忘却に背を向けて。
『……なあ、レイベル。お前って、どうして狩人になったんだ?』
それは特別な日じゃなかった。ただの、退屈な一日だった。
あの岬でのことだ。仲間の何人かが休暇を欲しがって、強制的に一週間の休みが設けられた、そんな日の一幕。暇を持て余していた俺は、メイビスに誘われて岬まで足を運んだ。
夕陽を眺めながら、突然、あいつがそんなことを口にした。
『急にどうした。今さらそんな話』
『今さらだから、だよ。俺はお前のこと、意外と知らないのかもしれないって思ってさ』
『知って、どうする』
『別にどうもしない。興味があっただけ。嫌なら言わなくていい』
返事に詰まりながらも、俺は何か答えた。けれど十年以上前のことだ。はっきりとは思い出せない。たしか、子供じみた理由だった気がする。
そのとき、メイビスは笑った。
問いかけておいて笑うなんて、ひどいやつだとその時は思った。だけど――
今では、その笑顔すら、懐かしくてたまらない。
――それだけで。
……でも、それを見ることは、もう無い。
二度と、永遠に。
全て諦めた覚悟でいたのに……いや、逃げたというのに……。
なのに、いつまでも……過去の栄光が俺を手放してくれない。
なあ、メイビス。俺は……どうすればよかったんだろうな……。
***
「…………」
レイベルは、まどろみの底からゆっくりと意識を浮上させた。
薄暗い部屋。柔らかなシーツの感触。窓から差し込む陽光が時間の経過を伝え、包まれた白衣の軽さが、ここが森ではないことを物語っていた。
――そうか。俺は、生き延びたんだ。
だがその事実を喜ぶ気にはなれなかった。ただ天井を見つめながら、重く沈んだままの体を感じていた。
思い出すのは、森での戦い。あの異形の怪物。あれは、明らかにレイベルの手に余る存在だった。
「……そうだ」
唐突に思い出す、あの狙撃。
ーーあれがなければ、間違いなく俺は死んでいた。
起き上がり、足を床に降ろしたその時――。
「おや、目が覚めたかい」
キィ、と扉が開く音。耳に届いたのは、聞き覚えのある老女の声だった。
「……やっぱ、あんただったか」
姿を見て、レイベルは小さく安堵の息を漏らす。
彼女の名は、クレーン・シルミスティ・ケラ。かつてのパーティメンバーであり、今なお伝説的な腕を持つ狙撃手だ。
緑のトップスに黒のズボン。首から下げたペンダントが昔のままを思わせる。歳は重ねたはずなのに、背筋はしゃんとしており、杖すら不要な足取りは現役さながらだった。
「久々に会ったと思えば、まだ狩人やってたとはね」
「……成り行きだよ」
「成り行きで命懸けるバカがどこにいる……まあ、あんたならやりかねないね」
「余計なお世話だ」
「ったく……相変わらず可愛げのないガキだよ、あんたは」
「それより……」
レイベルが声を落とす。話を切り出す口調だった。
「あのモンスター……どうなった?」
「あ?」
「俺と戦った奴だよ。あんたも見たんだろ。遠方からの狙撃があんたの仕業ってことは、何となく分かったし、というか看病しといて知らない訳ないだろ」
「……ああ、そうさね。かつての知り合いがくたばりかけてるもんで、つい魔がさしてね。まあ、全部が全部アタシのせいじゃないが、邪魔したなら謝るよ」
「いや、助かった。本当に、感謝してる」
「……あんたがそんなふうに言うなんてね……メイビスのこと、まだ引きずってんのかい?」
レイベルは黙した。何も否定せず、話題を変えた。
「……かもな。それより、さっきの本題だが」
「その前にーー」
だがそれを、クレーンは許さなかった。
「助けてやったんだ。アタシの頼みをひとつ、聞いてもらうよ」
「……藪から棒に」
「ついてきな。起きて歩けるんだろ?」
「重傷者に無茶させんなよ……」
口では文句を言いながらも、レイベルは立ち上がった。体の調子は悪くない。むしろ、異様なほど整っていた。
気になりつつも、今はクレーンに従うことを優先することにした。
