(八)
八
連絡はこない。
あれから十日ほど経とうとしていた。
真歩は連絡がないことに安堵しながらも、沈みきった気持ちをどうすることもできなかった。
直之とは花見から一度も会っていなかった。やはり、新入社員が配属される四月は忙しいということで、結婚準備もすべて棚上げとなっている。二人で見たモデルルームには、「完売御礼」の看板が出ていた。
桜の花びらはすべて落ち、コンクリートの上を跳ね周り、その命を終わらせた。枝にはすでに緑の小さな葉が見え始めている。空気には緑のにおいが強く香る。
真歩は、利明と再会した時から胸の真ん中でうずいているこの感情を整理できずにいた。十日たってもなお、その感情をおさめることができない。むしろどんどんと彼女自身を浸食していくようだった。直之と会わずにいて、彼女はほっとしていた。
そこに携帯から着信の音楽が流れ出した。自室にいた真歩ははっとして携帯を手にとる。
心臓が大きく跳ねた。
が、その着信名をみて、緊張が一気にとけた。
電話に出ると雪からだった。
「こんちわ、花嫁!」雪の美しい声が携帯から響く。彼女の声はいつも少し大きめだ。でも決して耳障りなものではない。
「こんちわー・・・」真歩は落胆を隠そうともせず、返答した。
「あれ?どうしたの、がっかりした声だしちゃって。」雪は敏感に反応する。
「うん・・・」真歩が言いよどむ。
「園田君からの電話を待ってるの?すいませんね、わたしで。」彼女がからかい半分で言う。
「別に待ってないんだけど・・・うーん、まあ、また今度会ったとき話すわ。」真歩はまだ雪に話すかどうか決めかねていた。
「なによ?マリッジブルー?幸せの絶頂で、鬱になるなんて、本当にあるのねえ。まあ、わたしはおそらく一生経験することもないでしょうがね。」と自虐的に言った。
「ああ、それで本題なんだけど。」と言って、雪は自分の用件を話だした。
「えりちゃんのところにね、赤ちゃんがうまれたんだって。男の子。巨大児らしいよ。笑っちゃうわよね、えりちゃん、あんなにちっちゃいのに。旦那様が結構体格いいから、その血が強くでたのかな?」とちょっと笑う。
「それでね、お祝いを贈らない?と思って電話したの。」
「そうね、お祝い何がいいかなあ?」
「うーん、初めての子供だから、いろいろ他からもらうだろうしね。雪がしばらく考える。
「オーガニックコットンの何かはどうかしら?子持ちのスタッフに聞いたら、もらってうれしかったらしいの。」
「オーガニックコットン。確かによさそうね。」真歩が答える。
「じゃあ、専門店がサロンの近くにあるから、ちょっとよって見てみようかしら。もし真歩に時間があれば、一緒にみて、そのあとランチでもどう?あんまり長い時間はとれないんだけど、マリッジブルーの原因ぐらい聞いてあげられるから。」雪が言った。
「・・・うん、じゃあ、そうしようかな。」真歩はまだ話すかどうか決めかねていたけれど、なんとなくそう返事をしていた。
そして二人は日時を約束して、電話を切った。
雪に話しても解決することではない。真歩は十分にわかっていた。が、雪がそうやって申し出てくれる気遣いを、とてもありがたいと思った。
そこに、階下から真歩を呼ぶ母の声がした。
「なにー?」真歩は大声で答える。
「あんた暇なら、和室の布団を出しといてー。」母が返す。
真歩はよいしょっと腰を上げ、携帯を片手に下におりていった。
今日は真歩のおじ夫婦が東京にでてくるので、和室を整えておかなくてはならないのだ。おじ夫婦は九州に住んでいるのだが、こちらで友人の結婚式があるということで、前日真歩の家に泊まることになったのだ。
めんどうくさいと思いながらも、和室に向かう。
和室は北向きなのでいつでも暗い。
ここの部屋だけは、どの季節にはいっても冷やっとする。
真歩はさっさとすませようと、押し入れを開けた。
中には敷き布団と掛け布団が詰め込まれている。
真歩は力を込めてふとんを引っ張りだした、が、シーツがどこにあるのかわからない。
彼女はかがんで押し入れ下に身体を差し入れ、暗闇の中に手を伸ばした。
そこで真歩の脳裏に、記憶の一瞬が突如浮かんだ。
本当に一瞬だけ。
でもそれは鮮明だった。
そして真歩は身体が熱くなった。
