夢の残り香
都市外に出て数分、レイベルはアマニュバーハ―がいると予想される近郊の森に到着していた。ここまでで異常は何一つ無く、アウルベルク周辺とさした違いはない。この一連の厳戒態勢が杞憂に終わると思わされる程に。だが、それが錯覚にすぎないことを、すぐさま思い知らされる。
森に足を踏み入れた直後、鼻を突く異臭がレイベルを襲う。血と腐敗の混ざり合った、明確な死の匂い。不快感が肌を這い、異質な空気が漂う。
異変はそれだけではない。初見でもハッキリと理解できるほどに、森が荒れ果てている。草木は枯れ、倒木が目立ち、彩りとはかけ離れた醜悪さが広がっている。
——一体何が……。
疑念を抱いたそのとき、彼方から響く衝撃音。詳細はだが、少なくとも事態が正常でないことは確かだった。
その確認へと動く前に、レイベルの視界を小型のモンスターたちが横切った。
——まさか、ブラナデール?
青い悪魔と称されるモンスター、ブラナデール。その異名の通り、全身が青い毛で覆われており、兎に酷似しているモンスターである。小さな体躯からは想像できない程に顎の力が発達しており、デュエクス級の危険度を持っている。さらに、毒牙と粘液毒を併せ持つ凶暴な性質。単体でさえ脅威であるのに、いま目の前を駆け抜けるのは三十体を超える群れ。
しかも、そのどれもが酷い損傷を負っていた。皮膚が爛れた奴、全身に裂傷のある奴、眼球が飛び出た奴など、重かれ軽かれ奴ら全員に損傷が見られた。
異様な光景に異様な事態が重なり森全体がレイベルの不安を煽り始めた——その時。
——グシュァ!!!
不安を一層煽る様に、不快な破裂音が鳴り響いた。
「……!」
目の前で、数十体のブラナデールが、何の前触れもなく肉片と化した。断末魔も残さず、まるで内臓から破裂したように。あたりに飛び散った肉片と血の線が、地面に惨劇の痕跡を残す。
そして——その元凶が姿を現した。
ブラナデールが逃げてきた方角、そこから悠々と歩いてレイベルを静かに見下ろす大型モンスター。
体長17メートルの胴体と分厚く尖った尻尾、体高7メートルという巨躯に加えて、視界に入らないほどの巨翼を背中から広げている。その飛膜はピンク色であり、スライム状の物体にコーティングされているように見える。また力強い四本の脚を携えており、その歩みが地に触れるたびに、ズシズシと周辺が微かに揺れを引き起こしている。さらに、歩くたびに鋭利な巨爪が地面を抉っている。恐らく爪は収納できるだろうが、敢えて剝き出しにしているのは威嚇のつもりだろうか。
だがそのどれよりも特徴的なのが、奴が露わにしている頭蓋骨である。全身がサラサラとした黄金色の毛で覆われているのに対し、頭部は肉で覆われ、箇所によっては骨が剝き出しであり、馬の様な縦長の白骨が晒されている。それが余計に恐怖を煽る。
——新種か?
