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ELEMENT 2016秋号  作者: ELEMENTメンバー
テーマ創作「夕暮れ」+「染まる」
5/13

あかね(作:霜月透子)


 初めて会ったのがいつだったのかどうしても思い出せない。けれども初めて会った時のことはよく覚えている。


 学校からの帰り道、少しでも近道をしようと小さな児童公園に足を踏み入れた時だった。キーコ、キーコと奥歯のさらに奥にしみこむような音がしていた。

 この公園に人がいるのは珍しい。あたしも幼稚園児の頃はこの公園でよく遊んだが、小学五年生の時だっただろうか、二ブロック先に新しい公園ができてからはみんなそっちで遊ぶようになったのだった。

 それ以来、この公園はただそこにあるだけの空間になった。あたしみたいに斜めに突っ切って通り抜けるくらいしか人が立ち入ることはない。


 ブランコのほかは砂場しかない小さな公園。しかもその砂場は野良猫がトイレにするからとの理由でずいぶん前からブルーシートで覆われている。これではこの公園に人が寄り付かないのは当然だ。


 キーコ、キーコ……。


 音につられてブランコを見やる。

 二つ並んだブランコの向かって左側、大きな木の影が落ちている方に髪の長い女の子が揺れていた。女の子といってもあたしと同じくらい、たぶん中学生だと思う。見たことのない制服を着ている。群青色のブレザーに夕焼け色のチェックのスカート。


 ブランコはずっとそこにあったのに、あたしは今初めて見つけたかのような新鮮な気持ちを味わっていた。支柱は緑色のペンキが剥がれかかって斑模様になり、ブランコの座面も本来の色がわからないくらい色が失われている。女の子が座っている方も同じ状態だろう。公園のほかの部分から切り離すように四角く囲った柵だけがなぜか綺麗に緑色のペンキが塗られていた。


 あたしはザッザッと砂をこすりながら歩み寄る。

 女の子はズザッと大きな音を立ててブランコの揺れを止めた。ローファーが砂埃にまみれるのを気にする様子もない。


「こんにちは。それともこんばんはなのかしら」


 彼女が当たり前のように声をかけてくるから、あたしも「こんにちは。そしてこんばんは」と返す。


 昼でも夜でもないこの時間帯はたしかに挨拶に困る。近所のおばさんに会うとまず会釈をして相手が声をかけてくれてから同じ挨拶を返すようにしている。同時に挨拶したのに昼と夜が重なってしまう気まずさを味わいたくなくてそんな方法を取るようになったのだが、我ながらいいアイデアだと思っている。

 なのに彼女はその曖昧さを気にも留めていない。あたしを包む時間は昼と夜で区切られていて今この時はその隙間なのに、彼女の時間は昼も夜も繋がっている。そんなことがすごく新鮮だった。


「わたしね……っていうの」


 公園の脇を宅配便のトラックが通りかかり、彼女の声はかき消された。


「え? なんて?」


 聞き返すと、彼女は空を見上げやわらかに燃える雲を指差した。


「――あかね」


 身体の内が弾けた。目を伏せても瞼の内に暖色がにじんでいる。じわりと全身に広がっていくのを感じる。

 彼女は私の内なる変化になど気付くはずもなく、足元の砂地に細い人差し指を立て、漢字を一文字書いた。


 ――茜


「わたしね、(あかね)っていうの」


 一度はかき消された言葉を彼女は再び紡いだ。

 あたしは自分の指の太さと短さに恥じ入りながら、急いで漢字を一文字書く。


 ――朱


「あたしも、(あかね)っていうの」


 文字さえ異なれども同じ名前に興奮するあたしと違い、彼女は笑顔でひとつ頷くだけだった。

 それが茜との出会いだった。



      *



 茜は公園にいる時もあればいない時もあった。待ち合わせをしているわけでないから当然と言えば当然なのだけれど、あの大きな木の影が落ちるブランコに座る姿がないとあたりが急に暗くなったような気がするのだった。


 茜の姿があると公園は時間を巻き戻したかのように明るさを増す。

 私は隣のブランコに腰かけ、地面に足をつけたままユラユラ揺れながらその日あったことなどを話したりした。いつも話すのはたいていあたしの方で、茜は「へぇ、それはおもしろいわね」とか「それから朱はどうしたの」とか相槌をうって笑顔で何度も頷くだけだった。

 だからあたしが彼女のことで知っているのは、市外の私立中学に通っていること、ピアノとバイオリンを習っていること、両親は帰りが遅くてご飯は家政婦さんが作ってくれること、それだけだった。それ以上の話を彼女はしなかったし、あたしも聞かなかった。

 茜はいつもあたしより先に来ていて、後から帰る。だからあたしは彼女がどこから来てどこへ帰るのか知らない。

 言葉で説明できるほど彼女はありきたりではない。あたしの隣で揺れているサラサラの長い髪と触れたら溶けてしまいそうにしろい肌と秋の虫のような涼しげな声――それがすべてだった。


 背後から射す夕日にあたしの影が緑の柵まで伸びているのに、隣で揺れる茜の影は大きな木の陰に重なって見えない。ブランコが揺れるたびに男の子みたいに短い髪の影が緑色の柵にゴツンゴツンと音もなく当たるのをぼんやり眺めながらあたしはいつも思う。二人並んだ影を眺められればいいのにと。