「じゃあ、ちょっとおつかいにいってくるから、留守番を頼むわね。」母が快活に言いおいて、真歩たち二人は家に残された。
ダイニングの椅子に並んで座り、それぞれのお皿に盛られたおやつを食べる。二人ともまだ身長がとどかず、椅子に浅く腰掛けている。たまに足をぷらぷらさせるのはチェックのワンピースを着た真歩のほうだ。
最後のチョコレートを口に放り込むと、利明は「行こう」と言って席をたった。真歩もあわてて席を立つ。二人はこれから家中を探検するのだ。
探検といっても、すみずみまで知り尽くしたこの家。懐中電灯を片手に回るのは初めてではなかったが、それでも「探検」と銘打つと、いつもの家があっというまに異空間となる。
午後三時半頃。初夏といえども、そろそろ廊下や北側の和室は薄暗くなってくるころだ。利明は懐中電灯を右手にもちながら、そろりそろりと和室の中に入っていく。真歩も利明のうなじをみながら、後に続いた。
障子が閉めてある和室は薄暗く、懐中電灯の光が右左に動くのがよく見えた。
真歩は利明の横顔を眺める。頬はうっすらと上気し、笑顔だった。
利明の顔を見るとうれしかった。真歩はここ何週間か、徐々に利明とともに過ごすこの時間を特別なものとしてとらえるようになっていた。なぜかはわからない。とにかく利明が家にくるのは胸が高鳴った。
利明が真歩を手招きして、もったいぶったような手つきで押し入れのふすまをそっと開けた。
下の段には布団がいっぱいつめられている。利明は土をかき出すかのように大げさに布団を引っ張りだすと、その山を乗り越えて押し入れの中に入っていった。「おいでよ。」と声をかけられて、真歩も洞窟のようなくらい穴の中に入っていった。
北向きの部屋とはいえ、押し入れの中に子供が二人、布団と一緒に入り込むと、暑苦しい。それでも利明は押し入れの戸を閉め切った。
穴蔵の中でしばし、懐中電灯をつけたり消したりしながら、遊びだす。
そうするうちに、二人ともだんだんと汗ばんできた。
それでもこの楽しい別世界をまだ出る気にはなれない。
「もっと奥を探検しよう。」利明が懐中電灯で、布団が詰まった奥の方を照らす。
真歩は身体の向きをかえ、その光の先に手を触れようと、積み上がった布団に身を乗り出した。
ワンピースがずり上がり、真歩のまっすぐで細い太ももが、利明の前に現れる。真歩はそれに気づいて、慌ててスカートを引っぱり下げ、利明の方に向き直った。
利明は真歩が想像していたよりもずっと近くにいた。汗ばんだ腕と腕がふれあう。
そして利明は懐中電灯の光を消した。
狭い空間の中で静かな緊張感が漂った。二人は否応無しにふれあっている。肌が触った箇所が、いままでに感じたことのないくらい熱い気がした。
利明が真歩の太ももに手をおいた。徐々にスカートをずらしていく。真歩はどうしたらいいのかわからなかったが、自分の中心部分で脈打つものを感じていた。
利明の手がとうとう彼女の下着に触れたとき、利明が真歩に身を乗り出した。
狭い中での幼いぎこちない抱擁。遠慮がちに回した真歩の手に、利明の汗を感じた。そして身体中に心臓が鳴り響いている。息苦しい。
利明はしばらく彼女の下着の上に手をおき、微動だにしなかったが、意を決したように下着を下にずらした。真歩は大きな抵抗も感じたが、じっと動かずにいた。利明は下着を膝までおろすと、今度はワンピースのファスナーに手をかけた。されるがままにワンピースを脱がされる。中途半端に衣服が身体にまとわりついた状態で、二人は再び抱き合った。
「とても悪いことをしている。」真歩はそう思った。それと同時に、抵抗できない衝動が身体の奥底からわき上がってくる。そんなことは初めてだった。
「これ以上のことがある。」真歩は利明のぎこちない手を感じながら思う。でもそれが何かはわからない。ここから先へと進みたいと身体が言っているのに、どうしたらいいのかわからなかった。
利明もそれは同じようで、二人は暗くて狭いこの空間で、抱き合い、ふれあって、もどかしい気持ちだけが高まっていった。
そして知っている愛情表現の一つとして、唇をそっと重ねた。
その記憶に頭だけでなく身体中を支配されていたが、真歩はとりあえず必死に布団を二組しいた。そして終わると母に声も駆けずに、階段を駆け上がり部屋に飛び込んだ。
