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衝動  作者: ようまま
9/15

(九)


雪との待ち合わせの時間まで、真歩はひとり広尾の商店街をぶらぶらと歩いた。ここは高級住宅街ではあるけれども、働く人々の顔ぶれは、真歩の近所の人たちと変わらないように思った。


利明からの連絡はこないでほしい。

真歩は一層強く思うようになった。直之とのこれからの人生を、穏やかに過ごしたい。直之を失うことなど考えられない。真歩は彼を愛していると、愛したいと心から望んだ。

暖かさは日に日に増してくる。六月末に控えている結婚式も徐々に現実味を帯びてくる。「わたしは彼と結婚する。」真歩は何度も心に向かってつぶやいた。

ふらりとコーヒーショップに立ち寄った。ローストした豆の香りが鼻孔をくすぐる。本当に甘い一杯がほしい、と考えて、そのシーズンおすすめのフレーバーコーヒーをオーダーした。ガラスに面した一人掛けの椅子に腰掛けて、ぼんやりと通りを眺めた。携帯をあけたりしめたりしながら、それでも何日か前よりも落ち着いている自分を感じる。

もちろん、あの記憶が脳内に再生される瞬間、真歩は平静ではいられない。指先がしびれてくるのを感じる。これは、そう、パブロフの犬のようなものなのだと、真歩は自分に言い聞かせた。

待ち合わせの時間まであと三十分ほど。赤ちゃん用の衣類を選ぶのは心がはずんだ。今までも友達の出産祝いを買ったことはあったが、今回はなんとなく気持ちが違う。結婚を控え、自分もそのうちに子供にめぐまれるんじゃないかという予感が、彼女の気持ちを高ぶらせる。

ミルクの匂いがするすべすべのほっぺに、愛を込めてキスをする自分が思い浮かんだ。隣には直之。彼はきっとすばらしい父親になれるだろう。真歩の顔に自然と笑みがこぼれた。

すると突然、手のひらの中の携帯が震えた。

はっと、幸せな空想から引き戻される。

彼女はメールの着信表示を見て、息を飲み込んだ。


見たことのないアドレス。


一気に全身を血流が巡る。

どうか、どうか、彼からの着信ではないように・・・


そう願いながらも、期待している自分に言いようのない怒りが湧く。

わっと吹き出た汗を感じながら、メールを開けた。


「ひさしぶり。連絡が遅れてごめん。この間はとても楽しかったよ。懐かしくて、幸せな時間だった。お母さんとも、もっと話をしたかったな・・・そうそう、結婚祝いの話。考えておいてくれた?ぼくはこういうことが苦手で、まったく思いつかないよ。それで、もし予定がなければ、今夜一緒に食事でもどうかな?そのとき、何が欲しいか教えて。今夜の予定の有無をこのアドレスに返信して。待ってるから。」


真歩は何度も何度もその文を読み返した。

手が震えてくるのがわかる。心音が大きな音を立てて身体中を鳴り響いていた。

返信のボタンを押して、そのまま固まった。

なんと返信するのか、自分では決められない。

この衝動に任せるのか、それとも理性に耳を傾けるのか。

そしてありとあらゆる返信の文を考えているうちに、待ち合わせの時間になってしまった。



雪が案内したカジュアルフレンチのレストランは、雑居ビルの二階にあった。狭い階段をのぼると、何の看板も出ていない扉がある。そこを開けると、家庭的な雰囲気の心地のよい空間が広がっていた。座席は全部で五つだけ。気持ちのいい態度のスタッフが「お待ちしておりました」と、窓際の座席に案内する。

雪は今買ったばかりのプレゼントを窓際に置くと、つややかな黒髪を耳にかけながら、席に座った。肩ひじをついて、メニューを読む。窓からの強い日差しが、彼女の頬をあたためる。スタッフがすかさずブラインドをおろした。

真歩は上の空だった。なんとか雪と会話をしているものの、頭のなかは先ほどのメールに占められていた。もう暗唱できるほどだ。

「このプリフィックスのコースでいいかな?」雪がメニューを差し出しながら訊ねた。

「うん。」真歩はろくに見ないで答える。

「どうする?前菜は?」

「うん。雪とおんなじで。」

「おんなじ?ほんと?」

「うん。」

雪はひとつため息をつくと、手際よく二人分の注文を終えた。

「今日はあんまり時間が取れないから、単刀直入に聞くけれど、どうしたの?」雪が真歩の顔をまっすぐ見つめて訊ねた。

「何から話していいか・・・」真歩はとりあえず話だした。

身じろぎ一つしないで、雪は聞いていた。その表情からは何を考えているかわからない。真歩は話してよかったのかどうか、わからなくなった。そもそも話したところで彼女の返答はわかっているのだ。ただ、少し、心情を吐露したいだけ。もちろん、よみがえったあの記憶のことも、先ほどの着信のことも話さなかった。

