夕暮レンジャー(作:marron)
「夕暮レンジャー」
会社帰りの通勤電車で、俺はあぶら汗を滴らせていた。
下腹に激しい痛みと膨れ上がる異物感を感じ、これまでかと電車を降りた。向かう先は駅構内のトイレだ。頼む、空いていてくれ。男性用トイレの個室は少ない。そのわりにいつでも埋まっていて、なかなか空かない。頼む空いていてくれ。
俺は祈るように顔をしかめながら、荒い息でトイレに駆け込んだ。
「空いてる!」
天の救いか。個室は空いていた。というか、誰もいないトイレだった。昔ながらの駅のトイレで、汚くて臭いが、今はそんなことはどうでもいい。緊急事態だ。
大急ぎで個室に駆け込んで、立て付けの悪い扉を閉める。
以下自主規制・・・
とにかく俺は、事なきを得て満足げに目を瞑った。
◇◇◇
今日は少し早めに仕事が終わり、まだ日のあるうちに会社を出た。こんな夕暮れ時には決まってある“モノ”を見る。
家のそばの、電信柱と壁の隙間から、ニョイっと男が現れる、ソレだ。
怪しい。かなり怪しいのに、誰もソレには目もくれない。
だいたい、くすんだ紺色の全身タイツを着ているんだぜ?怪しさ満点だろうが!それが、電信柱の陰から現れてみろよ。明らかに不審者だろうが。
ところが、誰もそれに気づかないらしい。
見えてないのか?
俺だけが見ている幻か?そんなわけあるか!こんなにリアルに見えていて、影もあれば足音もするのに。
しかもそれだけじゃない。ていうか、1人だけじゃない。紺色の次には色あせた薄茶色いヤツも出てくる。それから薄汚れた赤も出てくる。こいつらはいつも3人一緒なんだ。
で、何をやっているかというと、子どもの後をつけていく。
どう見たって不審者だろうが!
通報だ、通報!とは思うんだけど、気が付くといなくなってるんだ。子どもは無事だし、って、こいつらの後をつけて行く俺のほうが不審者になっちまうから、最近では見かけてもついていかないようにしている。
ところが、今日は家のそばまで帰ってきた時に、ちょうどばったり紺色のが現れたところだった。
「うわっ!」
俺は思わず叫んでしまった。だってビックリするだろうが。
しかもおあつらえ向きに、なぜか俺は虫取り網を持っていた。その長い柄を使って、紺色の頭を捕まえた。
紺色はジタバタともがきながら、前へ進めずにいる。
こいつ、バカか?それとも、幻だからこういう反応?いや違うだろ、この虫取り網を伝わってくる振動。質量。どう考えても幻ではない。
そう思っていると、茶色が現れて、虫取り網を紺色から外してしまった。
「何をやってる、いそげ」
と茶色に言われて、紺色は頭を擦りながら
「任せろ!」
と言って走って行った。
その先には、泣きべその子ども。
紺色は泣きべその子どもに寄り添うように歩いている。
その間に、茶色は反対方向に走って行った。
それから赤いのも出てきて、携帯っぽい機械で何かを検索したり、どこかに電話を掛けたりしている。
俺は紺色が悪さをしないように、少し離れてついていくことにした。悪いやつには見えないが、怪しすぎることに変わりはない。
泣きべその子どもは、紺色があんなに至近距離にいるのが気づかないのか、気にせず相変わらずべそをかきながら歩いている。時々紺色が子どもの頭を撫でても、無反応だ。
やっぱり幻なんだろうか。
ふうむ・・・?
