(十四)
十四
真歩は帰りのタクシーの中で、つわりの吐き気も気にならないほど、心臓がつぶされるような思いにとらわれていた。
雪と直之。
二人の間に子供ができていた。
考えると手足がかっと熱くなり、度数の高いアルコールをあおったかのように、身体中がその熱さで震えた。
嫉妬。
きっとこれが嫉妬。
嫉妬という感情は、こんなにも身体全部で訴えるものなのだ。
利明のときに感じた嫉妬という感情は、だだをこねる子供のわがままにすぎなかった。
直之に確認したい。
すべて嘘だと証明してほしい。
あの優しさ。
あの誠実さ。
完璧なまでの演技だったとは思いたくない。
もちろん、雪と直之が肉体的に関係を持ったという事実も、真歩自身を打ちのめしていたが、それよりも二人が秘密を共有していたということに、それ以上の嫉妬を感じた。
二人は子供の命という秘密を共有していた。
二人は死ぬまで忘れないだろう。
自分たちの子供が、親によって命を奪われたことを。
タクシーの振動を身体に感じながら、真歩はそっとおなかをなでた。
ここにも新しい命がある。
雪と直之は二人で秘密を共有できたが、真歩の場合は違った。
子供をあきらめる場合、真歩一人でその罪を背負わなくてはならない。
「子供を産もう。」そう思った。
どちらの子供でも、自分の身体から文字通り血や肉を分け、産まれてくる。
そしてそう覚悟すると、身体中を占領していた嫉妬という感情の隙間に、狡猾な自分が見えてくる気がした。
結婚式まであと一週間。
真歩はタクシーのドライバーに行き先の変更をつげると、シートに深く身を沈めた。
ぽつぽつと雨が降り出していた。
今年の六月は梅雨といえども雨が少なく、どんよりとした空気に囲まれはするものの、毎日毎日うんざりするほど雨が降るということはなかった。
直之はすでに二人の新居に引っ越していた。
自分たちの新しい住まい。
築年数は古いが、もとは分譲マンションなので、作りはしっかりしている。
何十世帯かの窓からは、暖かい家族の明かりが見えていた。
ベランダで植物を育てている家庭。
ベランダに子供用玩具を置いている家庭。
窓すべてに暮らしが見えた。
自分に渡された鍵を使う。
合鍵ではない。
自分の鍵だ。
部屋に入ると、直之はすでに帰宅していた。
カーテンだけがかろうじてかかっているが、その他はまだ内覧したときとほとんど変わっていないその部屋で、直之は段ボールの上に雑誌を開いて、コーヒーを飲んでいた。
雨が本降りになってきたようだ。
ベランダからコンクリートを雨粒が強くたたく音が聞こえる。
ワックスをかけたばかりのフローリングは、蛍光灯の光を反射して、真歩の陰をくっきりと映す。
「あれ?」直之が顔を上げて、真歩を見た。
真歩はしっかりと直之の顔をみつめた。
彼はいつもと変わらない。
変わったのは彼女のほうだ。
真歩は無言で部屋に上がり込むと、直之の前に座り込んだ。
フローリングが冷たく、固い。
直之がベッドからまるめた毛布を持ってくると「敷いた方がいいよ。」と言った。
真歩は言われた通りにその毛布を下にしくと、また再び直之の方を向いた。
「どうしたの?」直之は真歩の面持ちがいつもと異なることに気づいて、警戒した声を出した。
「子供ができたの。」真歩は静かに話だした。
「え?本当?」直之の顔がぱっと明るくなり、これ以上はないとうくらいの笑顔をみせた。
「本当よ。でも、あなたの子供かどうかわからない。」真歩はきっぱりと言い切った。
瞬間、その場の空気が凍り付いた。
まさに凍り付いたという言葉がふさわしいほど、しびれていたくなるほどの冷たさが、二人の間に入り込んだ。
