僕の感じた「Fate/stay night」
今回はゲーム会社タイプムーン発売、奈須きのこ氏シナリオ執筆の「Fate/stay night」について考えていこうと思う。だが、出端でなんだが私はこれをプレイしたことがない。(厳密には知人に勧められやってみたが文を読むのが苦痛でやめてしまった。いつかやらねば)しかし、わたしはこの「Fate/stay night」が傑作であると断言できる。もっといえば脅威ですらある。私はこの作品がなぜ和声ファンタジーとして正確に認知されないのかが不思議でならないのである。
私は「Fate/stay night」の傑作たる所以を奈須きのこが持つ貴族的嗜好だと考えた。まず貴族的嗜好について述べる。
スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは「大衆の反逆」の中で〈常に幅広い視野を持ち自己を更新し続け、成長させ続ける高貴なる生〉を持つ者を貴族と呼んだ。それに対して〈自ら何もせず権利だけを主張したり、自身の専門分野にしか目をやらぬ盲目的な生〉を持つ者を大衆と呼んだ。イ・ガセットの活躍した20世紀はまさに戦争の只中に怪しげなパワーの大衆というものが現れ始めそれに対しての警鐘としてこの書はかかれたようである。
私は奈須きのこの描く魔術師の中にこの〈常に幅広い視野を持ち自己を更新し続け、成長させ続ける高貴なる生〉貴族を見るのである。彼ら魔術師は根源への到達を目指して日々魔術を研鑽してゆくようである。そこには世間一般の大衆とはあきらかに違った世界で世界と向き合う人間の姿がある。奈須きのこの魔術師への描写には西欧へのそんな貴族的嗜好が漂っている。そこはかとないインテリジェントの香りである。その魔術師の貴族的嗜好はティーンエイジャーの孤独性と奇妙にマッチングし、「そう、僕達の孤独性はまさに魔術師の貴族の理知と同じだったんだ!」と、なんとも香しいものになるのである。まさに魔術協会はカルチエラタンを思わせるばかりである。それに、主人公である衛宮士郎の「英雄でありたい」という思念もまさに貴族故のものではないだろうか。その類似点を上げていけばきりがないだろう。周りは根源を求める魔術師=貴族ばかりなのだから。おそらく奈須きのこ自身の中に貴族的嗜好がねむっているのではないだろうか。「Fate/stay night」が文学であるという言説もこの貴族的嗜好に依るのではないかと私は考える。
私は多読ではないが魔術を貴族として先鋭化して描いたファンタジーはあまり多くはないのではないか思う。ファンタジーにかく魔術というと自然神秘なものが多くなるが、いつか「Fate/stay night」が一般的大衆受けファンタジーとして肩を並べる日が来ることを願うばかりか。もし私の言うこの作品が貴族だったならば難しいかもしれない……。