(五)
五
真歩は昨晩、あまり眠れなかった。
何度も桜の木の下で出会った男性を思い返した。
利明。
彼は本当に隣に住んでいたあの彼なのか。
あの瞳。
そして微笑み。
彼だけが背景から少し浮いているようにも感じた。
「上の空。」
真歩は言われてはっと気がついた。
「何考えてるの?」直之が彼女の袖を引っ張った。
今日は真歩の実家近くの物件を見て回っていた。賃貸から新築マンションまで、いろいろと見て回る予定だった。
「ああ、ごめんごめん。」真歩が取り繕う。
「三LDKですので、お子様がお生まれになっても、十分の広さですよ。」マンションの営業は、満面の笑みを浮かべて熱心に勧める。
真歩は慌ててそのモデルルームに集中した。
確かに広々としていて美しい部屋。もちろん、こんな風に暮らせる訳がないとは思うが、否応無しにも期待が高まる。
大きな液晶テレビ。
美しいソファ。
マンションの立地は異なるけれども、雪のような生活に近づけるような錯覚を覚えた。
一通り部屋を案内され、いよいよ資金繰りの話になった。
簡易テーブルにパイプ椅子。女性がコーヒーを持ってきた。
「家賃程度の返済額で購入できますよ。」営業がしきりに説明する。
直之の顔を見ると、この営業トークに少々疲れてきているようだ。あまり色よい返事をしたがらない。もちろんこれからの家計に関わってくる問題なので、即決という訳にはいかないけれど、そんなにしぶらなくてもいいのに、と真歩は少し不満に思った。
「ボーナスを返済にあててしまうのは心配なんですよね。」直之が言う。
「おっしゃることはよくわかりますよ。」営業が大きくうなずいた。
「ボーナス返済をなくすとですね、ひと月に訳三万円ほど返済額がアップいたしますね。」営業が申し訳なさそうに言う。
「うーん、そうすると、ちょっと手が出なくなるな。」直之が「そうだよね」というようにこちらを見た。
真歩も直之の言っていることは十分理解していたが、なんとなく悲しい気持ちになっていた。
「ご両親はどのようにおっしゃっていらっしゃいますか?娘息子のためなら援助したいっていう親御さんは多いですよ。」
「うちの両親は慎ましやかに暮らしているから、あまり負担をかけたくないんだ。」直之が言う。
「じゃあ、奥様のご両親は?先ほどのお話では、この近くに住んでいらっしゃるんですよね。」営業がすばらしい笑顔で聞いてきた。
「そうですね・・・聞いてみようかしら。」真歩はつい口にしてしまった。
すると直之の眉間にしわがよった。
「いや、そんなことする必要ないよ。ぼくたちだけで買えない物件は、ぼくたちの身の丈にあってないってことだよ。」
真歩はその言葉に反論できなかった。直之の言ったことは正しい。この物件は身の丈にあってないのだ。
直之はこれで話はおしまいというように資料をしまいだした。営業は「残念」というような顔を笑顔で必死に隠そうとしている。
モデルルームのプレハブを出ると、二人は黙って歩き出した。
真歩はわかっている。直之が正しいということを。
でも、と心の奥底では感じている。
こんな暮らしがしたいと思った。
いつかこんな暮らしができるのだろうかとも。
「やっぱり新築マンションはぼくらには無理だよ。」直之が諭すようにいった。
「うん、わかってる。」真歩も答えた。
「中古マンションを見てみよう。内装をリフォームすれば、きっと満足いく物件になるよ。」直之が彼女の手をとって言った。
「そうね。見てみましょう。」真歩も直之のその真剣な表情に少し穏やかな気持ちになった。
二人は花見がスタートする約束の時間まで、いくつかの物件を見て回った。中古マンションや賃貸アパート。でも、あんなに立派で美しい新築のマンションを見た後では、どれもこれも色あせて見えてしまう。
けれど直之は冷静に、どの物件も懸命に見て回っていた。そんな彼を見ると、真歩はがっかりする気持ちを顔に出さないように気を使った。
上野公園に到着すると、ものすごい人ごみだった。桜の木の下にビニールシートを引いて、すでに完全に酔っぱらっている花見客、おしゃべりに夢中の女の子達の集団、そして直之と真歩のように、手をつなぎ、可憐な花を見上げながら歩くカップルたち。一年のうちで今の時期が一番、この公園が混むというのは、事実だった。
直之が携帯で連絡をとりながら、友人達がいる場所を探した。あまりにもたくさんの人がいるため、とてもじゃないが見つけ出せないとうんざりしていると、遠くの方から二人を呼ぶ声が聞こえた。
大学時代のサークル仲間は、噴水近くの立派な桜の木の下に、ちゃんと場所を確保していた。サークルに所属していたメンバーの約半数ほどが集まっている。この年齢にしては集まった方なのではないだろうか。メンバーの顔を見ると、やはり独身組が多い。家族を持つ友達は、ほとんどいなかった。
