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衝動  作者: ようまま
13/15

(十三)

十三


結婚式を一週間後に控え、真歩は忙しく過ごしていた。

式自体の準備はすでにほとんど終了し、あとは本番を迎えるだけだったが、結婚後の引っ越し準備が今や佳境を迎えており、私物の取捨選択に時間を費やしていた。

そんな真歩の姿をみて、父が徐々にナーバスになってきているのがわかった。真歩は会社を退職してもなお、結婚するという実感がわいてこなかったが、その父の様子でやっと「家を出るんだ」という一抹の寂しさが真歩を襲ってきていた。


雪とは連絡していなかった。「ごめんね。」というメールの返信さえもしていない。そもそもなんと話してよいのかもわからなかったし、正直にすべて話す勇気が、真歩にあるとも思えなかった。招待状はすでに発送してある。結婚式の会場で少し話ができればいい、そう思っていた。

直之への思いは、以前とまったく変わらなかった。不思議な感覚ではあったが、真歩の中で、利明との間にあったできごとは、心のどこか別の場所に大切にしまわれていて、直之との関係に影響があるということはなかったのだ。

もちろん、利明からの連絡はなかったが、それで真歩は納得していた。


そんな日に、真歩は自分の体調の変化に気がついた。なんとなくむかむか胸焼けがして、けだるい。

真歩は自分が妊娠したということが、直感的にわかった。


「どちらの子供かわからない。」


風邪ともまた違うけだるさと吐き気を感じながら、あらかた整理された部屋のベッドに転がった。

梅雨の湿気が空気を重くする。

窓から見える空はどんよりと曇り、いつ降り出してもおかしくなかった。

真歩は懸命に日数を計算したが、はっきりしたことはわからない。前回の生理から考えても、今はまだ妊娠二ヶ月。

直之の子供かもしれないし、利明の子供かもしれない。

赤ちゃんができたという事実になんとなく感じた幸福感は、一瞬にして危機感へと変化した。


このまま事実を隠したまま、直之と結婚できるのか?

直之との子供だったらいい。

でも利明との子供だったら?

徐々に成長する子供に利明の面影をみつけたら?

嘘を突き通すことができるのか?

そもそも血液型が一致しなかったら?

考えれば考えるほど、追いつめられている自分がいた。

これまでの人生のなかで、こんなに窮地に立たされたことはなかった。


どうしたらいいだろう。


利明に連絡するという選択肢はなかった。

彼とはもうすべて終わっている。

彼は今、自分の存在する世界で懸命に生きているだろう。

真歩のほうへ引きずり込むなどという考えはおこらなかった。


子供をあきらめる。

その方法もあるだろう。

おそらく一番波風の立たない方法。

真歩さえ黙っていれば、誰も傷つかない。

でも。

今おなかに宿るこの新たな命は、歓び、悲しみ、そんな経験をする前に命を刈り取られる。

自分にそれを一人で背負う勇気があるだろうか。


ベッドの上で考え続ける。

誰かに決めてほしかった。

救ってほしかった。


自分の軽率さで招いたこと。

もちろん利明と一夜をともにしたことを後悔はしていなかった。彼とのことはもっと別の次元のこと。でも子供ができたとなると、そんな説明は意味をなさない。

携帯を開けて雪からきたメールを見る。

彼女なら、真歩に正解とはいわないまでも、最善の道を示してくれるかもしれない。

彼女はいつも冷静で強い。

あんな女性になれたらと、何度憧れたことだろうか。

雪ならこんな間違い、決しておかさないだろう。

だからあんなに手厳しい警告を発してくれたのに。

真歩は自分の衝動に従ってしまった。

真歩はためらいながらも、雪の携帯に電話をかけた。



雪のマンションまでタクシーを走らせる。

真歩は体調が悪く、とてもではないが電車に乗る勇気はでなかった。

時刻は夜の十時ごろ。電話でのただならぬ気配にびっくりしたのか、雪は「なるべく早くに帰るから。」と言ってくれた。

真歩はけだるいからだと吐き気に耐えながら、なんとかタクシーを途中でおりることなくマンションまでたどり着けた。化粧をする気力もなく、新たな命が「殺さないで」と必死に叫び声を上げているかのように感じて、身体の内部から震えがくるのを感じた。


部屋につくと、心配げな雪が真歩を迎え入れた。彼女はまさに帰ってきたばかりというように、まだ着替えもすんでいなかった。髪は後ろで一つにまとめ、その隙のない身なりは、女性経営者そのものであった。

「どうしたの、その顔色!」雪は真歩の顔を見ると、びっくりして声をあげた。慌てて彼女をソファに座らせる。

「紅茶かコーヒー飲む?」雪がキッチンの中から真歩に声をかける。

「ううん、いらないわ。」真歩は柔らかいソファーの背もたれに身を預けて、天井を見上げた。これから雪に話すことを考えると気が重かったが、重荷を分け合えるのではないかという期待もあった。

