煙草
寅次は、N病院の前に立っていた。
N病院は日本の高度経済成長の一習表を担い、涼浜工業地帯の立役者でもあり、現在の大都市Kの礎を築いたN企業がたてた病院であった。同時に、空を煤煙に染め、長い歳月に渡ってK市の空から太陽を消し、乳児さえ鼻毛が延び、幾多の公害病をうんだ。街は若い労働者で溢れ、商店街は活気に満ち、色街が路地裏に現れるとヤクザがしのぎを削った。
寅次は、そんな時代にこの街で過ごした。
あれから五十年が経ち、寅次は七十歳になっていた。N病院は見違える程綺麗になり、古い建物に次々と増築した棟を継ぎ合わせた病院と新しいビルのクリニックに分かれ、学校程もある広い敷地の多くは、コンクリートとアスファルトで埋め尽くされ、駐車・駐輪場を縫うように救急車が忙しなく往き来した。
建物の外壁や敷地の至る所に”禁煙”の表示があった。
まだ梅雨が明け切らぬ六月の空は、薄雲に漏れた淡い光が、昨夜降った雨の湿気とで煙っていた。
(あの頃は、どこもかしこも煙っていたな)寅次は呟くと、目を深々と閉じた。
病院の待合室は、居酒屋さながらに賑わっていた。
「そんな病気、呑めば吹っ飛ぶわ。」
「バカヤロー!」
罵り声が飛び、換声が渦巻く。
叩き合う花札博打ーーー入れ墨に彩られた逞しい背中があった。
咽せる煙草の臭いに負けじと厚化粧に身を包んだ娼婦が、勝負の行方をうかがった。煙草の煙は入り組んだ院内の通路に漏れると、狐の尾を描くように延びては消えた。それは他の待合室も同じであった。今はなき、昭和の光景でもあった。
「お父さーん、何してるの?!」
七〜八メートル隔てた玄関先で、妻の恵子が呼んだ。一人息子の要一は、つい先程仕事を離れて駆けつけ、肌着など衣類の詰まった紙袋を下げ、母に寄り添って立っていた。
寅次は顔を反射的にあげた。が、すぐさま足元に目を落とした。アスファルトの割れ目に雑草が小さく茂っていた。数匹の蟻が触覚をピンと張り、右に左に斜めにと方角の定まらぬ動きを繰り返し、まるで忘れ物を探しているように見えた。
寅次の触覚は、蟻よりも忙しかった。
二十五年前ーーー来春、小学校に上がる娘の誕生日を祝うために、親子三人自宅近くの焼き肉に入った。
ビビンバに焼きたてのカルビをのせ、黙々とスプーンを動かしていた娘のミユは、突然立ち上がった。小さなほっぺに数粒のご飯をつけ顔を寅次に向け、口を尖らせて言った。
「ミユ、ランドセル、持ってくれば良かった!」
買ったばかりの赤いランドセル。ミユは何処へ行くにも離さなかった。
恵子に手を引かれ、ミユは自宅に向かった。
一人になった寅次は、ビールで潤った口の中に肉を放ってはぼんやりと窓外に目を放っていた。
バルブ景気に浮かれた若者の乗った車は、耳鳴りがする程の爆音を残し、疾走した。
土曜の夜と合って、家族連れが多く、狭い店内は、話し声が壁や天井に弾かれ飛び交っていた。
突然、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
寅次の目に、窓に、赤い点滅ランプが映った。
ガードレールに、引きちぎられたランドセルがころがっていた。
家族を失った現実に、寅次は実感が持てなかった。乾いた虚しさばかりが、夏の虫のように肌にまとわりついた。
深夜の風の悪戯。カチャッと音が鳴るだけで、寅次は飛び起きた。
再生録画のように、ミユの顔が目がランドセルを背負った弾ける笑顔が・・・。
闇の中に浮かぶ。。。
浴びるように飲んでも、寅次の心は晴れなかった。
妻とミユの死から一ヵ月ばかりが経ったある日、寅次は行きつけの居酒屋で泥酔し、眠ってしまった。
店内は水を打ったように静まり返り、開け放ったドアの間から眩しい朝日の光が延びていた。
ママの恵子と長い間話し込んだのは、初めてであった。恵子は日本名を名乗っているが、韓国国籍、肉づきのいい、目が大きく瞳の実に綺麗な女性である。その瞳が寅次をじっと見詰めていた。
「寅ちゃん、これでいいの?この先、どう生きていくつもり?」