(六)
六
家に帰ると、利明がいた。
リビングのソファに礼儀正しく腰掛けて、母となんだか楽しそうに話している。真歩はあまりのことにしばらく立ち尽くしてしまった。
今日真歩は時間を持て余し、近所のショッピングセンターにあるタイムマッサージに行っていた。結婚したらこんなちょっとしたリラクゼーションも、経済的な理由からできなくなる。そう思うと今のうちに楽しんでおこうという気になったのだった。
部屋は西日でほんのりと紅い。利明の頬には落ち行く太陽の陰がうつり、その頬骨を際立たせていた。
「あら、真歩!おかえりー。」母がいつもより何トーンも上の声で話しかけた。明らかに母は浮き足立っているようだ。
「お邪魔しています。」利明は真歩の方をみると、まるで雑誌の表紙を飾るかのような笑みを浮かべて挨拶をした。
「先日は突然声をかけてしまって、びっくりさせてしまったでしょう。すいませんでした。」彼は母の方を「そうなんですよ」というように見やった。
「あれ、真歩、あんた前に利明君に会ってたの?何にも言ってなかったじゃない。」母は真歩を責めるように眉間にしわを寄せた。
「うん、この間帰ったときにちょっと・・・」真歩は母の近くの床に座り込んだ。
「ちょっと、覚えてるでしょ、利明君。ついこの間話してたもんね。まさかねえ、こんな風に成長してるなんて、思っても見なかったよ。」母はまるで自分の手柄かのように誇らしげに話した。
「昔はお世話になりました。学校から帰ると必ずこちらのおうちに寄せてもらって。お母さんの作ったお菓子、おいしかったな。とくにプリンが大好きだった。」利明もうれしそうに言った。
「まあ、うれしいこと言ってくれて。あ、コーヒーのおかわり持ってこようか?」母が席を立とうとしたが、利明が右手を上げて制止した。
「いや、もう今日は帰りますから。」
「あれ、そうなの?夕飯でも一緒にって思ったんだけど。」母は心底がっかりしたようにつぶやいた。
「ぼくもそうしたいんですけど、夜から仕事が入っていて。」利明も残念そうに答えながら、立ち上がった。明らかに上質とわかるスプリングコートを手に取る。
「今日はご連絡もせずすみませんでした。それに突然お邪魔したにも関わらず、ご親切にしていただいて、ありがとうございました。本当になつかしかった。また来てもいいですか?」利明は帽子をかぶり前髪をしまいこんだ。
「もちろんよ!大歓迎。」母が満面の笑みを浮かべる。
「まだ日が落ちる前に、少し時間があるかな?ちょっと小学校にも寄っていきたいんですよね。」利明が言った。「でも、どうやって学校まで行ったかな?忘れちゃったな。」利明がもしよければ教えてほしいというように真歩に視線を送る。
「真歩、あんた、案内してやんなさい。」母がそれを察して言った。
「え、わたし?ああ、うん。いいけど。」真歩は少しどぎまぎしながら答えた。
「ではお邪魔しました。ありがとうございました。」玄関で靴を履き終えると、利明が優しい声音で言った。扉をあける。
真歩も後に続いた。
そして二人で並んで歩き出した。
小学校まではそう遠くはない。大人の足で十分程度だ。真歩は信じられない気持ちで隣の男性を見上げる。背は直之より高い。帽子で顔を半ば隠しているが、その口元が微笑んでいるのがわかる。
「真歩さん、変わらないね。それからお母さんも。」利明が言った。
「うん、ごめんなさい、母がうるさくって。」真歩は答えた。
「川風の香りも昔のままだ。ほんとうに懐かしいな。ぼくはここに住んでいたんだな。」利明は帽子を少しあげ、目を細めて土手を見上げた。
このあたりは川の水面よりも地面が下だ。大雨のとき、みるみるうちにあがる水位を二階の窓から見て、避難することを考えたことは一度や二度ではない。
「今日は車で来てないんですか?」歩いている彼を見て、真歩はふと問いかけた。
「うん、電車できた。」
「それって、大丈夫なんですか?」
「大丈夫って?」
「えっと、ばれてパニックになったりとか。」
利明は少し笑って「ぼくはそんなに人気者でもないよ。」と答えた。
