(十二)
十二
パーティからの帰り道。暗い川沿いを歩く。
何度も利明とあの女性社長との情景が再生される。
そして静かな笑みをたたえた雪の顔も。
真歩が愛しているのは直之、ただ一人。
それは真歩が繰り返し繰り返し考えて、たどり着いた結論だ。
では、この動揺といらだちは、いったいなんだろう。
街灯が道なりにぽつぽつと白く浮いて見える。
これが嫉妬と言われる感情なんだろうか。
真歩はこれまで、自分をこれほど愚かで馬鹿な女だとは思ったことがなかった。
すると前方、街灯の下に、見覚えのあるセダンが止まっているのが見えた。
利明の車ではないだろうか?
そう思って、真歩は胸がざわついた。
慎重に歩を進める。
彼女が車にあと数歩というところで、運転席の扉が開いた。
やはり。利明が先ほど見かけたのと同じ格好でおりてきた。街灯の明かりが帽子をかぶった彼の顔に陰を落とし、その表情はよく見えない。真歩の心臓が猛然と血液を送り出す。
彼女は立ち止まった。
しばらく二人は見合ったまま、言葉がなかった。真歩はなんと言っていいのかわからない。いや、そもそも言いたいことがあったとしても、とても言えなかっただろう。それくらい利明の存在に、真歩のすべてが飲み込まれてしまっていた。
「さっき、パーティにいただろう?」利明が低い声で話しかけてきた。
「いたわ。」真歩はやっとそれだけ答える。
利明は一歩真歩の方へと近づく。反射的に真歩は下がる。
すると利明の口元が少しあがるのが見えた。
「車にのって話せない?」利明はそういうと、大股に真歩に近寄り、腕をとった。薄手の生地を通して、利明の体温を感じる。
それだけで真歩の身体が燃えた。
彼女の理性が行くなと叫んでいる。
けれど彼の瞳を見てしまうと、そんな叫びはまったく聞こえなくなってしまった。
おとなしく助手席に座る。
そして車がスタートした。
ハイブリッド車特有の静けさが車内に広がる。
利明は帽子を取り、無言で車を運転する。
窓から入り込む夜の明かりが、利明の顔や首を次々と照らす。
顔に笑みはなく、瞳はまっすぐと前を見ている。
今までみたどの利明よりも、本物の彼のような気がする。
「悲しい」真歩はその表情をみて、そう感じた。
車はそのまま首都高速へと入っていく。
「どこへいくんだろう?」真歩はだんだんと不安を感じ、一方で静かな興奮も増していた。
高速の単調な道を無言でしばらく走っていく。
真歩は声をかけることもできず、押し黙った。
「君はぼくの失われた子供時代の象徴だ。」
高速に乗って二十分ほどたったあと、利明が突然しゃべりだした。
「あの町を離れてから、ぼくは子供らしく振る舞うことを許されなくなった。」
彼の表情はかわらない。感情もなくしゃべっているように見える。
「母と二人で暮らした時間は短かった。ある日ぼくが学校からアパートへ帰ってくると、母はぼくを置いて家を出ていた。」
「え?」真歩は驚いて声をあげた。
利明は、胸の奥底から言葉をかき出しているようだった。長い沈黙を挟みながら、ゆっくりと告白していく。
「母の帰宅が遅いのは、日常茶飯事だった。男がいたんだと思う。そう気づいたのは、母がいなくなり、親戚の家をたらい回しにされているときに聞いた、おじやおばの陰口からだ。」
「両親が離婚したとき、ぼくは母を苦しめた父を恨んだ。でも今になって考えると、父もつらかったんだと思う。覚えてるかい?ぼくの母を。」ちらりとこちらをみやる。
「母は美しかったよ。幼心に自慢の母だった。長くまっすぐな黒髪をいつもきれいにとかしつけて、ぼくをだきしめるときにはおしろいの香りがした。でも・・・」