レイベルの脳裏に過去の資料や知識が巡るも、一致する情報は無かった。
だが少なくとも、それがセルセム級——あるいはそれ以上の力を秘めていることは理解した。
状況を探る間もなく、モンスターは咆哮と共にスライム状の物体を周囲にまき散らした。粘液が花粉のように拡散し、やがて地面に無数のスライムを形成していく。それらは自主的に動き出し、不規則にレイベルを追い始めた。
並の大人であれば辛うじて逃げ切れる速度。だがその柔軟な動きで速度を落とすことなく獲物を追い続けるホーミング性。持久戦になれば厄介な相手だ。
スライムの動き自体は非常に不気味であるが、危険性があるようには見えなかった。
だが、ブラナデールの群れ、そして奴らの損傷。不吉な想像が脳裏を過る。
——なら……。
レイベルは冷静に状況を分析し、狙いを本体に定めた。
そして、巨躯のモンスターを中心に、スライム群の隙間を縫って円を描くようにレイベルが駆け始めた。死角へと潜り込み、剣を構えて跳躍する。
死角から攻撃に転じたのは一瞬の出来事。
だが——。
「ギュオン!」
剣が奴を貫く直前、奴の尻尾がレイベルを薙ぎ払った。尻尾と言うにはあまりにも重い一撃がレイベルを数十メートル吹き飛ばす。その威力もさることながら、相手を見ることなく攻撃する隙の無さ。
「……っ」
だがそれ以上考える暇は無かった。吹き飛ばされた先に、例のスライム群。
レイベルはそれを確認するなり、身を翻して木を蹴り、上方へと飛び退いた。
直後、地面から轟音が響く。スライム状の物体全てが爆ぜたのだ。地面はえぐれ、木は倒れ、一瞬突風が吹いた直後に悲惨な光景が視界一帯を支配する。
それはまさに、動く地雷だった。
爆発に規模、速度、予兆の無さ。明らかに自然のものではない。
だが——。
レイベルは臆することなく再び脚を動かしていた。枯葉を踏みつけ、えぐれた地面に足を取られることなく、軽快に、俊敏に、堂々と距離を詰める。
そこで初めて、奴が大きな動きを見せた。
レイベルと向い合うように確実にレイベルを視界に捉えながら、地面に尻尾を突き立てて力むような動作を見せる。
それでも足を止めることなく、レイベルは攻撃の間合いに入ろうとした——その時。
地中から無数の何かが宙に放たれた。小さい球体——ピンク色の弾丸。それがレイベルの周囲を囲む。
そして、一つが目にも止まらぬ速さでレイベルの頬を掠めた同時、全弾が爆ぜた。
間違いなく致命傷になり得る距離での爆破。だがレイベルはその攻撃を受けてなお、足を止めることは無い。
≪鍛冶初級スキル・対衝壁≫
万が一の時に火や鉄から身を守る鍛冶スキル。それを瞬時の判断で発動し、ダメージを最小限に抑えた。そして——。
≪狩人上級スキル・死重雫≫
一瞬にして右脚に四回の斬撃を叩き込む。一気に地を這うように血が噴き出したが、奴は怯むことなく、再び巨爪で反撃に出た。
一瞬にして空が裂け、再びレイベルを薙ぎ払う。直前に剣を構えたレイベルだったが、その速度と力で大幅に後方へ押し出された。
≪鍛冶中級スキル・鈍重≫
巨爪と剣を交えた瞬間、レイベルは体幹を強化するスキルを駆使したことで、宙に舞うことは無かった。
それでも、距離は離された。その瞬間に、逃げの選択が脳裏によぎる。
いや、その選択肢は相対した瞬間から持ち合わせていた。そもそもレイベルの目的はアマニュバーハ―。こいつを討伐する理由はどこにもない。
——なら何故?
その理由は本人にも分からない。自分の非力な現状と向き合い、潔く引退を決意するためか。もしくはこれ以上犠牲者を出さないためか。
——恐らくはそのどちらでもない。
『お気を付けてください。現在森には生態系に影響を及ぼす程のモンスターが生息しています。階級は現状調査中ですが、上位級の狩人も何名か戦闘不能になっています。彼ら曰く、得体の知れないピンク色の物体と、毒を行使するそうです。最大限の注意を払ってください』
そんなとき、ふと職員とのやり取りが脳裏を過る。その言葉を思い出しながら、レイベルが頬の傷を拭った。ただの掠り傷では生じにくい、グジュグジュとした感触。
「……毒か」
正体不明の爆発物質に加えて毒の性質。こいつが例のモンスターで間違いない。
「……」
モンスターの情報は少ないが、長期戦にもつれ込めば不利になるのはレイベルの方。毒をくらった状況では尚更である。
