(三)
三
雪のマンションから帰ってきて二三日の間、真歩は家で静かに過ごした。
真歩の家は直之のアパートから電車で十分。東京と千葉を隔てる大きな川のすぐ近くにあった。
真歩の両親は、この一角が宅地造成された時に、一軒家を購入した。小さな敷地にめいっぱいにたてられている小さな住まい。庭とは名ばかりのスペースには、母が育てる野菜がある。そんな小さな住まいがいくつか集まっているような住宅街だった。
彼女の部屋は二階の南側。窓を開けると土手沿いの桜並木が目に入る。川はねっとりと黒くよどみ、流れているようには見えなかった。ただ、土手からあがる川風は、春のにおいを含んで心地よい。真歩はいつもこの窓からの風で季節を感じてきた。
真歩は一人娘だ。他に兄弟はいない。彼女が結婚して家を出てしまうと、この家には両親だけになる。真歩はそれが気がかりだったが、直之はこの近くに新居を構えようと言ってくれている。次男なので、その辺は気が楽だった。
部屋の中には子供の頃から使っているシングルベッド。窓際には大学時代に購入したシンプルなデスクと本棚。グリーンのカーテンが風にたなびく。
クローゼットをあけ、新居に持っていくものを選り分けようとしたが、新居も決まっていないのに現実味がないと、すぐにあきらめてしまった。
気を取り直してクローゼットの上戸棚をあけ、なんとなく捨てられない子供の頃からの品々を取り出した。
「持っていこうかしら?」真歩は埃を払いながら、段ボールをあける。
アルバムに整理しきれない写真や、昔趣味で集めていた折り紙の束、そして今や聞かなくなってしまったカセットテープ。これは自分でお気に入りを編集したものだ。手書きのプレイリストを見ると、この当時恋をしていたことを思い出した。甘酸っぱい思い出。
もう一つの段ボールをあけると、中からは卒業アルバムと詩集、そして今度は整理された写真のアルバムがあった。ぱらぱらとめくってみると、真歩が小学生のころのもののようだ。
「わあ、なつかしい。」級友の顔を眺め、なんとなく思い出す。ああ、こんな子もいたなあ。あれ?名前はなんだっけ?今もこの辺りにすんでいるのかしら?
そして真歩は一枚の写真に目を留めた。
それはこの家の前で家族とともにとった写真。両親と小学三四年生の頃の真歩、そして見知らぬ男の子が一人。
「これは誰?」
真歩は懸命に記憶をたどった。
きれいな顔立ちをした男の子だった。真歩と同い年ぐらい。白いポロシャツに膝までの短パン。黒い髪はやや長めだが、さらさらとしている。そして印象的なその目。二重のくっきりとした目は、年月を経た写真からでさえも、輝いているように見える。
確かにこの顔、この瞳に見覚えがあるように思う。
真歩はアルバムを片手に、一階の台所で昼食の支度をしている母のところへおりていった。
「ねえ、この子誰かしら?覚えてる?」真歩は母に尋ねてみた。
母は白髪が混じる肩までの髪を手で耳にかけながら、なになに?というようにアルバムを覗き込んだ。
「ああ、利明君。なつかしいわねえ。」母はその穏やかで丸い顔に優しい笑みを浮かべた。
「覚えてないの?利明君。お隣に住んでたのよ。」
「お隣?鈴木さんちに子供はいないじゃない。」
「鈴木さんが引っ越してくる前の話よ。山本さんって言ってね。ご両親とも働いてたから、学校から帰ってくると利明君はしょっちゅううちに遊びにきてたわ。あんたとも仲良かった。」
「そう・・・だっけ?」真歩はなんとなく思い出しかけていた。
「礼儀正しくて、きれいな男の子だったわ。大人びたっていうかね。でも突然引っ越してっちゃったのよ。夜逃げっていうのかしら?わからないけど。挨拶もなかったわ。」
「うん、なんとなくだけど、思い出してきたような。わたし、泣いたよね。いなくなっちゃったとき。」
「そうそう、あのときはなだめるのに大変だったわよ。もしかしてあんたの初恋だったんじゃないの?」
「ええ!初恋は幼稚園のときだもの。違うわ。」
「でも二人とも本当に仲が良かったわよ。でも忘れちゃうものなのねえ。」母はしみじみと言った。
言われてみると、真歩の毎日のなかに、確かにこの男の子がいたような気がする。それをすっかり忘れてしまっているなんて、人の記憶ってあてにならないものなのね、と真歩はぼんやりと考えた。
「さあ、お昼ご飯にしましょうよ。あんたもぼーっと突っ立ってないで、お皿用意して。ほんとにこれで奥さんになれるのかしらね。」
「やればできる子だから、大丈夫よ。」真歩は母の批判を軽く受け流した。