異空間
切り変わった瞬間に、光が反射した。
咄嗟に目をつぶれば、キーンとした耳鳴りに思わず身体が竦む。
次の瞬間、俺は小さくなっていた筈のノエルの背中の上にいた。
「!」
「――――ユリスさん!」
3人のうち最後に叫んだらしいみゆきの声が、俺の耳に届く。
俺は咄嗟に言葉をかえしていた。
「全員伏せろ!!!」
どん、と重く衝撃のかかった音がする。
ノエルの背中にいるから俺に衝撃は来なかったが、恐らく地上にいた全員がその衝撃をまともに食らったのだろう。
見下ろした先には散り散りになった仲間と、崩れかけた召喚陣、そして――黒い空間がぽっかりと開いていた。
思わず吸い寄せられるように見てしまったその先には、何もない暗闇がそこに生じていた。
「……どうして?」
得体の知れない空間を作り出した彼女は、その闇を見つめ茫然と呟く。
「どうして、来ないの? 出てこれないの?」
まるで幼子に言い聞かせるようなその声。
労わるように柔らかく響くその声に、俺は背筋が凍るような違和感を覚えた。
出てこれない?
いや、違うだろう。
勇者召喚はもう出来ているし、勇者自身がいる状態では他の代行者は存在しない。
存在しないものを喚ぼうとした結果、出てきたのは何者でもなく――何もない、空間。
それは考えてみれば当然の結論で、だからこそ何が起こるかわからず俺は食い入るように神子を見る。
召喚陣は結界が効を奏したのか、崩れかけていたが原型をとどめていた。
もしここでみゆきが陣の上にいたのなら強制的にでも発動させられたのだが、伏せていても衝撃が伝わったのか全員扉付近に吹っ飛んでいるのでそれは叶わない。
庇ったのかファティマとトリスがみゆきの傍にいるがそれだけだ。
構えていたため殆ど飛ばなかったらしいダイチが、動きの止まった神子へ剣をかざす。
殺そうとしたのではない。恐らくは牽制、もしくは抵抗を削ぐために構えたのだろう。
「っ! ダイチ、やめろ!」
「えっ」
だが神子は無防備に見上げるばかりで、ダイチの剣に反応しようとすらしなかった。
いや、反応しないではない。
そのまま何を思ったのか、剣を見ないままに彼女はダイチの方へ動いた。
さくりと軽い音を立て、彼女の肩に食い込む剣にダイチが目を瞠る。
抵抗、あるいは避ける、と思っていたのだろう。
白騎竜がいるため牽制を含めて振りかざしたのに、そのまま歩み寄られ勝手に傷ついた神子にダイチは完全に立ち止まってしまった。
「……あ、あぁ、あははは」
「あ……」
神子の壊れたような笑いが虚ろに響き渡る。
ぽたり、ぽたりと血が滴る。
それは、黒い空間に吸い込まれてどんどん消えていく。
「ほら、ねぇ。勇者様はいないの。――いないの。かみさま」
「……」
「かみさま、ねぇ」
ゆっくりと顔をあげて、神子は呟く。
上を見上げ、そこにいる俺を見て、彼女は嘲笑う。
そうして彼女は歩き出す。
「たすけて。――かみさま」
呟きと同時に、白い騎竜が神子の血で赤く染まる。
ずるりと落ちるその身体に纏わりついた靄は、その命が失われると同時に離れて行く――。
その、筈が。
「……おい…っ!」
「う、あ……っ!!」
靄は消えてなくならなかった。
主人をいたわるように啼く騎竜にまとわりつき、そしてその姿を変えて行く。
小さく開いていた筈の黒い空間が神子の血を受けて、段々開いて行き辺りを埋め尽くしていく。
「こんな……」
「トリス! 逃げろッ!」
扉の傍にいるならまだ逃げられるかもしれない。
そう、起き上がった彼に叫ぶが時は既に遅く。
――――――――――――GAAAAAAAAAAAAAAA!