少しすると、赤色が合流していた。携帯で電話をしている。
すると、向こうからエプロン姿のおばちゃんが血相変えて走ってきた。前を走るのは茶色だ。まるで茶色がおばちゃんを誘導しているみたいだ。だけど、おばちゃんは茶色を見ているようには見えない。
そしておばちゃんは
「あっちゃん!」
と言って、子どもに駆け寄って抱きついた。
お、迷子だったのか。見つかって良かったな。ということが分かると、あの怪しい紺色と茶色と赤色は円陣を組んで雄たけびを発していた。
「よっしゃー!」
って、なんなんだよ。
親子は何事もなかったかのように、去って行った。
あとに残る怪しい3人組。
再び虫取り網の出番だ。俺は一番鈍そうな赤色の頭を虫取り網で捕まえた。
ジタバタともがいている。よし捕獲成功。
「ちょっと、何するんですか」
紺色が俺の方にやってきた。茶色は赤いのを捕まえている網を取っている。
「うわっ、喋った。やっぱり、喋ってるよな」
俺は自分に向けてかけられた言葉に感激して、思わず喜んだ。そして、近づいてきた紺色の頭や肩をペタペタ触ってみた。うん、人間だ。普通の人間。体は細いが筋肉もある、わりと若い人間だ。
「あなた、何なんですか?」
また紺色に聞かれた。
ていうか、そのセリフそっくり返したいよ。
「あの、俺は・・・」
と言い淀んでいると、赤いのがこっちに来た。
「大きいのに迷子ですか?住所は言えますか?」
「お、俺?俺は迷子じゃない。あんたたちこそ、子どもを付け回したりして、何者なんだよ」
長年の疑問をついに聞くときが来た。
すると3人は胸を張って答えた。
「僕たち、迷子救出戦隊・夕暮レンジャー!シャキーン!」
シャキーン!って・・・いい、いい。見得を切らなくて良いから。そんなポーズいらないから。恥ずかしいから、ヤメテ。
ところが、こんなヘンテコなやつらに、道行く人たちは誰も関心を示していないようだ。いや違うか?こんなやつらには関わらないということか。うん、そりゃそうか。
「迷子救出?」
「そうです。この夕暮れ時は迷子が増えます。僕たちは迷子を保護し、また家やおうちの方を探して、救出する正義の味方です」
あー。うん。
「かっこいいねえ」
つい棒読みになってしまったが、夕暮レンジャーたちは嬉しそうに頷いた。
「あなたは迷子ではないのですね。では何か失くしましたか?忘れ物ですか?」
仕事熱心だな。
「いや、俺は大丈夫だよ。もう、そこが家だし・・・」
と言って、ポケットに手を入れてギクっとした。
「鍵が、ない」
「鍵がないですか!」
「鍵ですね!」
「よっしゃっ」
よっしゃ、ってなんだよ。なんで俺が鍵を失くすと喜ぶんだよ。なんだよその嬉しそうな顔は!
赤色は携帯っぽい機械を起動して、それから言った。
「ブルーは迷子の身辺捜査」
「ラジャー!」
お、おいっ、何すんだっ。紺色は俺のズボンや上着のポケットを調べ始めた。って、俺は迷子じゃないぞ!
「イエローは駅までの道のりチェックだ」
「ラジャー!」
茶色は駅に向かって走り出した。って、あれ、イエローか?かなり茶色いぞ?
「あっ!」
ブルーと呼ばれる紺色が声を上げた。紺色が指をさしているところは俺のズボンの裾だ。折り返しのところに鍵が入り込んでいたらしい。うわ、こんなところにひっかかってたら、落ちてチャリンという音もしないし、見つけられないよな。
「は! もう日が暮れる! では、さらばだ!」
「はい!?」
俺が感心していると、夕暮レンジャーたちは俺の鍵を取り出しもしないで、いきなり走り出すと、電信柱と壁の隙間に走り込んでいった。
あまりにも急に彼らがいなくなったので、しばし呆然としてしまった。何だったんだ一体。
辺りはもう、日が落ちて暗くなっていた。
◇◇◇
「はっ」
臭い。俺は駅のトイレで目を覚ました。大丈夫、便器の上で突っ伏していたから、どこも汚していないさ。
痛さのあまりか、安堵のあまりか、気を失っていたらしい。
とすると、今のは夢か。
そりゃそうだ。あんなヘンテコななんとかレンジャーとかいるはずがない。俺が子どもの頃から、夕方になるとなんとなく見かけるあの物悲しい空の色がそのまま人になったかのような、くすんだ正義の味方たち。俺の想像力も大したもんだ。
などと思いながら、ズボンを履き直し、荷物を持って個室を出ようとした。
その時、個室の取っ手のところにこんな張り紙がしてあった。
『お忘れ物はありませんか?』
というどこにでもある張り紙だ。
くすんだ紺色の紙に、色あせた薄茶色の文字とそれを強調するような、薄汚れて見える赤い線が書かれている。
ハッとして俺は、ズボンのポケットをまさぐった。
「鍵がない」
頭の中で何かがそれのありかを教えようとしている。なんだったか、俺は鍵を失くしても、ちゃんと見つけることができると、誰かが教えてくれたじゃないか。なんだっただろうか。
きょろきょろとトイレの個室の床を見てみたが、鍵は落ちていない。
キーホルダーがついてるから、落ちたらチャリンと音がするじゃないか。
「あ!」
と、俺はくすんだ紺色が叫んだのを思い出した。彼は俺のズボンの裾を指さしていた。
俺は右足を上げて、ズボンの折り返しの中に指を突っ込んだ。
― チャリ ―
「あった」
ホッとして、俺は鍵をポケットにしまった。俺は張り紙を見ると笑顔を作った。
「ありがとう、夕暮レンジャー」
そしてトイレの個室の扉を開けて、世話になったトイレを後にしたのだった。
おしまい