「自分が一番大切な人だった。ぼくはそんな母を目にするたびに、言いようのない寂しさを感じていたんだ。幼いときにはなぜ寂しいと感じているのか、自分でもまったくわかっていなかったけどね。」
車は関越道の方向へ向かっているようだ。どんどんと東京を離れていく。
「ぼくは置かれている立場を理解して、うまく自分の居場所を確保しようと必死だった。そうするうちに、気づいた。どう振る舞えば、他人が自分の思い通りに動いてくれるのか。特に、女性に対してね。」自嘲するかのような笑みが口元に浮かぶ。
「自慢して言えるようなことは、何一つしてきていない。今の立場も必死に生きてきた結果だ。恥ずかしくて泣きたくなるようなこともした。生きるためには必要だったから。」
「自分のこの人生とは裏腹に、みなが賞賛を浴びせてくる。」
「嫌になった。」利明の顔が歪む。
「あの夜、車を運転していたら、思い出した。家の斜め前に大きな桜の木があったことを。隣に仲のいい女の子が住んでいたことを。そしてぼくがほんの子供だったことを・・・気づいたら昔の家の前に立っていた。」
真歩はあの夜、家の前にたたずんでいた利明を思い出した。
「君を玄関で見たとき、記憶と感覚がわっと蘇った。君のお母さんが作ってくれたお菓子の甘いバニラの香り、家のなかを君とふたりで駆け回った時の弾むような気持ち、そして唇を重ねたときのチョコレートの味。」
「あまりにも君が昔と変わらなかったから。」
「もう少し触れたい。もう少しこのノスタルジックな世界に触れていたいと、ぼくは欲をだしたんだ。」利明が静かに言う。
「でもいざ触れてみると、どうしようもない感情がうまれた。ぼくが失ったすべてを、君は変わらずに、さも当然というように持っている。」
「君から奪いたいと思った。その日常を。」
「ぼくは結局、あの母親の子供なんだ。一度その考えにとらわれたら、それが倫理的にどうであれ、行動を止められない。ぼくはこれまでたくさんの女性達にしてきたのと同じことを、君にもした。」
「君が心乱れていることはわかった。ぼくを見るときの目が、その他の数多の女性と同じだったから。」
「軽蔑した?」
真っ暗な山々の間を切り開くようにつながる高速道路をひた走る。
真歩は少し考えて「いいえ。」と答えた。
真歩自身、利明に軽蔑されるようなことをずっと考えている。
とても軽蔑したとは言えなかった。
「そして、僕はまた君の了解を得ずに、こんなところまで車で連れ出している。これも軽蔑されてしかるべき行為だ。ぼくはまだ、君から奪いたいと思っているんだ。正直に話して、軽蔑されてもなお、僕は自分を止められない。」
「でもそれと同時に、君から欲しいと思ってる。」
真歩が利明の横顔を見つめる。
「何を?」真歩が静かに問うた。
車が高速をおり、山道をゆっくりと上る。
ライトが真っ暗な道路を心細げに照らす。
「うまく言葉では言えないんだけれど・・・欲しいっていう衝動があるんだ。」
門の明かりがゆらゆらと揺れているのが見える。
車は山奥の小さな旅館の駐車場に静かに乗り入れた。
控えめで礼儀正しい仲居が、利明と真歩を離れへと案内した。
石畳の回廊を通ると、深夜のしっとりとした空気が、真歩の薄着の身体を包む。真歩は両手で身体を抱いた。
湿った濃い緑の香りと虫の気配。ほんの近くのところに川が流れているようだ。優しげな水音が聞こえる。
離れに通されると、仲居はお茶の支度を手早く行う。
そしてそっといなくなった。
清潔な新しい畳の香り。十畳ほどの部屋が三つ。中庭へ通じるガラス戸から部屋付きの露天風呂へとつながっている。痛いほどの静けさのなかで、たっぷりなお湯が砂利に染み入る音が聞こえるようだ。
そして、一番奥の部屋にはすでに二組の布団がしかれていた。