赤黒く染まったその身体が、咆哮する。
靄に囲まれて神子の姿は消失し、立ちつくす俺たちの周りの景色はすべて真っ黒に染まった。
そして闇はすべてを飲みこんだ。
☆
『<<火炎球>>』
トリスの詠唱で、闇を裂くように火が走る。
一瞬迷ったが、いつの間にか地上に立っていた俺はその光を目指すように右へ走り出す。
ノエルは元のサイズに戻って俺の肩の上にいた。
つい先ほど、違った空間にいた時のように。
「何がどうなってる……!?」
近くに、神子が乗っていた騎竜がいる。
距離を取ろうと走り始めた瞬間、ブレスが飛んできたがそこはなんとか当たらずに逃げる事が出来た。
正確に言えばブレスが飛んできたが、ノエルが後ろ向きにブレスを出して端を相殺したために届かなかった、というところだが。
俺は後ろを振り向くことなくトリスのところまで走り抜く。
ダイチや隆大の位置も気になるが、とりあえず合流が先だ。
「兄上、これは一体……!?」
「話は後だ、この光源広げられるか!?」
「今、安定させます」
言葉どおりに、炎が収束して上へ飛び、空間を照らし出す。
トリスの傍にはみゆきを抱えたファティマがいて、彼らはどうやら起き上がった状態で巻き込まれたらしいことが分かる。
俺はノエルの上にいて飛んでいたから、妙な位置に放り出されていただけのようだ。
ダイチと隆大は俺の後ろにいる騎竜の"なれのはて"の左側にいた。恐らく、陣を中心としていた位置そのままに、この空間へ飛んだのだろう。
だが、ダイチは先ほど神子に攻撃をしたままで固まった状態でそこにいた。
思わず声をかけようとするが、その前に隆大がこちらに気づいてダイチを引きずり倒して伏せさせた。
何を喋っているかは距離的に聞こえないが、任せる事にして俺は状況を確かめる。
「……ここは…」
ぐるりと見回す空間の先には、何もない。
壊れかけの召喚陣は足元にあるが、それだけ。
先ほどのように淡い光はなく、ただひたすらに黒い空間がそこには存在していた。
「神子……は騎竜の上か」
「あれ、神子ですか……?」
ブレスを連続で吐きだす事は出来ないのか、赤黒く光る騎竜はこちらを睨みつけるように見ているだけだ。
その背中には誰かがいる。
誰かがいるのだが、黒く塗りつぶされたような黒い影しか見えず、吐き気がして俺は口を押さえた。
先ほどのように靄に囲まれた人型――では、ない。
影だった。
血に染まった騎竜の身体は変質して、まるでその背中から生えるようにそこに何かが存在していた。
翼の間にあるそれは、目も、手も、何もない。
異形としか呼べないその姿に、何かが起こってしまっただろう事に、俺は動揺を隠せなかった。
震えそうになる手を握り締め、ほどけかけた手先の布を締め直す。
「トリス、結界の準備を」
「アレの攻撃に当たったら本当に洒落になりそうにないです、ね……」
「ああ」
ぐるぐると騎竜が喉を鳴らすような音がする。
ブレス一つで熱気を感じるような強さだ。
恐らく気を抜いたら、尾の一振りですら全滅するだろう。
『ここ……?』
「みゆき、気が付いたか」
『……?』
声をかけるが、みゆきは状況が分からないと言いたげに首を傾げるだけだ。
衝撃で耳でも聞こえなくなったのだろうか。
再度声をかけると、みゆきは何かに気付いたように青ざめた。
『え、なにいってるのか、わからない……?』
「は?」
みゆきが何故か日本語で呟くのに、思わず横目ではなく振り返ってしまった。
何を言ってるのか分からない。
つまり、翻訳が切れた?
「マジか……」
「兄上?」
「みゆきの翻訳が切れてる」
「!?」
翻訳が切れたのは、ここが異空間だからなのか、それとも足元の召喚陣が崩れかけているからなのか。
理由はわからないが、わかるのはトリスとファティマがみゆきと話せない、ということだけだ。
恐らくダイチも、もしかしたら隆大も日本語しかしゃべれないかもしれない。
連携が一番大事な時だというのに意思疎通が出来ないとか何の冗談だと言いたい。
「……とりあえず、俺が指揮する」
「わかりました」
「トリスはフォローを」
「はい!」
先ほどのブレスのクールタイムなのか、ブレスは飛んでこないが絶えず何かが動いている音がする。
変質している音か、それとも用意をしている音か。
逆側にいる隆大がどれだけのことをできるかがわからない以上、対処できるのは俺とトリスとファティマ。
特に斬りかかる攻撃しか出来ないファティマに関しては、万全の準備をさせなければならない。
「トリス、合図と同時にノエルに加護を」
「はい」
