王太子殿下と宰相の次女の仲違い
話は少し逸れ、ルーク王太子殿下と宰相家次女チェルシーが仲違いした時に遡る。
次期国王エドワード・ルーク。
大国の王位を継ぐもの。
王太子たるこの男が抱える厄介事は下々には考えが及ばぬほど、途方もない重さであるが、今回ルークが頭を悩ませているのは拗れた友人関係であった。
一生涯、どちらかが死ぬまで続くだろうと思っていた友人と仲違いをしてしまった。
いや、仲違いとは少々違う。
ルークはチェルシーに嫌われてしまった。
ルークとて自覚があった。自分が悪い、全ての原因が己にあることを。
チェルシーに欠片も非はなく、彼女が言う通り今は距離を置くのが一番いいと分かっているが、ルークは気がかりで仕方がなかった。
距離を置いたら、それが広がってしまう気がして正直怖いのである。
宰相家次女ライナード・チェルシー。
現宰相の次女であり、その立場から幼い頃から勉学や、それ以外の時間も共に過ごした。
チェルシーには五つ年上の兄がいて、学問に秀で、既に有望な跡取りとして頭角を現していた。
三つの上の長女は、どの宝石も及ばぬと言わしめるほどの美しさを持ち、同盟国の王に請われ嫁いでいった。
そして、ルークの遊び相手として選ばれたチェルシーの双子の弟アリクスは覚えが良く、特に算術にかけては並び立てる者がいないほどであった。
そして、二つ下には妹がいた。まだ子供の域を出ない年齢だが、将来美人になるだろうと誰もが予測できる、華やかさを持っている女の子だ。
そんな優れた兄弟たちに囲まれたチェルシーは、これと言って秀でているところもなく、容姿も普通の領域を出ない。
王宮と言うのは悪意の塊だ。
白鳥の群れに紛れ込んだアヒルのようなチェルシーが、時として嘲笑の的となるとも、ここでは自然の流れだ。
チェルシーの両親は、普通に愛情を持った人たちであった。
ただ己が置かれた状況に、ちょっと捻くれてしまったチェルシーを扱いづらく感じて、他の子供に目が多く行ってしまったのが、悪循環の始まりだった。
チェルシーは親やその他の目が行き届いてないのを良いことに、毎日のように騎士団に遊びに来ていた。
勉学と美に秀でた兄弟たち。
ならば残るは武しかないだろうと思い当たったらしい。
当時の騎士団長も、相手は曲がりなりにも宰相の娘なのだから、上手く言いくるめて帰してしまえばいいものの、面白いからと剣術を指導してしまった。
王太子たるルークと共に。
捻くれた思いから剣術を始めたチェルシーだが、それなりの上達を見せた。
剣を学ぶ意欲を見せるチェルシーは、性を超えてルークの友となった。
ルークは上品な距離と、節度を持って接しなければいけないある意味国から決められた学友と遊ぶよりも、遠慮がないチェルシーといる時間を好んだ。
流石に帝舎で学ぶ年齢になってからは、騎士になるのを諦めたチェルシーだが(この国では女性が騎士になるのは許されていない)、喧嘩友だちとしての立ち位置は変わらなかった。
ルークがお年頃と言われる時期になって、妃候補として何割増しか美化された貴族の娘やら、隣国の王女やらの姿絵を見させられた。
このお方は、どこどこ国の、何とかの~と長々した説明を、へーへーと聞き流してルークだが、その妃候補の中に、チェルシーの名があったのは少し驚いた。
確かにチェルシーは妃としての条件を持っている。チェルシーの母の祖国は、ルークの国に大きな影響を持つ同盟国であった。政治的な面でも利がある。
しかしルークはチェルシーを異性としてではなく、喧嘩友だちの一人、いや気を許せる数少ない友人だと思っていたから、その可能性を全く考えなかった。
そんな折に事件は起こった。
友好、交流という建前の元で、幾人かの姫が国に訪れていた。
言わずと知れたルークの妃候補たちだ。
ルークの好みは、可愛いよりも美人。細身の女よりも肉感的な女。可憐と言うよりも妖艶。
特に胸、触り心地の良さそうな胸には政治的な思惑抜きにぐらっと心を動かしていた。
好みの肢体に加え、駆け引きがこなせるほど頭が良く、しかししゃしゃり出てこない性格が良い、とルークは妃候補を吟味していた。
そんなルークの好みに当てはまる姫が妃候補にいた。
小国だが歴史ある国の第二王女で、小柄だが豊満な体を持ち、楚々とした立ち居振る舞いをしていた。
しかしそれは見せかけだけであった。
それにルークが気づけるほどの女を見る目を持っていれば良かったのだが、残念なことにルークの女性を見る目は優れているとは言い難かった。
忌憚なく言えば。
あのはち切れんばかりの胸に、ルークの目は曇っていた。
男なら誰もが目を奪われるぼよんとした弾む胸を、その姫は持っていた。