 あたしは茜みたいになりたい。


 あたしは茜になりたい。


「わたし、朱みたいになりたいわ」


 あたしはびっくりして無言で茜を見つめた。


「やぁだ。なにその顔。目も口もまんまるにして」


 茜はすごくおかしそうに笑う。そんな笑い声すら軽やかで、耳から入ってきた音の波が胸の奥をくすぐる。


「茜ったらなにを言っているの? あたしなんかいいところないのに」


「朱こそなにを言っているのよ。わたし、大好きよ、朱のこと」


 あたしは瞬時に耳が熱くなるのを感じた。でもきっと夕日に照らされてその色は茜にはわからない。


「ねぇ、そのブレザー着てみてもいい?」


「え? あたしの?」


 公立中学の制服は昔ながらのデザインで、黒に近い紺色の上下だ。三つボタンのブレザーと箱ひだプリーツスカート。どう見たって着てみたくなるようなデザインではない。


「朱の真似をしてみたいの」


 腑に落ちないものの、嫌な気分はしない。あたしはブランコから立ち上がるとブレザーを脱いで茜に渡した。すると茜は自分のブレザーをあたしの肩にかけた。


「茜はこっちを着てみて」


 群青色の茜のブレザーと紺色のあたしのブレザーならそんなに違いはないだろうと思ったのに、実際に着てみるとまったく印象が違った。


「どう?」


 茜が袖口をちょっと摘まんで両腕を広げる。まったく似合っていない。返事をしないあたしの態度から察したのか、茜は眉根を寄せて「おかしいわねぇ」と不満げだ。そしてハッと笑顔になって言う。


「スカートも交換してみましょうよ」


「は? そんなこと、どうやって……」


 いくら人通りが皆無に近いとはいえ、公園でスカートを脱ぐなんてことはできない。


「大丈夫よ、ほら」


 茜はあたしの手を取って木の裏側へと回った。太い幹はふたり横に並んでも正面からは見えないくらいの幅がある。躊躇いもなく茜がスカートのファスナーに手をかけるから、あたしも慌てて自分のスカートを脱いだ。素早く交換して着替える。


「これならどう?」


 予想通りまったく似合っていない。むしろ滑稽なほどに。あたしが首を横に振ると茜は小さな口を尖らせた。彼女はこんな表情すらかわいらしい。



      *



 似合っていないというのに、茜はそれからも時々制服を交換したがった。

 木の裏側で着替えることに慣れて抵抗がなくなってくると、あたしも制服交換が楽しみになった。茜の群青色のブレザーと夕焼け色のチェックのスカートはきっとあたしにちっとも似合っていないけれど、鏡なんてないのだからそんなことも気にならなかった。茜の温もりの残るおしゃれな制服を身に着けることであたしの手足は甘く痺れ、全身がとろけそうになる。


 茜と並んでブランコに揺れていると、意識までもがとろけていき、藍に移りゆく空に吸い込まれそうになる。

 あたしが茜に染まっていく――そんな感覚が心地よくてたまらない。右を見ると、茜も恍惚とした表情でブランコを漕いでいる。


 キーコ、キーコ……。


 ふたりのあかねが揺れる。



      *



 キーコ、キーコ……。


 公園に入り、ブランコを見やる。二つ並んだブランコの向かって左側、大きな木の影が落ちている方に髪の短い女の子が揺れていた。

 瞬時に胸の奥が冷え、わけもなく怖いと思った。けれども立ちすくみそうになる寸前に女の子が手を振ってきた。

 ――茜だった。

 あたしは走り寄る。


「どうしたの、その髪!」


「どう? いいでしょ?」


 彼女のサラサラと美しい長い髪は男の子のように短く切られていた。


「それって……」


「お揃いよ」


 微笑みは変わらないのに胸の冷たさが背筋を這い上ってくる。首筋を伝い、頭皮全体に鳥肌が立つのを感じる。


「制服、交換しましょ」


 茜はそう言って、いつものように木の裏側へと向かう。

 行きたくない。そう思うのに意識と身体が分離してうまく言うことをきかない。

 声など掛け合わなくてもあたしたちは手際よく着替えることができる。


 群青色のブレザーと夕焼け色のチェックのスカート。

 紺色の三つボタンのブレザーと箱ひだプリーツスカート。


 木の陰を出てブランコに腰かける。珍しく茜が木から離れた方のブランコに向かうから、あたしは大きな木の影が落ちるブランコを揺らす。

 地面に映る影は二人並んだ姿を映さない。

 背後から射す夕日に私の影が緑の柵まで伸びているのに、隣で揺れるあかねの影は大きな木の影に重なって見えない。ブランコが揺れるたびに男の子みたいに短い髪の影が緑色の柵にゴツンゴツンと音もなく当たるのをぼんやり眺めながら私は思う。――さあ帰ろうか。


 わたしはブランコを降りて緑色の柵を越えていく。ザッザと砂をこすりながら歩み去る。振り向いてももう木の影もブランコも闇に溶けていて、そこになにかあるのかも誰かいるのかもわからない。夕闇迫る公園を抜け、家路を急ぐ。


 キーコ、キーコ……。


 あれはブランコの――いいえ、違う。あれは、昼と夜の隙間が軋む音。


 隙間は時に大きく開くから。開いたり閉じたり。行ったり来たり。前にも後にもままならない。だから近寄ってはいけない。挟まれないように落ちないように――。


 私はあかね。


 さあ、おうちに帰ろう。まっすぐ進もう。曖昧に淀んでいく記憶と共に。


 風に耳を澄ませばキーコ、キーコと奥歯のさらに奥にしみこむような音がしている。





          (了)


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