(四)
四
コンビニの袋を下げ、足早に自宅に戻る。
「すっかり遅くなっちゃった。」真歩はスプリングコートの前をぎゅっとあわせる。
今日は会社の元同僚と食事をしていた。彼女はまだ現役の銀行員だ。食事をしながらうらやましそうに何度も「いいなあ、寿退社」とつぶやく。真歩は彼女が泥酔して絡みだす前に逃げ出したかったが、なんとなく引き止められ結局こんな時間になってしまった。
コンビニの袋には缶コーヒー。お酒をたくさん飲んだ日は、コーヒーを飲むに限る。そうすると翌日にひびかないのだ。三十歳をすぎてから、お酒が身体に残るようになってしまった。若いつもりでも、年齢を重ねる変化を感じた。
桜は満開だ。今年は咲くのが遅かった。明日の夜には大学時代の友人達と花見の約束。
「それまでに雨がふらなければいいのに。」と真歩はつぶやいた。
もうすぐ家だ。街灯がついているとはいえ、人通りもなく心細い。少し小走りになる。
そして最後の角を曲がって、真歩はぴたっと足を止めた。
玄関の前に誰かいる。
真歩の家の前にも大きな桜が一本たっていた。花見の時期になると、近所の人々が散歩がてらその桜を愛でにくる。真歩もその華やかさにいつも心奪われた。
「花見の人?」真歩は目をこらしてその人物を見る。
でもすこしおかしい。桜の木を背に立っているのだ。目線は真歩の玄関に注がれている。
長身の男性。玄関のほのかな明かりに照らされてはいるものの、はっきりとした表情は見えない。道路の少し先に見覚えのないセダンがとまっている。彼が乗ってきた車だろうか。
真歩は心臓が凍り付くような気がした。今ここから携帯で自宅に電話して、玄関まで父親に出てきてもらおうか。
でも。
もう遅いし、ただの花見客かもしれない。
真歩は意を決して足を踏み出した。足早に玄関に駆け込む。
「あの、すみません。」
突然その男性に声をかけられた。
嫌な汗がわっと出てくる。鍵を取り出そうとして、必死に鞄を探る。
そして用心深く振り向いた。
一人の男性が立っていた。
真歩と同じぐらいの年齢。
満開の桜を背に、初めてその表情が見えた。
美しく大きな瞳。
黒髪は月光でつややかな輝きを放っている。
端正な顔立ちだが、どこかはかなげなたたずまい。
そのとき川風が桜を揺らした。
ざわざわという音とともに、白い花びらが宙を舞う。
彼の髪や肩に花びらが散る。
そして彼が微笑んだ。
「すみません。」彼は再び声をかけた。
真歩ははっと我にかえった。
「もしかして、真歩さん?」彼は一歩真歩に近づくと、瞳を覗き込んだ。
「はい、あの、そうですけれど。」真歩は慌てて返答した。
「そうか、やっぱり。」彼はうれしそうだ。
「あの、失礼ですが・・・どちら様ですか?」真歩は訊ねた。
すると彼は少し驚いたように目を見開き、それから「利明です。」と答えた。
「昔、隣に住んでたんだけど、覚えてないかな?」彼は少し首をかしげた。
「利明・・・くん。ああ、ちょうどこの間、母と話題にしていた・・・」真歩は信じられないというようにつぶやいた。
「おかあさん、元気かな?なつかしいな・・・」彼が目を細める。
それから真歩の方を見て「おかあさんにも会いたいけど、今日は遅いから、また出直してくるよ。」と言って、くるりと向きを変え、車の方へと向かった。
静かな夜に低いエンジン音が鳴る。
そして彼はいってしまった。
真歩は呆然とその車を見送った。
頬にひやりとした風があたって、慌てて家の中に入る。
そして家の中に入って初めて、今出会った利明君が、先日見た映画の主人公の俳優にそっくりだったと思い至った。