ベッドに勢い良く転がる。枕を抱きしめて、身体中を駆け巡る血流をなんとかおさめようと深呼吸したが、まったく効果はなかった。それどころか、何度も記憶を頭で再生しているうちに、どんどんとその輪郭がはっきりし、声や熱さ、匂いなどを伴って、よりリアルに肌に感じるようになっていた。
彼の髪の毛はシャンプーと汗の匂い。
汗ばんだ肌はべたべたしたけれど、不快ではない。
そして彼の唇はミルクチョコレートの味がした。
唇を重ねたとき、玄関の鍵が開く音がした。二人は慌てて衣服を整え、押し入れから這い出てきた。汗が一瞬で冷たくなる。それからそのまま、何事もなかったように一日が終わったのだ。
「それからどうしたんだろう?」真歩は思い出そうとした。記憶に残っているのはこのときだけ。これ以上のことはなかったのだ。ただ二人の間に多少の緊張感は残ったかもしれない。覚えている訳ではないが、それは想像できた。
あれが自分の初めての衝動。
そう思うと、真歩は再び身体がほてってきた。
直之と初めて身体を重ねたとき、真歩は初めて性の歓びを知った。それまでの行為は男性の一方的なものであって、決して楽しいことではなかった。求められるから、なんとなく応える。そういうものだと思っていた。しかし直之を知って、考えが変わった。
直之は行為に心を尽くした。どうすれば真歩が気持ちよく幸せになれるのかを、一番に考えてくれているように感じたのだ。彼に触れられると「愛されている」と実感できる。
でも今真歩の中にわき起こるこの堪え難い欲求は、直之が受け入れてくれるものではない。そう思うと、とてつもない罪悪感が彼女を襲った。
そこに突然携帯の着信がなった。
真歩ははっと身を起こして、携帯を手に取る。
直之からだった。
落胆と、そして不安。
今電話に出て、普通でいられるだろうか。
しかし彼女は直之を無視することができなかった。
久しぶりに聞く直之の声はいつもと変わらず穏やかで優しい。彼がしばらくとても忙しかったので、メールでしかやり取りしていなかったのだ。
「今何してる?」直之が聞く。
「うん・・家でいろいろと。」真歩が当たり障りのないことを返答する。
「ごめんね、ほったらかしにして。結婚のこととか、引っ越しのこととか、まだぜんぜん決まってないのに。全部真歩に預けっぱなしにしちゃって、ほんとごめん。」
「ううん、仕事が忙しいのは仕方がないことだもの。」真歩は直之の気遣いに心乱れた。「次はいつ休み?」明るい声で訊ねる。
「うん、いつかな。がんばって調整するよ。やっぱり四月は忙しくてね。」直之がため息をつく。「早く真歩に会いたいよ。」
「うん・・・」
彼はいつも誠実で穏やか。こんな人は今までみたことがなかった。声を荒げたこともなかったし、いつも真歩の意見を尊重した。彼を愛しいと思う、その気持ちには変わりなかった。現に携帯から聞こえる彼の声に、胸の奥がじんとするような感情が生まれる。彼と結婚することは、真歩にとって決して誤った選択ではないのだ。
「新婚旅行はどうしようか。決めなくちゃいけないことがいっぱいだね。」直之が電話口で笑っている。「どこがいい?」
「そうね・・・遺跡めぐりなんかも楽しいかも。」真歩も旅行に思いを馳せる。
「いいね、ピラミッドとか、一生に一度は見てみたい。」直之も答えた。
「でも、きれいな海っていうのもいいかな。ただのんびりとするというか。」
「ああ、それもいいね。リゾートで日常を忘れるのもいい。」直之があわせる。
「直之はどこに行きたい?」
「うーん、たくさんあるけど・・・イタリアとかも魅力的だな。でも真歩の行きたいところに行こうよ。新婚旅行は一生に一度だよ。」
「でも迷っちゃうな。行きたいところたくさんありすぎて。」
「じゃあ、ぼくが定年退職したら、二人で世界中を回ろう。時間はたくさんある。」
「そうね。それならお金たくさんためておかなくちゃ。」真歩が笑いながら言った。
彼と共に歩む人生。
真歩はいとも簡単にそれを思い浮かべることができた。年を取った二人が、ガイドブック片手に旅行に出る。もちろん世界中というわけにはいかない。でも一度や二度、そんな経験もできるだろう。
それが自分の現実なのだ。真歩はそう思った。