「やあ、久しぶり!結婚おめでとう。」このイベントの幹事を引き受けた、ムードメーカーの友人が、二人に声をかけた。するとそれに続くように、居合わせたみなからも、口々に「おめでとう」と声が上がった。
「ありがとう、なんか照れるな。」直之と真歩はつないでいた手を離し、なんとなくばらばらに腰をおろした。
それからもぱらぱらと、友人たちが集まってくる。いつが宴会のスタートということはなく、いつのまにか皆ビールを開け始めた。
満開の桜は本当に美しかった。ライトアップされた花びらは、夜空に白く浮き上がる。
「こんなにうるさくなければ、もっと観賞できたのに。」真歩がちいさくつぶやくと、隣に座っていた友人が「ばかね、そういうのは上野公園じゃできないのよ。」といって、真歩の紙コップにビールを注ぎ足した。
「ビールは身体に残るから、苦手なんだよね。」真歩はなみなみと注ごうとする彼女を、手で制しながら言った。
「花見に来て飲まないなんて、どうかしてるわよ。」と言って、彼女は強引に注ごうとする。すでに少し酔っているのかもしれない。
「今日、雪は?」真歩はちびちびと紙コップに口を付けながら、訊ねた。
「雪はね、なんかちょっとだけ顔を出すって言ってたわ。」
「そうなの?」
「ほら、忙しいみたいだしね。今や女社長ですもん。」彼女は足をのばした。シートから足がはみ出てしまうのもおかまいなしだ。
「ほら、来た!」彼女が声を上げた。すると遠くから、花見には似つかわしくないような、きっちりとしたスーツを着た雪が歩いてくるのが見えた。
「ごめん、遅くなった。でも、まだ仕事があるから、ちょっとだけしかいられないんだけど。」雪は片手で謝るようなポーズを見せ、それから真歩の隣に座り込んだ。
甘い香水の香り。
「真歩、ビール飲んでるの?珍しいわね。」
「うん、そう。これしかないんだって。わたし苦手だから、そろそろ頭がくらくらしてきた。」真歩はおどけて言ったが、事実アルコールが全身を駆け回り、早くもギブアップの予感がしていた。
「ちょっと大丈夫?本当に調子にのるんだから。」雪は真歩の手から紙コップを取り上げた。
「ウーロン茶持ってきてあげる。」そういって、彼女はさっと立ち上がり、すぐに持ってきてくれた。
真歩はそんな彼女の姿を、羨望のまなざしで見つめた。
美しく、女性らしく、そして社会でも成功している。
「いいなあ、雪。」真歩は酔いも手伝って、いつもよりもストレートにうらやましいと表現した。
「何が?」雪は完璧な笑顔で返す。
「何でも持ってる。」真歩は少し口を尖らせた。
「そんなことないでしょ。持ってないものたくさんあるわ。」雪が軽く笑いながら答えた。
「ううん、持ってるよ。雪みたいになりたかったな、わたし。」
「何言ってるの?真歩は今十分に幸せじゃない。」
「幸せだけど、そうね、幸せだな。」
「ほら、でしょ。わたしはもう一生結婚なんかできないだろうな。」
「ええ?そんなことないわよ。こんなにきれいで魅力的で、男性がほっとかないわ。雪の結婚式で友人のスピーチをするのが夢なんだから、そんなこといわないで。」
雪は視線を頭上の桜に移す。
「きれいだわ。」と雪はつぶやいた。
彼女が幸せではしゃいでいるというところは、見たことがなかった。いつも静かで安定している。雪がはしゃいでいるところも見てみたい、桜を愛でる雪を見て、真歩はそう思った。
「そろそろいかなくちゃ。」雪はビール一杯を飲みきったところで、名残惜しそうに立ち上がった。
「もういっちゃうの?」
「仕事を抜け出してきたから。それなのにつられてビールなんて飲んじゃった。」雪はにこっと真歩に笑いかけた。
「じゃあ、またね。気をつけて。」真歩は手をあげた。
「うん、また。」そういうと彼女は直之のところまで歩き、何やら耳打ちをした。直之が軽くうなずくと、雪は皆に「じゃあ、また。楽しんで。」と軽く手をあげ、帰っていった。
去っていく後ろ姿は、すでに仕事のモードに入ってるかのように、きりりとしたオーラが放たれている。
「やっぱり彼女は素敵。」真歩は眠気に襲われながらも、そんな風に思った。
そこへ、直之がビールを片手に、真歩の隣に移動してきた。
「雪が真歩が酔っぱらってるから、ついていてやれって言って。」直之は叱られた子供のように、申し訳なさそうに真歩を見た。
「大げさな。それほど酔ってないわ。」真歩はそう言ったものの、すでに座って身体を支えているのもしんどくなってきていた。
「いいよ、横になって。いるから、ここに。」直之がそういうと、真歩はその言葉に甘えて直之の膝に寄り添うように横になった。
ぱらぱらと小さな花びらが舞い落ちるのが見える。ふと、昨日の光景がよみがえった。
あれは現実じゃなかったのかもしれない。
真歩は、ぼんやりした頭でそんな風に考えた。
「眠いならいいよ、寝ても。」直之が真歩の髪をなぜた。
真歩は静かに目を閉じる。
直之の大きな手が、真歩の頬にあてられる。
「愛しい。」真歩はその手の暖かさを感じて、そう強く思った。