チェルシー嬢の失踪
厄介ごとが次々と重なり、さすがのルークも日が昇る前から、宰務に当たっていた。
数日前の
「こういう忙しくて時間が足りんっ! っつー時に、刀の手入れとか無性にしたくなるのって何だろうなぁ?」
床とかも磨きたくてたまらんっ! と椅子をぎしぎしと揺らしながら遠い目をしたルークに
「単なる現実逃避でしょう」
デインが数刻置きにぴしゃりと現実を突きつけなければならなかった状況を考えるとかなりの進歩である。
ただでさえ、後ろ倒しになっていた舞踏会や戴冠式に関する細かな準備が、昨日チェルシーの家に赴いた件で、一歩も引けぬほどせっぱ詰ったものになった。
昨日、宰相家から城への戻るのをルークは渋りに渋った。
厳密に言えば、チェルシーの傍を離れることをだ。
「チェルシー、本当に大丈夫か? 不安だったら俺と城に来るか? 俺の隣の部屋、空いてるし。何かあればすぐに助けてやれる。な? そうしようぜ?」
王太子であるルークの部屋の隣の部屋は、王太子妃の部屋のはずだ。
そのようなことを軽々しく口にしているルークこそが、衝撃から立ち直れていないようであった。
被害にあったチェルシーよりも、ルークの方がショックを受けているのが何やら珍妙であるが、子息に親友が口付けられたという事実は、思う以上にルークの心を乱したようだ。
「アホ言ってないで、とっとと帰れっ!」
現状を正しく理解しているチェルシーは、一刻も早くルークを宰相家より追い出そうとしていた。
ルークはルークで、チェルシーが自分の手を恐れなくなったのを良い事に、その腕と肩を掴んで、無理やり自分の馬に乗せようとしていた。
しばしその攻防は続いていたが、最終的には苛立ちがピークに達したチェルシーに顔面を手のひらで叩かれ
「いい加減になさいませ」
と言うデインの言葉も後押しし、渋々引き下がった。
「何かあったらすぐに使いを出せ。何があっても駆けつけてやる」
後ろ髪をひかれるように、何度も振り返りながら言葉を連ねるルーク。
チェルシーはそれを見送りながら
「大丈夫だって。父上からアーロイン家に抗議が行くだろうし、来たら来たで追い返すよ」
ひらひらと手を振った。
チェルシーは報告の通り子息が御屋敷に戻られたと思っている。
事実はそれとは異なり、ご子息は公には知られぬ場所に収容されている。
しかし子息が現在どこにいるのか、チェルシーが知らずとも良いことだ。
どのような手段で口を割らせるかなど、ルークもデインもチェルシーに知らせる気などない。
一夜が過ぎて。
相変わらず責務に追われるデインとルークは、朝日が差し込む前から執務室に籠っていた。
うがーっと叫んで、投げ出しそうになるルークを近くで見張りながら仕事をしていたデインは、近づいてくる足音を捉えた。
武官は足の付け根の部分に主軸を置いて、その他の部分は軽く地に接する歩き方をする。
文官は踵に重心を置き、上半身を動かさぬ姿勢を保つ歩き方をする。
女官は優雅さに主を置いて裾が乱れぬように流れるような歩き方をする。
いずれにせよ、足音は極力立てないというのは共通している。
優れた武人、文官などは、僅かな振動のみ。
淑女たる女官は、擦れる僅かな裾音のみ。
そんな城内に異例とも言える足音が響く。優雅さの欠片もない。
豆粒ほどの小さな体であるのに、何故立てる音は人一倍騒がしいのであろうか。
幾度注意しても
「あのようなローラーブレードを履いているような歩き方など、到底私には出来ませぬ」
訳の分からぬ言い訳をし、一向に直す気配がない。
今日も同じ小言を与えねばならぬとデインがため息を吐いている内に、足音はすぐ近くまで来ていた。
「今起こったことをありのまま話すぜ!」
バァンと響く扉の音と共に飛び込んできた弾丸のようなメイドに、もはやデインは何から注意すれば良いのか分からなかった。
余程急いできたのか、汗をだらだら垂らしながら、ぜはーと荒い呼吸を繰り返している。
見慣れたメイド服は泥で汚れ、所々破れていた。加えて唯一の長所たる黒髪は、小枝や枯れ葉に塗れ。
正規の道を通ってここまで来なかったのは、一目瞭然だ。
「……せめてノックはしなさい」
成長が見られぬ黒豆の礼儀作法に、半ば諦めを覚えながらも最低限度の注意はする。
デインの小言を右から左に流した黒豆が、手に持っていた小道具を差し出してきた。
この不可思議な道具によって、チェルシーの危機を回避することが出来た。
ルークは、例の会話を聞かせろ! と迫り、黒豆はもちついて下さいと言いながら手で制止した。
「スマホを動かすには動力が必要ですが、本日は日が翳っておりまして、十分なエネルギーが貯蓄出来ておりませぬ。私のソーラー充電器は、大きな地震が起こったあとに危機感を持って選びに選び買ったものでございます。防水防塵耐衝撃、星は四.三、レビューの評価も上々と良品でございますが、やはり時間の長さだけはいかんともしがたい問題です」
「……よく分からねぇけど今はその小物を動かす力が足りないってーのは分かった。いつなら出来る?」
「明日の昼には恐らく」
「なら、城に来い。許可証を渡しておく」
ルークは抜かりなく迎えの手配もし、本日黒豆が登城する運びとなった。
てっきり、ちんたら歩きながら来ると予測していたデインは、ノックせよと小言は与えつつも、走り込んできた黒豆に嫌なものを感じた。
「何があった?」
黒豆の無表情さは崩れていないものの、その多量の汗は至急の用事を伺わせる。
「チェルシー様のお姿が見当たりません」
切り出された言葉に、水差しから水を注いでいたルークの手がずれて、床を水浸しにした。