その胸に目が濁っていたルークへ、姫の本性に気付いたチェルシーが忠告して来た。
それをルークは素直に受け入れなかった。
そればかりか
「姫が可愛くてぼよよんだからって嫉妬すんなよ」
などとルークは最低なことを言ってしまった。
次々と訪れる姫君たちの相手に気を使い、苛々してちょっと八つ当たりもあったのだろう。
その時のことを思い出すたび、ルークは自身の頭をポカスカと殴っていた。
この上なく後悔している。
しかし問題はそこではなかった。
ルークへ余計な忠告をするチェルシーを邪魔に思った姫がチェルシーを嵌め、まんまとルークが引っかかってしまったのである。
姫の自作自演に、ルークはチェルシーに手をあげてしまった。
チェルシーが姫に危害を加えようとしているように見えて、ルークはそれを防ごうとチェルシーの肩を突き飛ばしてしまったのだ。
ルークが思う以上にチェルシーは軽く、結構な勢いで壁にぶつかった。
ルークは国際関係が不味くなると思っただけで、友であるチェルシーに怪我をさせるつもりはなかった。
姫の自演はあっさりと露見として、それなりの対応で持って国に帰した。
当然のことながらルークは、チェルシーに誠心誠意込めて謝罪をした。
本当にすまなかったと、王太子のプライドも投げ打って土下座した。
ルークはかっとなって、後先考えずに行動してしまうことがある。それは現王たる父親にも度々諌められていたし、自身でも改めなければと戒めることが多々あった。
今回もまさにそれだった。
ルークは何度も謝罪を繰り返した。
心の底から悔いて、自身を思って忠告してくれるチェルシーに酷い発言をしたことも怪我をさせたことも、全て含めて謝った。
チェルシーは根に持つ性格ではなく土下座し、謝罪を繰り返すルークをあっさりと許した。
あんたってやつは……やらないと後悔しないんだから…でもまぁ、あんなのが王妃になったらこっちまでとばっちりが来そうだし、あれで事が解決したんなら許してあげるよ、と包帯が巻かれた肩を呆れたように竦めた。
これで仲直り。ルークはほぅっと息を吐いた。
ルークは緊張した顔の強張りを解いて、いつものように気安げにチェルシーに手を伸ばした。
「本当ごめんな。肩、まだ痛む……」
肩の傷を見ようと伸ばしたルークの手を、チェルシーは過剰に避けた。
その時に一瞬見せた、知らない者を見るような警戒と怯えを含んだ目。
え? と手を止めたルーク同様、チェルシーも、え? という顔をしていた。
お互いが状況を理解できない茫然とした表情を浮かべていた。
これを自業自得以外の何と言おうか。
チェルシーは無意識にルークの手を避けるようになってしまった。
チェルシーはルークを避けよう、許せないなどそのような気持ちはない。ただその気持ちとは違うところで、ルークの手を知らぬ誰かの手に思えてしまうらしい。
話すだけならいつも通り。
肩を叩こうとしたら咄嗟に避けたり。
話すときに、一歩距離を空けたり。
不意に声をかけるとびくりとしたり。
チェルシー自身もそんな自分に戸惑って、そんな時はルークよりも困った顔をしている。
その度、ショックを露わに固まるルークに申し訳なく思っているようだ。
自業自得、覆水盆に返らず。
頭を下げて謝れば許してもらえると思っていたルークは愕然とした。
自分の手を、友が怖がっている。
「な、何だろうね。はは、ごめん。多分、多分さぁ、ちょっとだよ。多分あの時来たのがあんただったから、気を抜いてしまったんだと思う。だから受け身とか取り損ねたし、衝撃も大きかった。それを体が覚えていて、あんたのこと避けてしまうのかもしんない。ちょっと距離を置けばすぐに直るからさ、ちょっと待ってくれない?」
ルークを気遣うチェルシーの優しい言い訳。
知り合ってから今まで。ルークとチェルシーはいつも対等で、同じ目線で言い合っていた。
そのチェルシーに避けられる、ましてや怖がられることなど一度たりともない。
その事実に、ルークは心底狼狽えてしまった。
ともかく現状を改善したく、毎日お見舞いと称して訪れるルークにチェルシーが見せる困り顔。
縮まるどころか、広がるその距離に焦って。少し距離を置けばお互い落ち着くと言うチェルシーの意見は正論であるけれど。
従うことなど出来ずにルークは無理やり理由をつけてはチェルシーに会いに行っていた。
しかしそれが解決策になるはずがない。
チェルシーとルークの仲はますますぎこちなくなっていった。
せっぱ詰ったルークは年よりも大人びて、女の扱いに長けた公爵家の跡取りデインを呼び出した。