「まずは俺がノエルでアイツの気をひく。その間にファティマへ強化。余裕があればダイチへだが、アイツも自分への強化は出来る――出来るよな? 出来なかったらフォロー程度でかけてやってくれ。魔力は温存。アレに通じるのが魔法なのか物理攻撃なのかわからないが、恐らく倒さないという選択肢は――ない」
「!」
ダイチもこちらの言葉を喋れないとしたら魔法使用は怪しいが、いくつか自分用の陣を目印付きで持っているはずだから自分でなんとかするだろう。
むしろ問題なのは相手の方だ。
間髪入れずにブレス攻撃が入ったことといい、神子の言葉といい、そもそもの状況といい、あの異形に会話は成立しない気がする。
むしろアレはなんなのか、と言いたいレベルの話だが今にも攻撃が飛んできそうなところで悠長に考えをまとめている時間もない。
出来れば倒す。
倒せないのであれば、この空間からの脱出を優先する。
そこまでトリスと取り決め、俺はファティマへ向き直る。
「ファティマ。ダイチとは話せなくても連携は可能か?」
「……それは、恐らく大丈夫だ。魔物退治ならば問題ない」
「わかった。指示は大声で飛ばす。声が聞こえたら従ってくれ」
まあ確かにこの二人が作戦会議をしているようなところは見たことがないので、ほぼ勘だけで連携出来るんだろう。
だが他に気がかりがあるのか、俺の言葉にうなずいたもののファティマは不安そうに俺を見る。
「――どうした?」
俺はいつあの異形が動き出さないか見つつも、ファティマへの言葉を優先した。
みゆきは言葉が通じないため俺たちが話すのを見守っているだけだ。
「あれは……倒していいものなのか?」
恐る恐る、というようにファティマが口を開く。
倒さなければ死ぬのは自分達だ。
それがわからないファティマではないはずだが、何を気にかけているのだろう?
ブレス一つで全員死んでしまうかもしれないほどの脅威。
だというのに、ファティマの目の中にあるのは死への恐怖ではなく、何かへの不安だった。
ぐるる、と低い鳴き声が木霊する。
先ほど俺が逃げた場所から動かないのは飛べないからなのか、それとも別の理由があるからなのか。
何度も横を振り返る俺に、ファティマはただ、不安そうに剣に手をかける。
「あれを殺すことが必要だと、ユリスがそう言うのならば、私は剣を取る」
「ファティマ?」
「だが、あれの元は神子――神の使いだ。私には難しいことはわからない。だが、神へ祈り変質したアレは、本当に攻撃したり倒したりしていいものなのか?」
たすけて。かみさま。
ふいに、神子が黒い空間へ向けた台詞を思い出した。
あの空間にいたのは彼女が信仰していたセレス神だったのだろうか?
気軽――というほどではないが、俺が出会った神とはずいぶん違うように感じるし、そもそも神子は俺たちの推測が正しければ何人も――辺境の村で腕輪が変色するほどに人為的被害をもたらした存在だ。そんな彼女の助けを求めた先が、この世界の最高神というのは正直信じたくない。
信じたくないが、神の手によるものである可能性は確かに否定できない。
何かが間違っていると言ったのはルルリアだ。
神への祈りで変質していたあれは、ファティマにとっては神罰に当たったようにも、神の使いとしてさらに変化したようにも見えるのだろう。
神が何らかの理由で、こちらを罰せようとしている。
敵意丸出しのあの異形の意思が、そう見えてもきっとおかしくない。
だが俺には、あれが神の使いだとはとても思えない。
そもそも神の代行者である魔王と勇者は隆大とダイチ、もしくは俺のはず。
あれは完全に神にとっても想定外の代物なのではないだろうか。
返事に迷ったのは一瞬。
「倒さずに逃げられると思うか?」
「それは……」
「無理だろう。今も、俺は見つめられてる」
「!」
俺の口から洩れたのは、そんな質問をはぐらかす質問だった。
俺たちは勇者と勇者の従者だ。
倒すべきは魔王であり、それ以外は関係がない。
そしてアレは――間違いなく、魔王以外の、もしかしたらこの世界の摂理からも外れた存在。
イレギュラー。
だから本来なら、倒さなくてもいいはず。
それがこちらを殺そうとさえ、していなければ、だが。
「倒せないなら逃げるべきだろうな。だが、あれは明らかにこちらに敵意しか見せてない」
「……」
「ファティマだったらわかるだろう? 俺たちが何をすべきか」
神の使いだとか、そんなことはどうでもいい。
魔王を倒す前に出てきた障害である。
そう考えれば、ファティマの答えはきっと一つ。
騎士である彼女は、ただきっとこう――誓うだろう。
「私の剣がここにある限り、仲間たちに触れさせるものか」
―――――と。
その答えが俺に言わされたものであっても、一度そう誓った彼女は迷わない。
ファティマは迷いを振り切るようにこちらに背を向けると、異形に剣を向けた。
「――ユリス、指示を!」