「大丈夫だよ、東京は。誰かがぼくをみつけても、声をあげたりしない。」そして真歩をじっと見つめて「ずっと敬語だね。昔みたいに話がしたいよ。」と言った。
真歩は利明のその大きな美しい瞳に思わず見入ってしまった。
心臓が高鳴る。
真歩は動揺した。
二人は並んでしばらく無言で歩いた。
真歩はどんな風に彼と会話をしていいのか、皆目見当がつかなかった。
かつて、楽しく一緒に遊んでいたなんて、信じられない。
頭がおかしくなりそうだ。
小学校が見えてきた。自分たちが小さかったころは大きく見えた校庭も、今みるととても狭い。校舎も思ったより小さい。なんだか不思議な感覚。
真歩もこれが卒業後はじめての訪問だ。もちろん、前を何度も通り過ぎてはいたけれど。
校庭は解放中だった。幾人かの高学年の少年達が、サッカーに興じていた。そろそろ日も暮れてくる。大半の子供達は家路についたようだ。
利明は迷うことなく校庭に入り、校舎入り口に続く石畳を進んだ。真歩も後に続く。体育館の脇を抜け、うさぎを飼っている小屋を通り過ぎ、鯉が泳ぐ池を眺めながら歩いた。確かにかつてここに通っていた。すべて見覚えのある場所。
エントランスに到着すると、その階段に腰掛けた。太陽の最後の光がもう少しで消えていく。
真歩は利明の顔を見て、そしてはっとした。
泣いているように見えたのだ。
でも気のせいかもしれない。
利明は先ほどと変わらない声で真歩に話しかけた。
「ぼくはここを卒業したかったよ。」
「なぜ引っ越し・・・したの?」真歩は勇気をもって敬語をやめた。
彼はうれしそうに彼女を見やると「離婚したんだ、両親が。」と答えた。
「父には他に女性がいてね。母とはいさかいがたえなかった。両親のけんかがはじまると、ぼくは恐ろしくっていつも自分の部屋に閉じこもった。そして窓から真歩んちを見てたよ。うらやましかった。」
真歩はじっと聞いていた。
「ぼくは母親の実家のほうに引っ越した。父はね、恥ずかしい話なんだけれど、会社のお金を着服していたようで、とても肩身の狭い思いをしながら引っ越したんだ。だから挨拶もしにいけなかった。根掘り葉掘り聞かれるのがいやだったみたいでね。真歩んちにはお世話になったから、挨拶にいきたかったんだけど。」
「知らなかった。そうだったの・・・」真歩は初めて聞く真実に少なからずショックを受けた。あの頃利明がそんな問題を抱えているなんて、みじんも感じなかった。しょうがないことではあるけれど、自分のその幼さに今更ながら腹がたった。
「ごめんなさい、ちっとも気づかなくて。」真歩が謝ると利明はびっくりしたように顔をあげた。
「いいんだよ、謝らないで。これはうちの話だから。」
風が強くなりはじめ、砂埃が頬にあたる。
日はとっくに落ちていた。
「さあ、行かないと。遅刻はしたくないんだ。」利明が立ち上がり、真歩の手を取り立ち上がるのを助けた。
もときた石畳を戻っていく。暗くなったので、足下がよく見えない。真歩は彼の顔を見上げたが、やはり暗くて表情はわからなかった。
「結婚するんだって?」突然利明が言った。
真歩は心臓が止まるかと思うほどびくっとした。
知られたくなかったのだ。
「お母さんがうれしそうに話してたよ。」
小学校を出ると、街灯がつき始めていた。
彼は街灯の下で立ち止まると彼女に向き直った。
「おめでとう。よかったね。」彼はやはり完璧な表情で笑いかけた。
「・・・ありがとう。」真歩は思わず目をそらしていた。
「携帯の連絡先を教えてくれる?」彼が言う。
「結婚するなら、そのお祝いもさせてほしいから。」彼が続ける。
真歩は言われるがままに自分の携帯番号とメールアドレスを教えた。
「じゃあ、連絡するから。お祝い何がいいか、考えといて。」彼は快活に言うと、片手を軽くあげて「今日はどうもありがとう。またね。」と言って、足早に去っていった。
彼の姿があっというまに小さくなっていく。
自分自身が揺さぶられている気がする。
真歩は自分の感情に戸惑いながらも、大きくなってくる不安を必死に押さえつけようとしていた。