廊下に出ると、建物は木造でクラシックな造り。だが、古びた一方で新しい部分も目につく。どこか、不釣り合いだった。
「ここは?」
「基本的には孤児院兼アタシの仮宿ってとこかね。かつては教会だったが、まあそんなことはどうでもいい。この先の部屋に、お前さんに会いたがってる奴がいる。そいつと話せ。アタシの要望はそれだけだ。モンスターの情報もそいつなら詳しいし、好都合だろう」
歩きながら廊下の奥の方を指差すクレーン。
「要望の割には、随分と利他的だな」
「歳を取ったせいで、ボランティア精神に目覚めちまったせいかもな……と言うのは冗談で、森でお前さんを助けた内の一人だ。だからアタシらと無関係と言うわけでも無いわけさ」
薄ら笑いを浮かべながら、そんな軽口を吐き捨てるクレーン。
対するレイベルは、小さく息を吐きながらうなずいた。
やがて到着した部屋。ノックのあと、女性の返事が聞こえる。
しばらくして、一人の女性がレイベルを出迎えた。
教会はかつての存在だとクレーンは言っていたが、その女性の服装は白を基調としたシスター服そのものであった。
「お待ちしておりました」
開口一番、シスター服の女性がニコリと笑みを浮かべる。
「えっと……あなたが私に用がある方ですか?」
「いえ、中におります。どうぞお入りください。クレーンさんも、ご一緒に」
「アタシは遠慮しとくよ。少し用事があるんでね」
レイベルは肩をすくめた。仕方なく、女性に案内され部屋の中へ入る。
そこは談話室のような空間だった。傷のある家具と、暖かさのある照明。その中に、一人の男が座っていた。
紺色の軍服。金のボタン。肩章。騎士職の風格を漂わせながらも、その眼差しは柔らかだった。
「初めまして、レイベルさん。私はこの孤児院の院長、ゼラと申します」
レイベルを見るなり、騎士職特有の敬礼を見せる。
「院長……? 騎士じゃなく?」
「騎士は引退しました。今はただの、元教師です。立ち話も何ですから、どうぞ、おかけください」
そのままソファに腰掛けるレイベルとゼラ。シスター服の女性はいつの間にかいなくなっていた。
が、しばらくして紅茶と茶菓子を用意して戻ってきていた。
その菓子類に触れるよりも先に、ゼラの表情を伺いながらレイベルが口を開いた。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
「あなたに会いたかったのは、単純に話がしたかったからです。勿論、モンスターの件についても、伝えたいことがあります」
「話……ですか?」
「ええ。私は騎士学校の教官をしていました。今は引退しましたが、ある生徒が、あなたに強い関心を持っていたのを、今でも覚えています」
「……マーク・ティラ、ですか」
「はい。彼は優秀な生徒でした。……今は、あなたのもとで?」
「そういう訳ではありませんが……。まあ、狩人として、立派に生きています」
ゼラは一瞬だけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「彼には、幸せになってほしい。……誰よりも強く、誰よりも人に寄り添える子でしたから」
レイベルは、その言葉の重みを静かに受け止めた。
そして、ゼラの表情が変わる。
「――本題ですが、例のモンスターがセルセム級に認定されました」
紅茶の湯気が揺れる中、ゼラの声色が僅かに低くなる。
「死傷者は百名を超え、生態系も崩れつつあります。奴から逃げる為に多くのモンスターが森の外に出現し、その二次被害だけでもかなりの痛手を追っています」
「……その規模に発展したのなら、他国からの支援要請が可能なはずでは?」
「かなり前に、要請は出したと行政は公表しております。ですが、先ほどお伝えした通り、今では街道をモンスターが跋扈する始末。下位級ならともかく、デュエクス級までもが確認されています」
その言葉で、不意によぎるブラナデールの死に様。あれが森全域で確認できるのなら、デュエクス級が森林外に出てもおかしくはないだろう。
