peace
「それ、見せてもらってもいいですか?」
A子が事務所で残業中、後ろから声をかけられた。振り返ると、アルバイト学生のBがいた。
机の上の、たまご色のソフトケースを指差している。さっき外から戻って来て、置いたままにしていたのだ。
「いいけど、タバコに興味あるの?」
Bはいかにも硬い印象でその上まだ未成年なので、彼女は意外に思った。
「吸うのは全然。でも、パッケージのデザインが好きなんすよ、なんか」
そう言って彼はケースをつまみ上げ、物珍しそうに眺めている。
「へぇ」
彼女は興味なさそうに適当な相づちをうった。
「タール21㎎ってずいぶん強いですよね?女性では珍しい」
「まあ、たまにしか吸わないから」
指摘されて、彼女はなんとなく弁解めいたことを言った。
昔と違って、今は喫煙者というだけで肩身の狭い思いをする。この会社も数年前に全面禁煙になってしまった。
(社員の健康のためというなら、まずこの過重労働をどうにかしなさいよ。ブラック企業がっ)
A子が心の中で毒づいた。
「誰かの影響ですか?お父さんとか」
彼女の内心を知るよしもないBは、呑気に問いかけた。
「えーと……!」
「?」
「うん、そうね。父がいつも吸ってたから、馴染みがあったのかな」
彼女はとっさに嘘をついた。
彼女にタバコを教えたのは、その当時勤めていた会社の上司だった。
社会にでたばかりのころ、右も左もわからない彼女に、その年上の男は色々なことを教えた。 まるでひな鳥に親鳥が餌を運ぶかのように、彼は彼女に多くを与えた。仕事だけでなく、プライベートでも親密になった。
その人が吸っていたのが、この銘柄だった。
出会ってしばらくして男女の関係になったころ、彼の部屋にあった物を興味本意で吸ったのがきっかけで、A子に喫煙の習慣ができた。
そんな風に、彼をきっかけにして始めたことはたくさんあった。彼は彼女にとっては自分の全てだった。
だからその関係が破綻したとき、彼女は全てを否定された気持ちだった。
そして辛さから逃れるために、彼に関わるものを全て捨てた。プレゼントや手紙はもちろんのこと、デートに着ていった服や、彼とことに及んだ寝具まで。会社もやめた。本や音楽などで、彼が好きだと言ったものは全て暮らしから排除した。引っ越しを検討しだしたころ、心配した実家の両親に連れ戻された。
それくらいに色んなものを捨てたというのに、タバ コのことは今の今まで思い至らなかった。彼女の生活に深くくいこんで、すでに自分の一部になっていたのだ。
「こんなところに、まだ残っていたのね」
A子は苦笑した。
「ああ、1本残ってますね」
Bは箱を覗きこんで答えた。
「え?あ、そう」
噛み合ってないようで微妙に噛み合ってしまった会話に、A子は曖昧に返事をした。
ふと時計を見ると、午後10時を回っていた。
「ほら!サボってると終わらないわよ!」
A子は、手をパンパンッと叩いてBを促す。
「はい!」
彼はあわてて自分の机に戻った。A子も作業に戻る。広いオフィスにただ2人。穏やかな緊張感で満たされていた。
しばらくしてアラームがけたたましく鳴って、A子は我に返った。Bがあわてて、ケータイを確認する。
「うわ!こんな時間!すみません、終電なくなるんで帰ります」
カバンにケータイを放り込むと、彼は「お先に失礼します!」と叫んでバタバタと出て言った。A子は、その姿を微笑ましく見送った。
夜の事務所はひんやりと静まり返っている。
1人残ったA子は、ちらりと足元のくずかごを見やる。
「……」
少し悩んで、やめた。
彼女は思った。
きっと当時の自分だったら、すぐにこれを捨てただろう。そうやって頑ななまでに過去を否定しただろう、と。
だが、今となってはそんな過去ですら懐かしい。
「時の流れって、おそろしいわねぇ」
彼女は1人呟く。その声は思いの外響いた。
「……」
微かに寂しさを感じたA子は、たわむれにケースを手に取った。そっと匂いを嗅ぐ。
あの頃と変わらない、甘いバニラの香りがした。