真歩は入り口に近い場所に立ち尽くしていた。依然として両手で身体を抱いている。室内の暖かさは十分だったが、こうしていないと身体が崩れてしまいそうに緊張していた。
利明は上着を脱ぎ、腰を下ろした。
「座れば?」利明が入れたてのお茶に口をつけた。
真歩は緊張しながらも、利明の向かいに座った。
「寒い?お茶があたたかい。おいしいよ。」利明が真剣な面持ちで言う。
言われるがままにお茶をすすった。渋くて暖かい。真歩の真ん中がじんわりと緩んでくる気がする。
しばらく二人は無言で、お茶を飲んだ。
時刻はすでに深夜0時に近い。
「どうしたい?」利明が口を開いた。
真歩は一瞬言葉につまる。「どうしたいって・・・」
「ぼくは車でも言ったけれど、君の日常を奪ってやりたいと、今も強く思ってる。たぶん君という存在への強い嫉妬からだ。」
「わかるだろ?ぼくがどうしたいと思って、きみをここにつれてきたか。」
真歩は手が震えてくるのを止められない。
でもそれは決して恐怖からではなかった。
「きみを抱きたい。愛や恋ではない。嫉妬と、そう、懐古的な感情から・・・でも」利明が真歩の顔をまっすぐ見ていった。「無理強いはしたくない。君が嫌だといえば、ぼくはすぐにでも君を家までまた送り届けるつもりだ。」
考えるまでもなかった。真歩の身体はすでに、利明に飲み込まれているも同然だった。彼の言葉ひとつひとつに全身が反応している。こんなことは初めてだった。
「わたしは・・・」真歩はかすれる声で言った。「再会してからずっと、あなたに抱かれたいと思っていた。でも愛とは違う。それはわかってる。愛している人がすでにいるから。それが愛という感情だと知っているから。」
真歩は続ける。
「わたしたちが幼ければ、これを恋と呼んだかもしれない。でもそれも違う。わたしたちは大人になった。まったく昔と変わらないなんて、そんなことあり得ないのだから。」
真歩は利明の顔をみつめた。こんな風に正面から彼の顔をためらいなく見つめることなんて、これまでできなかった。もう覚悟が決まったのだ。
利明はそれがわかると、彼女の手をとり、布団の上に連れて行った。
白く清潔なシーツの上に二人で向き合い座ると、利明は彼女の髪に手を触れた。髪をまとめていたヘアピンを丁寧にとると、彼女の髪を下ろす。利明は柔らかなその手触りをしばらく感じているようだ。そして真歩の頬に触れた。
真歩は触れた箇所から電気が走るような衝撃を感じた。緊張している。いや、それ以上の高まりが彼女を支配していた。
利明の指が真歩の唇に触れる。
真歩が軽く唇を開く。
そして利明が真歩に優しく口づけた。
タバコの苦い香りが少し。
そして覚えのある感触。
利明は徐々に深部にまで入り込み、真歩はそれだけで最後まで到達してしまいそうになる。
二人はそのまま崩れるように倒れ込み、激しい抱擁をかわした。
利明の手が紺色のワンピースのファスナーを手早くおろし、彼女からその一枚をはぎとった。アクセサリーもつぎつぎと外していく。真歩は乱暴とも言えるその行為に、さらに激しく反応する。利明のシャツの下に手を差し入れ、彼の体温と汗を感じた。
直之とは違った手の大きさ。直之とは違った身体をなぞる道。ゆっくりと時間をかけて真歩を高めるのではなく、奪いたいと言ったその言葉どおり、彼女の全身を強引に利明のものにする。しかし利明は真歩が何を望んでいるのか、的確にわかっているようだった。
真歩はこらえきれず、声をあげる。
「いいよ、もっと声をだして。ここは誰にも聞こえない。」利明が耳元でささやく。熱い息がかかると気が狂いそうになった。
真歩は徐々に大胆に利明を求めだす。
利明のすべてに溺れ、乱れている。
「欲しい・・・あなたが。」喘ぎながら懇願した。