真歩はその痛さに負けまいとするかのように、背筋を伸ばした。
「嘘だろ?」直之は信じられないというような面持ちで、真歩に問うた。
「嘘じゃないわ。あなたの子供かもしれないし、そうじゃないかもしれない。わたしにはわからないの。」
「そんな・・・」直之は絶句し、それから徐々に激高してきた。
「なんだよそれ。あと少しで俺たちは結婚するんだぞ!」興奮して立ち上がり、足が段ボールの簡易テーブルにぶつかる。コーヒーがこぼれた。
「わたしにも堕ろせっていうの?」真歩は感情を抑えた声で言った。
直之の動きが止まった。
真歩の言葉を必死に受け入れようとしているようだ。
怒りに飲まれようとしていた全身が、今度は自分の窮地に気づいた。
「何をいってるんだ?」直之が全身から警戒信号を出している。
こんな彼を見るのは初めてだった。
「雪には子供を堕ろさせたでしょ。」
「何の・・・」直之は反論しようとしたが、真歩の確固たる表情を見ると、言葉につまった。
どしゃぶりの雨がベランダを洗っているようだ。
絶えない水音が外から聞こえてくる。
二人の間に沈黙が流れた。
どちらが先に切り出すか、切り出してしまえば、もう元には戻れない、そう考えると慎重になる。
「誰の子供なんだ?」直之が目をそらし、うつむいて訊ねた。
「あなたの子供かもしれない。」真歩は静かに答える。
「いや、ぼくの子供じゃなかったら・・・」
「・・・幼なじみの。でも、一度きりよ。」
直之が大きく息をはく。
「なんで・・・いや、そうか・・・」直之ががっくりと腰を下し、さめたコーヒーに口をつける。
「雪には悪いことをしたと思っている。」直之は垂れた頭をあげることができない。
「雪との関係は衝動的だった。」直之はつぶやくように言った。
真歩は改めて直之が関係を認めたことに、殴られたような衝撃を感じたが、その表情を見せないようぐっとこらえた。
「雪が弾むような声で『妊娠した』と言ってきたとき、自分の軽率さに震えた。死ぬほど後悔したし、どうすれば真歩を失わずにすむか、毎日考え続けた。『堕ろす』なんていう恐ろしい結論に至ったのも、自分としては当然だった。」そこで直之は顔をあげ、真歩を見つめる。
「きみを失うくらいなら、どんな恐ろしいことでもできた。誰を傷つけても、子供の命を奪ってさえも、きみが側にいてくれるのなら・・・」直之はすがるような目で真歩を見た。
「必死だった。」直之はかすれた声で言った。
真歩はまっすぐ直之の顔を見返す。
取り乱してはいけない、そう自分に言い聞かせた。
「信じていた相手に裏切られるって、こういうことなのか。」直之は再びうつむいた。膝に置いた手が心なしか震えているように見える。
「結婚・・・どうする?」直之が問いかけた。
「あなたはどうしたい?」真歩が改めて問いかける。
「ぼくは・・・わからない。真歩に許されるのか。それに、その子供・・・ぼくはどうしたらいいのか・・・混乱していて。」
「以前のようには、あなたを愛せない。」真歩は言った。
「わかってる。」直之が答える。
「今、あなたの胸にある、その感情で決めて。」真歩が直之の目を見た。
「愛、嫉妬、嫌悪、贖罪、欲、その他様々な感情のうち、今あなたは何に支配されている?」
「いや、わからないよ・・・混乱して。考える時間を・・・」直之が戸惑う。
「時間はないわ。」真歩は冷たく言い放った。
「結婚式は一週間後で、子供はどんどん大きくなる。」真歩は手をおなかにあてた。
「だから今決めて。」
直之の視線は真歩の顔と彼女のおなか、彼女の指に光る婚約指輪の上をさまよい、最後に自分の手をみつめた。
そして「決めた。」と言った。