に湧いて出てきており、胃が空っぽになってもなお、嘔吐きは収まらない。
そんな中、女性は笑いながら背中をさすってきた。こっちとしては笑い事ではない。それにまたしても男としての尊厳を失った気がする。
吐瀉物を撒き散らしながら何も出来ず涙目になっているオレは女の人に笑われながら背中を撫でてもらっている。これ以上に屈辱的なことはあるだろうか。
「あはははっ!ゴメン、ゴメン。君は転移酔いもするんだね。すぐに治すからちょっと待って」
彼女はそう言うとまた先程と同じ呪文のような言葉を口走った。するとたちまち気分が良くなりめまいも治まった。
全く散々だ。死後の世界にまで吐き気やめまいなど負の症状を持ち込むなんてどういう了見だ。オレはこの世界に遊ばれているのだろうか。
口元をポケットに入っていたハンカチで拭いていると、目の前の女性が黒い手袋をした手を差し出してきた。
「いやぁ、済まなかったな。こちらから呼んでおいて何の準備もしていなくて。こちらとしても急いでいるんだ。仕方なかった」
言っている意味が全然分からなかったが、とりあえず相手が自分に対して謝罪しているのは分かった。こっちも助けて貰った身なので握手に応えお礼を言う。
「こちらこそ助けて頂いてありがとうございます。貴方がここに現れなかったらオレはどうなっていた事か...とにかく本当に助かりました」
すると今度は女性の方が不思議そうに顔を傾げた。だがすぐに「あぁ!」と言うとくすくすとまた笑いだした。オレは変な事を言っただろうか。それとも何か変な行動をしたのか。
いやまぁ、先程から地面に伸びていたり突然吐き出したりと変人的行動をしているのは理解しているが...
「ハハハッ...はぁー、何度も笑って済まない。ただ、少し可笑しくてね。それに君はまだ、状況が把握出来ていないみたいだ。わたしがここに居るのは至極当然な事なんだよ。何故なら私が君をここに呼んだんだからね」
さっきも言っていたが『呼んだ』とはどういう事だ。確か自分は死んでここに来たはずだ。それならば考えうる可能性は天国か死後の世界だろう。
もしかして呼んだということは駅のホームで自分を突き飛ばしたのは彼女だったのか?沢山の可能性と疑問が頭の中を渦巻く。
「おっと、ゴメンね。呼んだ、じゃ分かりにくかったな。『召喚』したって言えば分かるかな?」
召喚と言ったか。それは現代ではよく取り扱われる『異世界召喚』というものの類なのか。全く理解が追いつかず、オレは目を白黒させながら質問を返す。
「オ、オレは死んだんじゃないんですか?ここは死後の世界じゃなくて現実?」
「君には順を追って説明していく必要があるね。それにそれを聞く権利もある。じゃあまずは名前から。私はイリス。よろしくな、少年!」
唐突に始まった自己紹介にビックリしながらも、オレは今はこの人に従うしかないんだなと悟って流れに乗る事にした。詳しい事は今から聞けば分かるだろう。それでも分からなかった時は全部終わった後に聞けばいい。
「オレは鈴木陽翔です。よろしくお願いします、イリスさん」
「はると...ハルトというのか!よろしくな。早速だが、時間がないので説明に移らせてもらうよ。この世界の情勢と私自身について...」
それを聞いて戦慄したのは言うまでもない。オレの波瀾万丈な異世界ライフはここから始まった。