(二)
二
翌日、真歩は広尾に出た。
結婚に際して、三月末日付けで仕事を辞めてしまったため、平日の昼間は自由に行動できた。
広尾は真歩にはなじみのない町だ。いつきても借りてきた猫のように身が縮まる思いがする。あまりにも落ち着かないので、できれば来たくはなかったが、爪の手入れはここと決めたサロンがあったので、定期的にやってきていた。
天現寺の交差点を曲がり、明治通りに面したビルの二階にそのサロンはあった。
美しく磨かれたガラスドアを押して中に入る。
白い制服に身を包んだ若いスタッフが、真歩の顔を見ると笑顔で会釈をし、サロン奥にあるVIPルームへと案内した。
サロン自体はとても小さい。少数のネイリストがそれぞれにプロフェッショナルの仕事を行っていた。インテリアは白で統一されている。サンダルウッドの香りがサロンに漂う。床は丁寧に磨かれ、塵一つなかった。
真歩はVIPルームの柔らかいソファに腰掛け、やはり落ち着かない気持ちで待った。
運ばれてきたコーヒーに口をつける。
もちろんインスタントではなかった。
そこに扉から一人の女性が現れた。
やはり白い制服に身を包んでいるが、他のスタッフとは雰囲気が異なった。
黒髪を一つにまとめ、長いまつげが印象的だ。
そして真歩を見ると、その美しい顔に子供のような笑みを浮かべた。
「いらっしゃい。」彼女は穏やかな安定した声で話しかけた。
「またお邪魔しちゃった。今日もよろしくね。」真歩はやっと緊張が解けたというように、笑みを浮かべて答えた。
彼女は真歩の大学時代からの親友だ。直之と同様、サークルでともに活動していた。
「今日はどんな感じにする?」彼女は真歩の手を取り、エンゲージリングを静かに外す。
「整えて、色を塗ってくれればいいよ。」真歩も気軽に答える。
「ええ、また?つまんないなあ。ネイリストの腕を振るいたいのに。」彼女は口を尖らせながらも、すでにハンドケアの準備に入っている。
「じゃあ、雪の好きなようにしていいよ。」真歩は言った。
「ほんと?じゃあ、幸せいっぱいの真歩さまにお似合いの、ハートをたくさんつけようか。」雪は上目遣いで真歩を見た。
「え!それはやめようよ。恥ずかしから。」真歩は真剣に抗議した。
すると雪はくすくすと笑いながら「冗談よ。園田君好みの清潔な感じに仕上げますわ。」と言って、優秀なネイリストの顔になった。
雪は大学を卒業してから真歩と同じ銀行に就職したが、たった半年つとめただけで辞めてしまった。その後ネイリストになるべく勉強をし、サロンで何年か働いた後、広尾に自分のサロンを開いたのだった。そして今では都内にある三つのサロンのオーナーだ。
「どう最近は?」真歩は自分の手を真剣に見つめる友人を見ながら訊ねた。
雪はちょっと笑って「もう、必死よ。」と答えた。
「サロンを経営するなんて、なんかかっこいいわなんて思ってたけど、やっぱり勤めているほうがよほど楽だったわ。今は毎日仕事のことしか考えてないの。嫌になっちゃう。」そうはいいながらも、充実したその生活が、雪をさらに美しく見せているようだった。
「真歩は?もう幸せの絶頂でしょう。うらやましいなあ。」
「うん、まあね。」真歩は照れながらも冗談めかして答えた。
「ああ、もう!花嫁はもう少し謙虚でもいいのよ。こんな仕事一筋の独身女を前にしたらね。」雪が軽くにらむ。「よし、やっぱりでっかいハートつけてやろう!」
「それはやめてってば。」真歩が笑った。
雪は慣れた手つきでハンドマッサージを行う。
「でも必死って言っても、順調なんでしょ?仕事。」真歩が訊ねた。
「そうね、徐々に上客もつき始めてるし。」雪はたいしたことではないというように言った。
それから秘密を打ち明けるかのように、声を細めた。
「誰かは言えないんだけど、有名人のお客様もちらほらきてくださるようになってね。気に入ってくださってるのよ、このサロン。」
「わあ、すごいじゃない!ますます大きくなるわね、このお店も。」真歩も自分のことのように喜んだ。
「ねえ、今日の夜、暇?」雪は人差し指の爪に注意深くカラーリングをしながら訊ねた。
「暇よ、もちろん。会社やめちゃったし。」
「じゃあ、今日は早めに帰らせてもらうから、独身最後のはめはずしをやらない?とは言っても、わたしのマンションで朝までガールズトークってことだけど。この間お客様からシャンパンを頂いたんだけど、わたし一人じゃあけられないから。」
「シャンパン!飲んであげるわ!じゃあ、わたしデリでお惣菜でも買っていくね。」真歩が楽しそうに提案した。
「じゃあ決まり。夜九時頃に、駅前のスタバで待ち合わせしましょう。」雪もうれしそうに言った。
「今夜は眠らせないぞ。」雪が男性の声音で言った。
「もちろん、眠らせないで。」真歩が舌足らずの声で応じる。
今は立場も環境も違う二人だったが、こんな風に会話するときは学生時代に戻れる。
雪は真歩の一番の親友だった。
雪のマンションは目黒に新しく建った高級マンションの十階だ。彼女はこのマンションを十五年のローンで購入したという。
「でも意外と早くに返せそうよ。」雪は少し誇らしげに言った。
