命を問う者
夜の帳が下りて久しく、部屋の隅に灯るランタンだけが、静かにその存在を主張していた。
そんな中、ベッドの上に腰かけたレイベルは、壁にもたれながらただ黙って天井を見つめていた。
眠気はない。かといって、思考がまとまるわけでもない。
頭の中では、クレーンの言葉が何度も反響していた。
――せめて今暴れているセルセム級くらい、討伐してきなさんな。
クレーンは何気なく言ったのかもしれない。
だが、その一言は、錆びかけた刃を思いがけず研ぎ直すように、胸の奥をかすかに揺らしていた。
「……倒したところで、何が変わるってんだ」
ぼそりと、誰に向けるでもない呟きが漏れる。
メイビスはもういない。あの過去に戻れるわけでもない。
たとえセルセム級を仕留めたところで、何も取り戻せはしない。ヴァルゼリオスとは無関係のモンスターなのだから。
そう何度も、自分に言い聞かせる。言い訳のように、念仏のように。
けれど――今夜ばかりは、その言葉が空虚だった。
レイベルは目を閉じた。
深く、静かに息を吐く。
重い天井を仰ぐように、微かな後悔と共に、過去の亡霊にそっと背を預ける。
何も変わらない。何も戻らない。
忘れたくない思い出が消えてゆく日々の中で、忘れたい記憶だけが、積もっていく……。
翌朝。
目を覚ましたレイベルは、しばらく天井をぼんやりと見つめていた。
昨夜は、ろくに眠れなかった。
浅い眠りと、過去の声と、後悔の記憶が頭の中で混ざり合い、まともな休息にはほど遠かった。
――それでも、体は動く。
ゆっくりと身を起こし、窓辺に立つ。
外はすでに陽が差し込み、街の喧騒がかすかに耳に届く。
新しい一日が、否応なく始まっていた。
部屋の扉を開けた瞬間、待っていたかのように声がかかった。
「おはようございます、レイベル様」
驚くレイベルの目に飛び込んできたのは、シスター服姿のメルンだった。
「……おはようございます。えっと……どうしたんですか?」
「朝食の準備が整いましたので、呼びに伺うところでした」
メルンは穏やかに微笑んだ。
まるで夜のざわつきを知っているかのような、柔らかな気遣いだった。
「……気を遣わなくていいですよ。でも、用意していただいのなら、いただきます」
柔らかな物言いに、メルンはくすりと笑って小さく頷く。
二人は廊下を並んで歩き出す。
古びた木材の床が、靴音に静かに応えるように軋んだ。
「ゼラさんは、まだいますか?」
レイベルの問いに、メルンはすぐに答える。
「本日は朝から議会に出席されております。セルセム級討伐部隊の編成に関する協議があるとか……」
「……そうですか」
その一言に、昨夜の会話がまた脳裏をよぎる。
『今はもう、ただの元教師です』と、どこか寂しげに言っていたあの男が、最前線の会議に出席している。
その意味を、レイベルは痛いほど理解していた。
教会の一角、簡素ながらも温もりのある食堂へと案内されたレイベルは、そこに既に腰かけていた人物を見て立ち止まった。
「……よう。その顔色から察するに、あまり寝られなかったらしいな」
食卓に肘をつき、パンを千切っていたのはクレーンだった。
昨日の厳しさは微塵もなく、まるでいつも通りのように軽口を叩く。
「……たまにあることだ。気にするな」
レイベルは努めて平静を装い、クレーンの向かいに腰かけた。
テーブルには、粗末だが温かいスープと焼きたてのパン、少量の干し肉が並んでいた。
メルンが湯気を立てたカップをそっと置き、無言で去る。
しばしの静寂ののち、クレーンがスプーンを置いた。
「で、あんた。わざわざこの都市まで来たのは、何の用だった?」
「……言ったろ、鍛冶師としての最後の仕事だよ。メイビスの息子の装備を作る。そのための素材が、アマニュバーハーの素材だ」
クレーンの眉がぴくりと動いた。
「アマニュバーハー……あの化け鳥、まだ素材に価値あるんだねぇ」
「俺にとっては、価値がある」
それだけを短く返すと、クレーンは小さく鼻を鳴らして笑った。
「なるほどね。だったら教えてやろう。今その素材を持ってる業者を、アタシは知ってる」
「……業者か。だったら競りの場に出るのを、待てばいいか」
「出る前に直接当たればいいじゃないか。紹介ぐらいしてやるさ」
「……やけに親切だな。見返りでも期待してるのか?」
「そんなものは無いさ。ただ、競りに出る前に買うとなると、条件付きにはなるだろうね」
「条件付き……その業者に恩でも売るつもりか?」
「まあ、そんなところだね。今のあんたにとっても悪くない話だろ」
レイベルは黙ってスープに手を伸ばした。
ーー再び狩れる保証もない。それを思えば、ここで手に入るのは悪くない選択肢か……。
少しの間考えた後に、レイベルは結論を出した。
「……わかった。案内してくれ」
「あいよ。昼過ぎには案内する。それまでに支度しときな」
クレーンはそう言って立ち上がった。
その背に、昨日と同じ言葉が、胸の内で再び鳴り響いた。
――せめて今暴れているセルセム級くらい、討伐してきなさんな。
その言葉が、心の奥で微かに火を灯し始めていた。
昼過ぎ、レイベルはクレーンに連れられ、都市の中央に位置する《商材統合所》へと足を運んでいた。
広大な石畳の敷地に、木製の屋根が連なる卸売区域。
