王太子殿下と苑の王子
「申し訳ございません。無礼を承知でお願い申し上げますが、ルーク王太子殿下と二人きりでお話させて頂けませんでしょうか?」
ルークは紅葉王子のその要求を呑んだ。
デインとしては、傍に控えておきたいところだが、二国間に今のところ目立った問題はなく、それを崩すような愚行をあの紅蓮王の片腕と名が高い紅葉王子が犯すはずがないと判断する。
それでも、隣の気配に五感を研ぎすましていると異国の衣装を身に着けたメイドが、紅茶と焼き菓子を給仕してきた。
デインは隣室へ意識を向けながらも、早速、と言わんばかりに手を付けようとした黒豆を諌める。
どうしてこのような状況下で、疑いもなく口にしようとするのか。
デインは毒に対する耐性もない身で。
黒豆が握った焼き菓子を取り上げて、皿を遠ざけた。
「バナナでも食しておれ」
バナナの皮をむき始めた黒豆の一挙一動を見張るように、苑の影がじっと見つめている。
じろじろと検分する男に、黒豆は小さくため息を吐いて、一本だけなら…と捥ぎって渡した。
「……私は苑の影、変化のコウモリとして紅葉様をお守りする狼と申す。以後お見知りおきを」
「ご丁寧なご挨拶痛み入ります」
苑の影は、ただのバナナにしか見えん、と零した後で黒豆に一歩近づいた。
「貴殿は幻術か、妖のコウモリとお見受けするが……」
「……? 敢えて言うなら、おうちのコウモリですが」
コウモリと言うのは影の別称だ。
恐ろしくかみ合っていないだろう黒豆と苑の影の会話は捨て置くことにして、デインはチェルシーの方へ向き直った。
デインの動きに、チェルシーはびくりと肩を震わせた。
「チェルシー嬢、何故かような浅はかな行動を?」
チェルシーは所在無げに視線をうろつかせ、落ち着かない様子で指先を動かしている。
咎めるようなデインの声に、気まずそうに下から視線をあげてきた。
「あ、いや……その…何と言いますか…。昨日の今日でルークに心配かけるようなことしちゃいけないとは分かっていたんだけど、もういても立ってもいられなくて。コマメちゃんが持ってるその、不思議な緑の小物から紅葉の声が聞こえてきてから、また何かとんでもないことに巻き込まれたんではないかと思ってさ。紅葉って昔っから巻き込まれ体質って言うか厄介事の中心にいたりするっていうか……」
チェルシーも多分に巻き込まれ体質を持っているが、ご自覚はないようだ。
黙り込んだデインを、怒っていると勘違いしたのか自分を弁護する状況説明を続けた。
「てっきり、その……だから、とりあえず紅葉のところに状況を聞いた方が良いかと思ってさ。紅葉が滞在する屋敷は手紙で既に知ってたし、それにその屋敷の近くまで隠し通路が通じているんだ。ルークも忙しいだろうし、紅葉に直接会って話聞いて、それからルークにって思ってたんだけど……ごめん、軽率だった」
何て無鉄砲な。
果敢と言うよりも無謀な行為に、デインは眉を寄せた。
「紅葉が私に薬物ってのは絶対に何かの間違いだと思って。紅葉が私に何かするなんてあり得ないし、これはぜーったいまた何かに巻き込まれてるなって……」
「チェルシー嬢は随分と紅葉王子を信頼しているのですね」
先ほどもチェルシーと紅葉王子は仲睦ましき様子を見せていた。
その近い距離に、ただでさえ底辺を這っているルークの機嫌が更に下降したのが見て取れた。
「信頼っていうか長い付き合いだし。私がこっちに戻っても、書簡のやり取りも贈り物のやり取りも頻繁で、途切れなかった。今回久しぶりに会えるってんで、私も紅葉も楽しみにしていたんだ」
思っていたよりもチェルシーと紅葉王子の間は近いようだ。
その頻度をきけば、形式上の婚約者などよりもよほど多い。
「会ったその時から親しみを覚えたんだけど、仲が良くなるにつれて、その頼りない性格に手を貸したくなってきたというか。……ルークと紅葉って似てるんだよね」
「似ておりますか?」
少なくとも姿は似ても似つかない。
男らしい顔つきと体つきのルークと、中性的な尊顔と、線の細い体を持つ紅葉王子。
