黒い仔犬と次期公爵
デインが衛兵を部屋から追い出した後、バートラは何か考え込むように立ち止まって顎髭を撫でていた。
「一体どうしたことでしょう。あのメイドに対する坊ちゃまの常にない態度は」
そんなバートラに筆頭メイドのマーサが、思わずと言うように言葉を零す。
それはバートラに尋ねると言うよりも、意図せずに口から出てしまったようだった。
「困ったものです。坊ちゃまも」
言葉に含みを持たせるバートラに、マーサが首を傾げる。
「バートラ様は何かご存じなのでしょうか?」
「……似ているのです。あのメイドは。ずっと昔、坊ちゃまが可愛がっていた真っ黒い仔犬に、その容姿も気性も、その仕草まで酷く似ているのですよ」
「……仔犬…でございますか」
あれは、今より九年前。
国を揺るがす大事件が起こった。
主犯者は、デインの実の叔父。
慕っていた叔父の計略で、この屋敷の主であったデインの父、その妻たる母、後継ぎであった兄が殺害された。
たった一夜で奪われた大切なすべて。
その御不幸から立ち直る間もなく、矢継に与えられる責務。
跡取りとなり変わりゆく全てに、デインは過去の悲しみ全てを穏やかな笑みの仮面で隠し、次期公爵として期待を裏切らない才を見せた。
それでも今まで自分を意に返さなかった貴族や、名だたる出自の令嬢たちが媚び諂い、阿い誰もが特別に扱うことに、デインは少々疲れてしまった。
デインが取り付けた仮面が、日ごとに硬く冷えていくのが傍にいたバートラには分かっていた。
さりとて長年仕えてきたと言えバートラはただの執事。家族を失いしデインの心を慰めることは出来なかった。
しかしせめて少しの気分転換になればと、ほぼ一日を城内で責務を熟されるデインに、バートラはよく中庭での昼食を勧めていた。
デインは気分転換にというよりも、どうにかお慰めしたいと思うバートラの心を汲んで、外で昼食を取ることがあった。
そんなある日。
デインの昼食を、盗み食いする不届き者が現れた。
「それがその仔犬であると」
最初はデインもどこぞからの刺客の罠の可能性があると用心して間を取った。仔犬はデインが取った距離をこれ幸いと昼食を喰い尽くさんとする。
食べ終われば、デインには見向きもせずに去っていこうとする仔犬に、デインが新たなパンを見せれば、短い尻尾を振って戻ってきた。
デインは苦笑しつつも、仔犬が食い荒らすのを許した。
食べ終わればぽっこりと膨れた腹を上向きに、仔犬はすぴすぴ昼寝を始めた。暖かな午後の陽気に眠気を誘われたのだろう。
デインがまるまるした腹を指先で突っついても、すぴーと何の反応も返さない。薄汚く、血統を感じられぬ仔犬は、野良であることが一目瞭然なのに、驚くほど警戒心がなかった。
今まで無事に生きてこられたのが、不思議なくらいだ。
両手から少しはみ出るくらいの仔犬は、小さな隙間から城に忍び込んできたのだろう。
仔犬に気付いた衛兵は、慌ててそれを摘みだそうとしたが、他ならぬデインが止めた。
主がいない仔犬を、デインは城に住むことを許した。そればかりか、その世話を自らがする始末。
しかしその仔犬自身は、デインを主などと認識していないようであった。
デインが下すどんな命にも従わず、その名を呼んでも耳すら動かさない。ただデインが何かしらの食料を持っている時だけは違った。
デインの足元で、届きもしないジャンプを繰り返し、届かないと気づけば命じられてもいないお手や伏せなどの一芸を披露。
お腹が空けば、どんなにデインが忙しい様子をしていてもとんと気にせず、与えられた皿を咥えてデインが記している書の上に転がして催促をする。
寒い日はデインの隣に勝手に入り込み、寝台を毛だらけにする。
大きな犬が現れれば、すぐに尻尾を巻いて逃げる癖に、そこにデインが現れれば、やれーやったれーと言わんばかりにデインの腕の中から勇ましく吠える。
信じがたいほど、無礼な仔犬であった。
そんな仔犬をデインは呆れながらも、誰よりも可愛がっていた。
「誰かを彷彿とさせる仔犬でございますね。それでその仔犬、今はどちらに」
至極当然の、今の仔犬の状態を尋ねるマーサにバートラは深いため息が零れてしまう。
「……殺されました。坊ちゃまが温情を見せ、幽閉していた叔父上の手の者のせいで」
デインの叔父が狙ったのは、何の価値もない仔犬などではなくデインの命。その尊きものが危機に晒され、奪われようとしたその時、デインは仔犬に命じた。
「逃げよと。仔犬の命など、刺客にとってはどうともないもの。それでも坊ちゃまは仔犬に逃げよと命じたのでございます」
そして仔犬は最後までデインの命を聞かなかった。デインに刃を振り下ろさんとする刺客の腕に噛みつき、離さなかった。
結果的に、一瞬出来た隙のお蔭でデインの命は守られた。
だが代わりに刃を受けたヤンチャな仔犬は、二度と動くことはなかった。
デインは血まみれの仔犬を優しく抱き上げて
「最後の最後まで、私の命を聞かぬ馬鹿な奴よ。逃げよと申したに、馬鹿な犬だ」
そう口元で笑い、そっと撫でた。
その時に見せた悲しみに溢れた目をバートラは今でも忘れることが出来ない。
その事件以来デインの心は、更にきつく閉ざされ、温情など欠片も見せぬようになった。
穏やかな仮面を被りつつ、実の叔父上すら躊躇うことなく自らの手で裁きを下した。
そんな冷徹とも言えるデインが、久しぶりに見せた決断することへの迷い。
「あのメイドへの接し方は、坊ちゃまが仔犬に見せていた特別な扱いと……一緒なのですよ」
主を主とも思わず自由気ままに振る舞う黒い仔犬とメイド。
デインは呆れを含ませた、しかし鋭さがない目で見ていた。特別なそれら。
バートラはとうに気づいていたその事実をマーサに語り、長く深いため息でその顎鬚を揺らした。