すると、利明は真歩の足を持ち上げ、激しく挿入した。
真歩はこれまで感じたことのないような歓喜の波に飲み込まれた。
たまらず、荒い息で喘ぎ、声をあげる。
利明の腕に必死にしがみつき、この快感に耐えようとする。
激しく揺さぶられると、身体の中心から最後の高まりが溢れ出そうになった。
真歩のその様子に気づいたのか、利明は彼女の身体をきつく抱きしめる。壊してしまうかのような動きと、それから守るかのような抱擁。
「いくわ・・・」真歩の身体が大きく震え、のけぞり、利明を締めつけた。
利明もそれに続き、短い吐息とともに、終わりを迎える。
荒い息のまま見つめ合った。
互いの頬に手をあてる。
そして充足の笑みをかわした。
一晩中、お互いの身体を全身で感じながら、額をつけ、頬をつけ、唇をつけ、時たまさわる敏感な箇所に小さく笑いながら、過ごした。それから二人で短い時間まどろみ、布団から出している腕に優しい日差しを感じて、朝を迎えた。
布団から出て、身支度をしてしまうと、昨晩のことはあまりにも曖昧な記憶でしかなかった。あれほど狂おしく利明を求めたのに、今隣にいる男性とそんな関係を結んだなどとは思えない、真歩はそう思った。
鞄から携帯電話を取り出すと、直之からの不在着信が二件、そして雪からは「ごめんね。」という一文が書かれたメールが入っていた。
二人は、木々の間からおりてくる朝の冷たい空気を感じながら、旅館を後にした。昨日は山奥だということしかわからなかったが、長野の温泉街から少し離れた一軒宿だったということがわかった。従業員も少ない。通常の客室はなく、離れが五つから六つほどしかない。お忍びでくる客が多いのか、無粋な視線などいっさい感じなかった。
再び無言で東京へ向かう。
新しい関係が始まった訳ではない。
真歩はこれで終わりなのだと、運転する利明の横顔をみて思った。
相変わらず利明は整った顔立ちをしていたが、真歩にとっては、それ以上でもそれ以下でもなくなっていた。昨日までは、彼は彼女の非日常そのものであったけれど、今の彼は隣に住んでいた利明であり、遠くへ引っ越していった、また再び会うことのない幼なじみだった。
利明は真歩を昨夜車に乗せた場所で、再び彼女をおろした。
今日は川風が強い。
二人の髪が風で乱れた。
もうすでに初夏の香りがする。
日差しはかなり高くなっており、アスファルトからの照り返しが暖かい。
幾人かの人とすれ違ったが、誰も利明の存在には気づかなかった。
利明は真歩の側まで歩み寄ると、静かにその瞳を見つめた。
「ぼくは花嫁にひどいことをした。それはわかってるんだ。」利明は風で乱れた真歩の髪を耳にかける。
「でも、幸せになって。」そう言った。
真歩は、利明が再び遠いところへ引っ越していくような、そんな錯覚に陥った。
真歩は小さくうなずいた。
「わたしから欲しいといっていたもの、手に入れることできたの?」彼女は訊ねた。
「うん、どうかな?それがわかるのは、もうしばらく時間が経ってからだと思うけど。」利明が考えながら答えた。
利明は真歩の額にそっとキスをする。
それはまるで幼い子供がするような、ぎこちない口づけ。
利明は少し上気した頬に、優しい笑みを浮かべた。
「さよなら。」彼が言う。
「さよなら。」彼女が答える。
そして車が走り去った。
真歩は一人で歩き出す。
その瞬間、「真歩が大好きなんだ。」と頬を染め恥ずかしそうに言った男の子がいたことを思い出した。その日も風が強く、男の子の黒い髪は風になびいていて、真歩がその子の髪を手でとかしてあげたことも。
そして利明が真歩から欲しいと言ったものが何なのか、なんとなくわかったような気がした。
それから、真歩は家にたどり着くまでの間、少し泣いた。