対する奴は傷口をスライムで覆って止血をし、悠々とレイベルを見据えながら歩みを進めていく。その足取りは実に悠長で、強者の風格を惜しげもなく見せびらかしている。或いは、レイベルを自身の間合いへと誘っているのかもしれない。
いずれにせよ、レイベルからすれば不都合な状況に変わりない。だというのに、レイベルの気持ちは先程よりも前のめりになっていた。
何故だろうか。最早彼を駆り立てる目標や意志など無いというのに。
いや、本当は気付き始めていた。懐かしい感覚が自身を包み始めていることに。
死力を尽くしてモンスターと対峙していた日々、すなわち、メイビスがいた日々。久しく忘れていた感覚と共に、微かなメイビスとの記憶が脳裏に浮かび始めていたのだ。
それが妙に心地良くて、愛おしくて、安堵感すら湧いてくる。
だから——レイベルは駆けていた。もっと、メイビスを感じ取るために——。
…………いや、違う。レイベルが感じているのは、それより遥か昔の——。
だが戦況は、依然残酷だった
またも地中からスライム。だが今度は弾丸ではなく、先端の尖った柱を無数に形成し、容赦なくレイベルを串刺しにしようと矛先を向けてくる。さらに薔薇の茎の様に、先端だけでなく柱の至る所から刺が枝分かれして、猛威を振るうだけでなく退路や逃げ道も塞ぐ二重の構え。
それでもレイベルは、僅かな地面の揺れから柱の出現場所を予測し——。
≪狩人特異上級スキル・風嵐爽層旋≫
周囲の柱を切り刻んで、進路を開く。
≪狩人中級スキル・一閃刺突≫
そして一瞬の間で、剣を奴の胸部に叩き込んだ。——瞬間、周辺のスライム全てが一斉に霧散する。
手応えはある。だというのに——。
「何だ……」
謎の違和感がレイベルの全身を包んだ。それを感じ取り即座に後退しようとするレイベル。だが。
「……こいつ!」
胸部に刺さった剣がびくともしない。刺した時の感触からして、剣を抜くのは造作もないこと。いや、問題ない。態勢を立て直した後に再び胸部に追い打ちをかければ——。
様々な思考がうずめく中、レイベルが剣から手を離し、大幅に後退した。瞬き一つの間に数十メートルの距離が空く。
その直後——。
「……っ!!」
背後から二本のスライムがレイベルに矛先を向けた。
間一髪のところで身をひるがえし、交わしたレイベル。だが右脚をかすり、左肩をえぐられ、直後近距離での爆破。
何とか致命傷は避けたが、それでもレイベルの身体が悲鳴をあげ始める。
「っ……ふぅー……」
血を肩と脚からぽたぽたと垂らし、呼吸も穏やかではない。
それでもレイベルは先程の一連の流れを思い返して、状況を分析してく。
スライム出現時、尻尾は地面に姿を現しており、予備動作などは無く視界にもスライムは映っていなかった。……であれば、地中にスライムを残していたのだろう。それなら説明がつく。
だとすれば、先程突き技を受けたこととスライムが霧散したのは、奴がレイベルの油断を誘うためにわざと行ったことになる。
「ハハ……まさかこれほどとは……自分が情けなくなるな」
情報を整理したことで、自身の不利性が際立ち、より一層死を意識し始める。
武器、優位性、知識。あらゆるものが不足しているこの状況で、打開策など無かった。元神級狩人とは言え、全盛期とはかけ離れた今の強さ。セルセム級以上のモンスターにここまで持ちこたえただけでも、十分と言えるだろう。それができたところで何の功績にもならないが
……すまん、メイビス。
もはやレイベルに勝ち筋など無かった。
けれど、最後に一矢報いたいと思う気力、欲だけは、まだ微かに残っていた。
いや、違う。このまま死んだら、メイビスに顔向けできないと思ったのだ。もっとも、死後の世界が無い限り二度と会うことはなのだが。
『根本的な部分では、俺は誰よりも弱い人間だった……でもお前はさ、お前なら——』
意図したわけではないが、不意にメイビスの言葉がよぎる。それが偶然にもレイベルを奮い立たせた。
≪狩人神級スキル——≫
そして、かつての——メイビスの記憶と共に想起された全盛期の自分。それを真似るように、死力を尽くす思いで自身の全力を全身に巡らせる。
狙うは剣の突き刺さった胸部。そこに重い一撃をぶち込む。
レイベルが鋭く眼を光らせ、狙いを定める。この一瞬で全てが終わる。いや、終わらせる……!
そう確信した次の瞬間。
——ズダン!!!