キッチンからコーヒーの香りが漂う。いつもならうれしいこの香りが、どうしたことか嫌悪の対象となる。

「ごめん、コーヒーの匂いが今だめで。」真歩は鼻と口を押さえて言った。

「え?」コーヒーメーカーの前に立っていた雪の手が止まる。彼女はあわてて換気扇を回し、匂いを外に追い出した。そして水を片手に、真歩の側に座った。

「赤ちゃん、できたの?」雪が真歩にそっと問いかけた。

「うん、たぶん。」真歩はうつむきながら答えた。

「おめでとう!よかったじゃない。」雪の明るい声が部屋に響いた。そして「ちょっとフライングだけどね。」と言って、真歩の腕をたたいた。

「園田君にはもう報告したの?」雪は真歩の顔を覗き込むように聞いてきた。

「ううん、まだ。」真歩は消え入りそうな声で答える。

そこで雪は真歩の様子がなんだかおかしいことに気づいたようだ。

「園田君の赤ちゃんなんでしょ?」雪がゆっくりと確認するように訊ねる。

「・・・わからないの。」真歩は顔を手で覆いながら答えた。

「真歩、あなたまさか。」雪の声にわずかないらだちが混じったような気がした。

真歩は顔を手で覆ったまま、雪の顔をみることができない。今、雪に軽蔑されている、そんな風に感じた。

「もう、いっそのこと、この赤ちゃんをあきらめるのも、ひとつの方法かと思って・・・」雪に救いを求めるかのように、言葉が口をついて出てくる。

「産まれて、もし直之の子供じゃないとわかったら、わたしは終わりよ。子供と二人きりで、わたしが生活していけるとは思えない。」真歩は話しながら、遠くない未来にそんなことが現実として起こりうるのだと、さらに一層危機感が強まった。

「どうしたらいいと思う?雪。本当にどうしたら・・・」真歩は涙が込み上げてくるのを止められなかった。


「じゃあ、ちょうだい。」


雪とは思えないような、冷たい声音だった。

真歩はびっくりして顔を上げる。

雪は真歩の顔を見ている。その表情はこれまで一度も見たことのないようなものだった。美しくすべらかな肌に暖かみはない。瞳の奥には小さな怒りの火が熱く燃えている。いつも完璧だと思っていたその顔からは、ひどくアンバランスな印象を受けた。

「誰だろう、この人」そう一瞬思ってしまうほど、雪は雪ではなくなっていた。

「園田君の子供かもしれないんでしょ?じゃあ、わたしにちょうだいよ。」

真歩は雪のその表情に圧倒されて、言葉がでてこない。

「わたしは園田君の子供、ほしかったけど、堕したもの。」雪が言う。

真歩はその言葉の意味を理解するのに、しばらく時間がかかる。なんどもその言葉を頭の中で繰り返し、やっと彼女のいわんとすることがわかった。

「嘘よ。」あまりの衝撃で、真歩は少し声を荒げる。

真歩の高まる熱とは対照的に、雪は冷えきっていた。

「嘘じゃないわ。園田君との子供、わたし堕ろしたの。だって・・・」雪の顔に命がやどる。それは生々しい女性としての表情だった。

「園田君が堕ろして欲しいって、頭を下げたんだもの。真歩のことを失いたくないから、わたしに子供を産まれたら困るって。真歩を失わずにいられるなら、鬼でも悪魔でもなんでもなるって!そんな風に頼まれたら、産みたいだなんて、言えるわけがないでしょ!」最後の方は悲鳴のようだった。

雪が真歩の腕をつかむ。その美しい爪が肌に袖を通して、肌に突き刺さった。

「でもあんたは、あんたは、その欲望か、感傷か、くだらない一時的な感情で、園田君とは別の男性とセックスして、勝手に子供つくって、それでいて産まないですって?ふざけないでよ!」

雪の目から一筋の涙がこぼれる。

「わたしは子供が欲しかった。園田君との子供が。彼に愛されて、幸せな家庭を築きたかった。休日には公園を家族で散歩して、芝生の上でお弁当を広げて、子供の幸せが何より一番なんだと笑い合いたかった。あんたはみんな持ってたのに、わざわざ自分からそれを手放したのよ!」

真歩は何も言えなかった。完全に思考が停止してしまっているかのようだ。

真歩は身動き一つできない。

とても信じられない。

でも。

雪のその表情を見ると、現実なんだと思った。

「いつごろ?」真歩はやっとのことで声に出す。

雪は再び氷のような表情にもどった。「大学四年のころ。」

「そんな、少しも気づかなかった。」真歩はあの頃の雪と直之を思い出したが、彼女の話と一致するような兆しは一度も感じたことがなかった。

「あんたに気づかせる訳ないでしょ。甘くて何の覚悟もない、お嬢さんのあんたに。」睨みつけるその瞳の中に、見覚えのある陰り。真歩はこの陰りを何度も目にしたことがあったような気がした。

「決してはしゃがない彼女。それは幸せじゃなかったからだ」真歩は気づいた。

真歩は雪に何も言えぬまま、マンションを後にした。

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