「わかってるでしょ?自分で。」雪がやっと水を一口のんだ。すでに前菜はテーブルにのっている。

「とにかく、食べましょう。わたし、本当に時間がないの。食べないと午後の仕事に差し支えるわ。」雪が前菜を食べ始めた。そして再び「わかってるのよね?」と言った。

「うん、わかってる・・・」真歩は雪が少し怒っているのじゃないかと思った。でもそれもそうだ。こんな答えのない話。

すると雪は少し緊張をといて、微笑んだ。「でも、真歩の動揺もわかるわ。芸能の世界に住む人って、本当にすごいオーラが出てるのよね。わたしもタレントさんを見るたびに、引き込まれるわ。媒体を通してみるのとは全然違うのよね。」

そして納得したというように頷きながら、「真歩は利明さんのファンになったのよ。」と言った。

「ファン、になったってことなのかな?でも、なんというか、それとも違うような・・・」真歩はしっくりこない気持ちで答える。

雪は疑いの表情を浮かべて、真歩をじっとみる。

真歩はいたたまれない気持ちになった。

「何か隠してるんじゃない?」雪はするどく訊ねた。すでにメインディッシュが来ている。雪はフランスパンを片手に、メインに取りかかった。

真歩は迷った。親友とはいえ、性的なことを赤裸々に語ったことなんかなかったのだ。それに今夜のこと。なんと言われるかわかりきっている。

真歩は言いよどんだ。

すると雪は「言いたくないのなら、それでもかまわないけれど。」と前置きしてから、「もし園田君を失いたくないなら、絶対その彼には会わないで。」と言った。

「わかってるでしょ?自分の立場が。真歩はこれから結婚する。利明さんとはかつて友達だったかもしれないけど、今は住む世界が違う。連絡をするということも社交辞令の可能性が高い。彼は魅力的でいることが仕事なの。惑わされたくなかったら、絶対に会わないで。」雪の目は真剣だった。

そして真歩の方へ身を乗り出した。彼女の整った顔にいたずらっ子の表情がやどる。

「今真歩が園田君に会ってないから、そんなどうでもいいことに気を取られるのよ。忙しいのなんだのって言ってないで、押し掛けて抱いてもらったらいいのよ。それで全部解決しちゃうから。」


駅のホームへおりる階段のところで雪と別れた。彼女は何度も何度も真歩の方を振り返る。彼女の目が「愚かなことはするな」と厳しく言っているように見えた。



「押し掛けて抱いてもらえばいい」雪はそういっていた。確かにそんな気もする。真歩は銀座の地下道を歩きながら、どうすればいいか考え続けていた。メールの返信のリミットはもうすぐ。今夜の誘いなのだ。早めに連絡をしなければ。

すべきことはわかっていた。「今日は予定があるから」と断り、直之のもとに行く。そうするしかないのだ。でも真歩は思い切れない。わかってる。真歩は利明に再び会いたいのだ。

真歩は懸命に直之との将来を考えた。

失いたくない将来。

でも、と真歩は考える。今夜利明に会ったとしても、一緒に食事をするだけだ。かつての幼なじみとして結婚を祝ってくれる、それだけなのだ。利明の好意からくる申し出を断って、自分は思い上がりも甚だしいのではないか。

デパートの中を用もないのにうろうろとした。平日の夕方。そろそろここも混んでくる時間だ。ただその雑音も彼女の頭の中には届かない。

直之に会いにゆくのなら、電車に乗って家に帰ればいい。彼が帰ってくるまで家で待ってるのだ。

それなのに電車に乗れない。真歩は自分のふがいなさに、だんだんといらいらしてきた。

なんて弱い女なのだろう。愚かで痛い女。自分で答えがわかっているのに、身体の芯から溢れる衝動に身を任せたいなどと思っている。

「くだらない。」真歩はとうとうメールに返信をしようと、携帯を開いた。


そこへ狙ったかのような着信。

こんどは電話だった。

見知らぬ電話番号。


利明だ。


真歩の頭と身体は彼に一気に飲み込まれた。そして、理性的に考えるよりも前に、彼女は電話に出てしまった。

「もしもし?真歩?」

利明の声だ。低いが甘い声。

「はい。」真歩はやっとのことで返答する。すでに心臓はいつもの二倍の早さで動いており、頭の芯がくらくらした。

「メール見た?今夜なんだけど。突然だから予定あるかな?」

真歩は断るべきだった。「用事がある」と言わなくてはいけなかった。しかし彼女は「予定は何もない」と答えてしまっていた。

「そうか、よかった。もちろんごちそうするよ。」利明がうれしそうに言う。

彼は待ち合わせ場所を告げると、「またね。」と言って電話を切った。

真歩は半ば呆然としながら、デパートを出て銀座の町へと歩きだした。

太陽が今日という日をオレンジ色に染めて、別れを告げている。

空気はまだまだ暖かい。

都会にも関わらず、空気に緑が芽吹く香りがした。

真歩は肩にかけたバックのひもをぐっとつかんで歩いた。

乱れ動揺している自分を押さえたかった。

彼女は自分に腹が立っていた。

そして言いようもない嫌悪も。

でもその一方で「化粧を直さなくては」とも思っていた。


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