エントランスにはクリーム色の絨毯がしかれ、コンシェルジュが二十四時間ついている。
真歩がこのマンションを訪れるのはこれで二度目。一度目は直之と共に、引っ越し祝いを届けにやってきた。そのときも思ったのだが、雪が自分たちとは異なるステイタスにいるのだと、痛烈に感じた。
真歩も憧れないわけではない。
都心の一等地のマンションに住む。
でもそれが自分たちとは身丈が異なるということも、十分にわかっていた。
エレベーターで十階へ。廊下にも絨毯が敷き詰められているが、下足で歩くにも関わらず、清潔な印象だった。
彼女の部屋は角部屋の一LDK。玄関を入るとすぐに広々としたリビング。リビングは二面に大きな窓。ウッドデッキが敷き詰められたベランダへと通じる。前回この部屋を訪れたときは昼間だったので、美しい植物たちが風にたなびく様が見られた。
真歩は薄手のカーテンを少し開け、窓の外を眺める。そこには東京の夜景。地上にいるときは気づかないきらめき。それもまた美しかった。
三十歳でこのマンションを購入するということは、もう雪は結婚するつもりはないのだろうか。真歩はぼんやりと考えた。
「さあ、花嫁。飲みましょう!」雪が声をかけた。
真歩はモダンな印象のカウチ付きソファに足をあげて座り込んだ。雪はトレーの上にグラスと買ってきたチーズやハム、そして高級シャンパンをのせて持ってきた。
早速という感じで、雪がそのシャンパンをあける。真歩はこちらに飛んでくるかもしれないコルクをよけるため、クッションで頭を隠した。
ポンっという大きな音がしたものの、意外とおとなしく封が開いた。二人は笑いながら互いのグラスになみなみとつぐ。
宴のスタートだ。
飲んでつまみながら、しばらくたわいもない話をする。
同級だった友達のところに子供ができた。
こんなお客さんはうんざりだった。
あのカップルはとうとう別れてしまった。
ウェディングドレスをまだ決められない。
酔いが回ってきて、真歩は身体がほんわりと熱くなってきた。彼女と一緒だとついつい飲み過ぎてしまう。
雪の頬もピンク色に染まっていた。透き通るような肌に浮かぶ桜色。彼女は本当に美しい。真歩はうらやましくて仕方がなかった。
「化粧品は何使ってるの?」真歩は訊ねた。
「クレドポーボーテよ。」雪が答える。高級ブランドだ。化粧水一本が一万円近くする。
「そんな高いのは使えないわ。参考にならないじゃない。」真歩が頬を膨らます。
「だって、わたしはお金の使い場所がないんだもの。サロンと家の往復だけ。デートだってもう何年もしてないわ。」雪がうんざりというように言った。
「デートしてないの?だめ!もうわたしたち三十歳よ。」真歩が声をあげる。
「わかってるわよ。」雪が口を尖らせて言った。
「でもね、とにかく時間がないの。大きな画面で映画が見たいなあって、こんなテレビを買ったけど、ここで映画を楽しんだことなんかないわ。音響だってそろえたのに。」
リビングには五十型の液晶テレビがおかれ、両脇にはスタイリッシュなスピーカーが備え付けられていた。
「映画専門チャンネルだって契約してるのに。見ちゃいないわ。」雪がぶつぶつ言う。
真歩はテレビのリモコンを手に取り、試しにつけてみた。
確かにすばらしい音響だ。まるで映画館にいるよう。こんなシステムをわたしたちの新居におけたら・・・と考えずにはいられなかった。
映画専門チャンネルを選ぶ。
そこでは、ほんの三ヶ月ほど前に公開されていた日本映画が流れていた。
真歩が見たいと思っていたものだったが、直之と映画の趣味がまったくあわず、結局見れずじまいだったものだ。
真歩が思わず見入る。
つきつめれば、生きることは何かという作品。レビューにはそのように書かれていた。
出演している役者陣も、今一番輝いている人たちばかり。
特にここ一年で急激に露出が増えている、主人公の男性俳優の演技に高い評価が集まっていた。
雪がグラスを口に付けながら画面を指差した。
「この俳優が所属している事務所の社長さんがうちのお客様よ。すっごくきれいな人。それでいてなんかちょっと怖いくらいに、きれる人よ。わたしを指名してくれるんだけど、いつもどきどきしちゃう。」
「そうなの。大変ね。」真歩は気のない返事をする。
すると雪が真歩の顔をまじまじと見つめた。
「何?この俳優が好きな訳?」
「うーん、好きというかね・・・」真歩も少し考える。
「好きというか、ノスタルジックな気持ちになるというか。」
「ノスタルジック?会ったことあるの?」雪が訊ねた。
「いや、ぜんぜん。こんないい男に会ってたら、忘れないでしょ。」真歩が答えた。
「真歩、それ、この俳優のことが好みってことよ。」雪が言った。
「そうかしら?こんなきれいな顔立ちには惹かれないんだけどな。」
「言われてみれば、そうね。園田君はきれいな男じゃないし。」雪がぼそっとつぶやく。
「何よ!言われなくてもわかってるんだから。でも不細工じゃないわよ。」真歩が抗議の声を上げる。
「ごめんごめん。ごちそうさま。」雪が笑った。
結局二人で最後まで映画を見て、その結末にあーだこーだと議論をかわしていたら、あっという間に朝が来てしまった。