「あー内面の方。ルークも紅葉も責任が重い職に就いてて。それに対しやる気はないけど、投げ出さないところが似ていたって言うか。紅葉の方が、ちょっと厭世的なやる気のなさだけど」
紅蓮王が王宮に巣食う無駄な王族を一掃せんと試みている最中。
王族はわが身の明日に恐々とし、王宮内は殺伐としていたらしい。
「そん中で紅葉だけが一人、ほくほくと春が来た! みたいに浮かれててさ。遠方の小さな領土を拝命する気満々で、農業を極めようとして書を読み漁ってた。もう気になって話しかけてみれば、僕、早期隠居希望なんです! 田舎でのんびり、自然と共に生きたいです! って嬉しそうに語り出して……」
「……」
「紅蓮王は、容赦のない切り捨て方で、王宮でぬくぬくと過ごしてきた王族を厳しい条件下の遠方へと追いやったけど、それでも本人の希望も多少は考慮してくれてたんだって。寒いのが苦手な方には比較的暖かな地方とか。もし暮らすとしたら、暖かな海に囲まれた漁村地帯、山に囲まれた長閑な農村地帯かどっちが良いんでしょう? とかもう長々相談して来て」
「相談ですか」
チェルシーの話を穿って聞く限り、紅葉王子が別の思惑を持ってその話を持ち掛けているように聞こえる。
相談というよりも、チェルシーが好む地を探っているような話の持ってき方だ。
「うん。でも今から三年前くらいかなぁ、紅葉から遺書みたいなのが届いて。この世の終わりみたいな書き始めに驚いて中を読んでみたら、紅蓮王から副宰相の地位を任命されたって異例の誉の話。物凄い名誉なことなのに、本人は不幸のどん底みたいな恨み言ばっかで困ったよ」
紅蓮王から直々の任命があった直後、紅葉王子はすぐさま直訴しに行ったらしい。
農地開拓して、農民と良き関係を築いてみせます。
肥料の開発も学び、備蓄についても知識を得ております。
今後も更なる農地の発展に誠心誠意力を注ぎ、成し遂げる所存であります。
必ずや苑の食の柱となり、支えてみせます! ここから遠くの地で。
ですから兄上! 副宰相の地位を辞退させて頂きたいのです!
 
紅蓮王の返答は、簡易なものであった。
否、と一言。
それを聞いて紅葉王子は絶望に崩れ落ちたらしい。
「紅葉王子は大変聡明なる方。公平無私、二心なく誠実、王に忠実なる方で、紅蓮王が最も信頼する弟君と言っても過言ではありません。紅葉王子とて、紅蓮王は兄として王として慕っているご様子でその治世を保たんとするお心は確かな物。ただ……少々農村生活への憧れが強きようで」
黒豆との無意味な会話に見切りをつけたらしい苑の影が、口元に僅かな苦笑を浮かべながら、こちらに向き直った。
「しかしながら、チェルシー様。紅葉王子はチェルシー様の、若き頃は王宮で年老いてから田舎へ行きその生活を思うまま堪能するのも良いのではないかと記された書簡にて、お心を持ち直され政務に励んでおられます」
「だろうね。紅葉は、ちょっとやる気ないとことかあるけど、与えられた仕事はしっかりこなすから」
「……」
苑の影の静かな声に、含むものを感じる。
チェルシーは気づいていないようだが。
紅葉王子のチェルシーに対するお気持ちを推察していたその時、少々乱暴に奥の扉が開いた。
先ほどよりも更に不機嫌そうに、額に青筋を立てたルーク。
その後ろの紅葉王子は平静で、お待たせいたしましてと自分よりも身分が低いデインたちに対し、丁寧な礼を取ってくれる。
王族が立っているというのに、椅子に座ったままでいるわけにはいかない。
デインとチェルシーがすっと椅子から立ち上がり、そして意外なことに黒豆も椅子から跳ね上がった。
その動作は淑女らしからぬ勢いの付け方だった。
勢いよく立ち上がりすぎて、椅子が後ろに倒れる。
咎めようとデインが見下ろせば、黒豆は信じられないものを見たように息を飲んでいる。
「それはっ! 椿の暗黒ノートっ!」
がっと見開いた黒豆が見つめる先には、紅葉王子が持つ一冊の書があった。
 