「人や物資の往来も容易にはいかない状況です。この都市に援軍が来るのも、いつになることやら……」
「……」
予想外の事態にレイベルが思わず息を飲む。
ゼラはセルセム級に認定されたと言ったが、被害規模だけ見れば、十分それ以上の脅威と言える。
それだけに、レイベルにも緊張が走る。
「それを話したと言うことはつまり……私に討伐を依頼したい、と言うことですか?」
自身の経歴を知っている者が、モンスターの被害規模を話すということ。それはすなわち、暗に討伐依頼を出しているようなものだった。
だがゼラは首を縦に振ることは無かった。
「いえ、そういう訳ではございません。確かにあなたがいてくれれば心強いのですが、あなたはもう、狩人を辞めているのでしょう?」
それはやけに、優しい問いかけだった。
「それは……マークから聞いたんですか?」
「何となくですよ。でも……あなたと一度、共に戦ってみたかった」
達観した表情と声音。何か不吉な予感がレイベルを襲う。
「今、上位級以上の戦闘職が集って、セルセム級の討伐部隊を組んでおります。支援要請こそだしましたが、物質が安定しない現状、打開はムータルクで完結させるべきだと、行政は判断したそうです……私もそこに、参加する意向を、つい先日出しました」
「ーーちょっと、待ってください」
唐突の告白に、無理やり区切りをつけるレイベル。
「ゼラさんは、騎士職は引退したのでは?」
「ええ。ですが、私は調教師の職も保有しておりますから、決して無関係ではありません」
ーーそうか。
そこで一つの事実が鮮明になる。
先日の戦闘で横槍を刺した二頭のエイドラス、あれは彼が手懐けたモンスターだったのだろう。
今生き延びているのがその証拠だ。
「だからもしレイベルさんが了承してくださるのなら、私が留守の間、子供達を守って欲しい。この都市内も、必ずしも安全とは言い切れませんから」
どこか諦めたような、覚悟を決めた雰囲気をこの時のゼラは纏っていた。
「……そうですか」
その覚悟を真正面から受け止めたレイベルは、それしか言えなかった。
「あなたと話せてよかった……申し訳ございませんが、私はここで失礼します。子供達が待っておりますので。何かあれば、メルンに言ってください」
そう言ってシスター服の女性に視線を向ける。
メルン、そう呼ばれた彼女は言葉の代わりにお辞儀で了承の意を示した。
「事態が落ち着いたら、狩人時代のお話を聞かせてください。それでは」
ゆっくりと立ち上がったゼラが、頭を下げて部屋を後にする。
残されたレイベルは、ゆっくりとティーカップを手に取り、紅茶を飲み込んだ。
紅茶の温度より、自分の内面の冷たさを見た気がした。
「レイベル様、お部屋にご案内しましょうか?」
しばらく紅茶と見つめ合っていたレイベルを気遣い、メルンがそう声をかける。
「……お願いします」
そうしてメルンに案内された部屋に向かう為、談話室から出た直後。
「おや、終わったのかい?」
タイミング良くクレーンと鉢合わせする。
「どこ行ってたんだ?」
「ちょっとした情報集めさ……なあ、この後は暇かい?」
何を企んでいるのかは分からないが、特に断る理由もなかったレイベルは、彼女の用事に付き合うことにした。
そうして彼女と共に向かった先は、この孤児院内にある中庭。
神々しい光が差し込むそこに、見窄らしい墓標が並んでいる。
「ここは、墓地か?」
足を踏み入れるなり、レイベルがそう訊ねる。
「そんなところだね。遺品も遺体もありゃしないけど」
そう言いながら、とある一つの墓標の前で足を止める。
「あんた、やっぱり狩人を辞めてたらしいじゃないか。それどころか、鍛治職に転身するなんて……メイビスがそんなに忘れられないか?」
振り向きざまにそう告げるクレーン。その目は、哀れみと怒りの混ざった色をしていた。
「当たり前だろ……忘れられる訳、ないじゃないか」
レイベルの声には、微かに震えが混じっていた。
クレーンはため息をつく。「いい加減、目を覚ましな」