轟く銃声。そして、モンスターが血をまき散らしながら派手によろけた。
「——ベルィィィ!!!」
奴が視界を逸らした。その一瞬の好機を、レイベルは見逃さなかった。
奴の胸部に狙いを定めて、脚に力を集中させる。そして——。
≪狩人神級スキル——靆朙寸陰・一聚煌≫
今までの比にならない程の瞬発力で、刹那的な加速を見せる。瞬き一つの間には、奴の胸部に潜り込んでいた。直後、爆発的な加速力を殺すことなく、重い蹴りを剣に打ち込んだ。攻撃したレイベルさえ、その衝撃で僅かに後退するほどの威力。
「グルィイィィィ——グバッ……!!!」
一瞬の衝撃音と、けたたましい程の悲鳴を上げながら、奴がのけぞる様に後方に倒れ込む。かつての——全盛期の狩人時代が垣間見えた一連の攻撃。それは長年のブランクなど感じさせないものであった。
だが——浅かった
レイベルが抱いた確信は、たったそれだけであった。
いや、行動の軸となる脚を負傷し、毒も全身に巡りつつある状況である。それが至極当然の帰結だ。スキルが不発に終わらなかっただけでも御の字であろう。
「ふぅー…………くっ……ぐぶっ……」
とはいえ、そんなものは何の慰めにもならない。勝敗は恐らくついていないだろうし、その上レイベルに限界が訪れてしまったのだから。
毒が全身を支配し、止まらない出血がレイベルを蝕む。
やがて脚を痙攣させながらレイベルが前に倒れ込んだ。辛うじて頭を動かすことはでき、視界は奴の方へと向けていたのだが、都合の悪い事実だけがそこには映っていた。
ぼんやりとした視界で、奴が起き上がっている光景が分かった。しかも、逃げの姿勢を見せることなく、寧ろ依然レイベルに睨みを利かせながら、歩みを進めている。加えて、弾丸が放たれた方角に警戒をしつつスライムで顔を覆っており、徐々に顔が形成されていく様子は気味が悪いとしか言いようがなかった。
だが、そう思ったところで、意味は無い。
もはやレイベルにできるのは、死を待つことだけ。
「メイ……ビス…………」
レイベルが意識を手放しかけたその時——。
「——ブルゥゥウ……」
静かに歩みを止め、唐突に明後日の方向に顔を向けるモンスター。まるで何かを警戒するかのように、尻尾を地面に突き立てる。
その刹那、二体の同種族モンスターが凄まじい勢いで姿を現した。
エイドラス——影を纏ったように、黒い靄を体表面から常に放出している四足獣モンスター。その強さ、プラナデールと同じデュエクス級。
容姿は狼に似通っているが、四つの目、枝分かれしたような二つの尻尾、そして全長7メートルという体躯から、異質さを感じとることができる。さらに、靄の隙間から垣間見える白い毛並みは、上品な飼い狼の雰囲気すらある。
エイドラスは普通の狼と違い、群れで生息することはまずない。二体同時に姿を現したのはかなり珍しい光景である。
そんな上品さや珍しさも、自然界の中では無用な飾りである。故に、奴は迷わずスライムでの攻撃を仕掛けた。
耳を刺激する程の風切り音を響かせながら、地中から無数のスライムを放射していく。まるで砲台の見えない場所で、大砲が何発も放たれているようであった。加えて、先にも見せたスライムの爆破も併用して、確実に相手を殺る気でいる。
その攻撃を器用に躱しながら、一体のエイドラスがいとも容易く間合いに入り込む。そして、黒い靄の放出量を増大させ、相手の視界を遮りながら牙を向け始めた。
まだ小競り合い程度であるが、その迫力は目を見張るほどである。
——だが問題はそこではなかった。もう一体のエイドラスが歩んだ先、そこにレイベルがいたのだ。
黒い靄を絶え間なく垂れ流しながら、獲物めがけて駆けていく。
依然動くことのできないレイベルはどうすることもできなかった。
「……っ」
何とか体を動かそうとするも、奮闘虚しくすでにエイドラスの間合いであった。
そして、エイドラスが大きく口を開き、レイベルはそのまま無抵抗に、飲み込まれてしまった。