国一番の色男。腰まである月光のような銀髪、アンバーの瞳を嵌めこんだ作り物めいた美しき顔、均整の取れた体。
次期公爵ヴィクター・ライデインは、ストイックな外見とそれに違わぬ内面を持ちながら、万人を魅了するような色気に溢れていて、山のように金を積まねば会えぬ娼婦にすら憧れを抱かせる憎い男であった。
デインは様々な女人と健全とは言い違い関係を築いているが、摩擦を生じさせることはない。
その神秘的な美貌には女のみならず、男まで虜にすると言われる稀代の色男。
そんな彼はルークからの相談を受け、悩まし気に息を吐いた。
「だから常々申し上げていたでしょう。かっとなって、立場を考えずに行動してしまう性格のせいでいつか取り返しのつかないことをしでかすと」
会って早々の小言に、そうだなと力なく頷けば、デインはおや? と言うように意外そうな表情を浮かべた。
「珍しいですね。いつものあなたなら、うっせー分かってる! とか言い出すのに」
「……後悔してる。お前や親父に、小さい頃から何度も言われてたのに、俺はちゃんと反省してなかったのかもしんねぇ。大体、チェルシーは女だ。俺たちは、性別を忘れちまうような付き合いをしてきたけど、手をあげるなんざぜってぇやっちゃいけないことだった」
チェルシーは軽かった。
当たり前である。ルークとチェルシーは基本的な体の作りが違う。
それにも関わらず、ルークはあまり力加減を考えなかった。
「今回は本気で反省しているようですし、チェルシー嬢も許してくれているのでしょう。少し罪悪感にとらわれ過ぎなのではないでしょうか? 毎日、毎日、無理やり理由をつけて会いに行っては、逆にチェルシー嬢の負担になると思いますよ」
組んだ手に額を置いて項垂れるルークに、幾分柔らかな声がかけられた。
ルークとて躍起になって訪れることが、チェルシーの負担になっている自覚はある。
毎日、馬鹿みたいな理由をつけて会いに行って。
「どうしたら良いのか分からねぇ……」
唯一無二で、対等の喧嘩友だちだ。
くだらないことで喧嘩して、仲直りして、それの繰り返しだった。
ルークが悪い時もあるし、チェルシーが悪い時もあった。
だけどこんなことは初めてだ。
正直に言えば、ルークは怖いのだ。
ルークはチェルシーに怖がられていることが、ひどく怖い。
「チェルシー嬢が喜びそうなことをして、距離を詰めてはどうですか? 私も先日、見舞いに伺わせて頂きましたが、ケーキの数個でそれは嬉しげな表情を浮かべてくれましたよ」
デインの言葉に、ルークは鳩が豆鉄砲を連打されたような顔をしていた。
その表情に
「……まさかと思いますが。手ぶらで見舞いに行ってたんじゃ……」
顔を引きつらせたデインが聞けば、ルークが小さく顎を引いた。
そのまさかだった。
「おい、チェルシー何を贈ったら喜ぶと思う? お前と同じケーキなんてありきたりだろ」
「そのありきたりの物すら贈っていない方に言われたくないですが。それにあなた、チェルシー嬢とは長い付き合いではないですか。チェルシー嬢が喜ぶもの知らないのですか?」
「俺ら、そういうやり取りしねぇし。でも昔は色々やったな…それ喜んでたけど、でも昔の話だしなぁ」
「好みと言うのは変わらないものもありますよ。何を差し上げたんです?」
「赤と黒の珍しい蛙とか、あいつめっちゃ喜んでたけど」
今はどうかな? と続けるルークを、デインは冷たい声で一刀両断した。
「ありえませんね」
その日からルークは何かしかの手土産を持ってチェルシーの家を訪れるようにした。
怪我もすっかり良くなって、チェルシーは普段通りの生活を送っている。
ルークとチェルシーはぎこちないままで、ルークは元に戻りたくて仕方なかった。
手土産を選ぶのは結構な時間をかけている。
チェルシーが喜びそうなものを記憶から探って、色々考えて選んだものは、結構な確率で的を外していた。
「あの、あのさ。俺、お前に怪我させたのに、見舞いの一つも持ってこなくて、それで遅くなったんだけど、これ。つまらぬものですが」
ルークらしくなくしどろもどろになって、手渡したものは。
大陸動物図鑑第三版だった。昔好きだった黒と赤のカエルが載っている。
「気を使わなくても……って何で図鑑だよ」
意表を突かれたように言葉を止めたチェルシーは、その後ぷっと吹き出して笑った。
あはは、と明るい笑い声を聞いたルークはぱぁっと舞い上がった。
見慣れた笑みではあったけど、最近は困ったような複雑な表情の笑い方しか見てなかったから、ルークは嬉しくて仕方なかった。
公爵家に礼の手紙も出した。
ついでにこの件に関する参謀に任命したら、謹んでお断りますとこの上なく丁寧だが、つれない返事が来た。