棘のある言い方だった。懐かしい過去に縋り付き、現実と直視できない未熟者。
それをクレーンは既に見抜いていた。
「……とっくに目は覚めてる。狩人も辞めるし、鍛治師も卒業だ」
「ならなぜこの都市に来た?」
短く、鋭い。返せる言葉が見つからず、レイベルは唇を噛んだ。
「……最後の仕事だ。メイビスの息子の防具を作りに、俺はこの都市に来た」
声は弱く、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「最後、か……」
意味深にそう呟き、膝をつくクレーン。そして目の前の墓にそっと手を添えた。
「正直なところ、あんたが狩人を半ば引退していたことは、薄々察してはいたさ。歳と共にあんたの名前を聞かなくなったからね。だから、森であんたを見かけた時、少しホッとしたのさ」
クレーンの顔が綻ぶ。けれど、それは一瞬だった。
「まだ希望があるかもしれないって思ったのさ。……あんたにじゃない。人に、だよ」
「……何が、言いたいんだ?」
「ようやく自分の責任と向き合う時が来たんだってね……でも、期待外れもいいとこだよ。……少し、現実を教えてやろう」
そう言ってクレーンがゆっくりと立ち上がり、レイベルの方に振り返る。
そして容赦のない言葉が、彼女の口から発せられる。
「ここに眠ってるのはね、私たちの最終目標だったーーヴァルゼリオスの被害者たちだ。メイビスの息子が、なぜあの怪物を目の敵にしてるか。……想像、つくだろ?」
「……おい、マークは、奴と戦ったのか?」
何を急に……と、戸惑うレイベルをよそに、クレーンは話を続ける。
「遠い地でな。だから、ここにあるのは形だけの墓。遺体も、残ってやしない」
レイベルが明らかな動揺を見せる。
「……なぜそれを今、俺に伝えるんだ?」
「あんたが選んだ結末を、見せたかったのさ」
冷たく事実を言い放つクレーンを前に、レイベルの心拍数が徐々に増していく。
「他人の命を背負う狩人が、その使命を諦めた結果を、無視していいはずがないだろ。私も、あんたも」
「だが俺はもう……狩人じゃーー」
「だからどうした? 引退すればその責任が無かったことになるとでも?」
落胆とも哀れみとも取れる発言が、彼女の口から溢れでる。
「メイビスを忘れられずに鍛治職に転身して、その結果、何もかもが中途半端とは……立ち直るには十分な時間が過ぎたと思うんだがね」
「あんたみたいに、誰もが強い人間じゃない」
「じゃあ、誰かが弱さに呑まれて死ぬのを見て、黙ってろって?」
クレーンの声音は変わらず穏やかだった。けれど、刃のような鋭さを孕んでいた。
「アタシはね、別にあんたの決断を恨んじゃいない。いや、あれは全員が決断した結果。恨むの筋違いってもんだし、逃げたって構わんさ」
「だがなーー」と、クレーンが一呼吸置く。
「選ぶべき瞬間を誤れば、それは生存ではなく敗北になる。あまつさえそれを後悔すると言うのなら……その意味、わかるよな?」
そう言った時の彼女は鋭い眼光だった。
その眼差しを浴びた瞬間、レイベルの頭にかつての記憶が駆け巡る。
メイビスとの日々、何気ないやり取り、幾度も乗り越えてきた死戦、そして……最後に選んだ選択。
「……今更説教すんなよ」
それらが想起され、レイベルの口調が荒々しくなる。
「説教じゃない。忠告だ。……ここまで来て、あんたがただメイビスの幻を追ってるだけなら――それこそ、あいつに顔向けできないだろ」
クレーン自身も、相当思うことがあるのだろう。彼女の目には、計り知れないほどの悲しみが積もっている様に見えた。
「これ以上情けない人生を送りたくないなら、せめて今暴れているセルセム級くらい、討伐してきなさんな。ヴァルゼリオスに比べりゃ、容易いもんだろ……」
そう言いながらレイベルの肩を優しく握る。
そのやりとりを最後に、クレーンは中庭を去ってしまった。
風が吹く。髪が靡き、草木が揺れる。心地よい空間がそこにある。
だがレイベルは、過去を向いたままだった。