普段なら活気に満ちたこの場所も、今は緊急警報の影響で殺伐とした空気が漂っていた。
「……妙に静かだな」
「皆ピリついてる。モンスターの流出で物流が止まって、生活用品は高騰、食料も限られてる。そんな中で金持ちは高級素材に群がる。いつも通りさ、嫌な意味でね」
クレーンは足を止めることなく歩き続け、目的の一角――素材業者たちの専用スペースへとたどり着いた。
「よう、ジルト。ちょいと邪魔するよ」
声をかけたのは、白い前掛けをつけた男。顔に深い傷跡を持ち、片目に眼帯を巻いている。
粗野だが目つきには商人のしたたかさが滲んでいた。
「誰かと思えば姉貴じゃねえか。素材の売却以外で来るなんて、珍しいな」
その言動はやや荒っぽい。しかし、醸し出す雰囲気から、クレーンに対して敬意を持っているのが分かる。
「アタシはただの付き添いだ。アマニュバーハーの素材を見せて欲しい。まだあるんだろ?」
「……なるほどなぁ」
何となくを察したジルトが倉庫の扉を開けると、中にはずらりと並ぶ保冷箱。
それらの奥から取り出された一つの箱に、確かに見覚えのある素材が入っていた。
――アマニュバーハー。白金に近い灰銀色の光沢、深く複雑な紋様が刻まれている。
そして何より、多彩で目を惹きつけられるほどの鮮やかさ。間違いなく、レイベルの求めている素材だ。
「分かってるとは思うが、競りの前に売るとなれば条件付きだ。他にも市場に出せない素材がある。こいつらとセットでって話になるが、どうする?」
そう言ってジルトが見せてきたのは、傷ついた甲殻、砕けた牙、血抜きが不完全な皮など、いずれも価値が下がると判断された素材ばかりだった。
「触っても?」
後ろで見ていたレイベルが、素材を見るなり興味を示す。
「ああ、構わねえよ」
許可を貰い、レイベルは一つ一つを無言で手に取る。
どれも粗悪品。鍛治で使うには手間も工夫も要る。しかし――
ーー……見覚えがある。
レイベルの脳裏に、若かりし日の記憶がよみがえる。
狩人を始めたばかりの頃、メイビスと共に獲ったモンスターを業者に持ち込んだあの日。
価値がないと突き返された素材たち。レイベルは処分しようとしたが、メイビスが止めたのだ。
『それなら俺が加工する。市場価値が無くたって、命は命だ。狩人は、それを忘れちゃいけない』
命の重さに、優劣はない。
狩人は、守る命と奪った命すべてに責任を持つ者だ。メイビスはそう語っていた。
レイベルはそっと、ひときわ傷ついた素材の一つに手を重ねた。
記憶の奥で霞がかっていた、大切なものが、確かにレイベルの手から伝わってくる。
「……すべて買う。提示額は?」
その思い出を守るように、優しくそう言い放った。
「……本当にいいのか?」
まさか本当に全部買うとは思っていなかったのか、ジルトは目を丸くしながらもそう訊ねた。
「ああ、構わない」
「そうか。返品は受け付けねえから、大切に使えよ」
そう言って即座に帳面を取り出し、金額を提示する。
レイベルはそれを快く承諾した。
やがて取り引きが終わり、素材が木箱に詰められたままレイベルのもとに届けられた。
その後、荷を担ぎながら、クレーンと教会への帰路につく。
「……えらくデカい買い物になったじゃないか」
クレーンが軽口を叩いた。その声に皮肉はあれど、どこか探るような気配が混じっていた。
「……ああ」
「そうしたのは……結局、メイビスの真似事か?」
クレーンが立ち止まり、真剣な表情でレイベルを見た。
問いに、レイベルは長く答えなかった。
だがやがて、荷物を降ろし、わずかに息を吐いた。
「違う。あいつの代わりになろうなんて思ってない。でも……あいつの信念だけは、置き去りにできなかった」
クレーンは何も言わずに、立ち尽くしていた。
「……聞こえはいいが、所詮は過去に縋ってるだけじゃないか」
冷ややかに投げられた言葉。
だがレイベルは、もはや目を伏せなかった。静かに、だが確かな声で応じる。
「……ああ。そうかもな。でも、あいつが信じたものだけは、俺も信じてみたいと思った。たとえ、それが無意味だとしても」
沈黙。
風が、二人の間を吹き抜けた。
やがて、クレーンが呟いた。
「……死者の背中を盾にしてるだけなら、そんなもんやらない方がマシだよ」
「分かってる。これは俺自身の選択だ。死ぬのも、生きるのも……全部、自分の責任だってことくらい」
そして、ふと空を見上げる。
「……だから、セルセム級の討伐。俺も、参加するよ」
その言葉に、クレーンの表情がわずかに揺れた。
「鍛冶師になったのは、あいつの信念を残すためだった。でも――気づいたんだ。あいつの面影は、狩人だった頃の俺にしか、残っていないって」
メイビスの意思を継ぐために、レイベルは彼と同じ職業に転身した。だが、メイビスのことを思い出すのは、狩人として向き合っている瞬間だけであった。
それを最近になって、レイベルは理解した。
だからーー。
「もう一度だけ、狩人として向き合ってみるよ」
そう言ってもう一度、背中に箱を担ぎ、静かに歩き出す。
クレーンはその背を見つめながら、小さく息を吐く。
「理由と責任まで、あいつに押し付けるなよ」
クレーンの言葉に、レイベルは微かに頷く。
「……ああ、それでも俺は、答えを探してみる」
その声に、激情も悲壮もなかった。ただ、諦めの果てにある静かな決意だけが滲んでいた。