(十一)
十一
ゴールデンウィーク前には、直之の仕事の忙しさも一段落した。それから二人は連休中、結婚の準備を熱心に進めた。
結婚式の招待状の発送。
引き出物の選択。
席順の決定。
そして引っ越し準備。
二人が新居に選んだのは、真歩の実家近く、築十五年の二LDKのマンション。しばらくは直之だけがそこに住み、挙式が住んだら真歩が移り住むことに決めた。直之の部屋から持ち込めるものは、すべて持ち込む。ただカーテンと大きな冷蔵庫だけは新調した。
ベランダは狭いながらも南向きについており、真歩はそこにベランダ菜園を作ることに決めた。小さいながらも幸せな新居。いよいよ、二人で新しい暮らしをスタートさせるのだという気持ちにさせた。
あれ以来、利明から真歩に連絡はなかった。
真歩は正直ほっとしていた。
冷静になって振り返ると、利明のあの言動は、久しぶりに再会した幼なじみにはふさわしくない。
「きっと彼も酔っていたんだ。」真歩はそう思うようにした。
ただ、あのときの利明を思い浮かべると、真歩には再びどうしようもない衝動がわき起こる。しかし「自分は最低なことをした」という自覚から、真歩は必死に平静を装った。特に直之には絶対に悟らせまいとした。
「彼を愛している。」その気持ちには変わりなかった。
「彼を傷つけたくない。」それも同時に強く思う。
このまま利明からは連絡がこないでほしい。
この高熱が下がれば元の通り、直之と夫婦になれるのだから。
でも真歩は携帯電話の利明の登録をどうしても消すことができなかった。
真歩がこの気持ちになんとか折り合いを付けようとしていた頃、雪から新サロンオープンのパーティに来ないか、という誘いがあった。
電話で雪と話ながら、真歩は窓からの新緑の香りを楽しむ。
季節はどんどん動いていた。
「でも、わたしなんかが行って、場違いじゃないかしら?」真歩は心配になって訊ねた。
「何言ってるの?パーティと言ったって、小規模のものよ。有名人なんか来ないしね。心細いなら誰か他につれてくれば?園田君とか。」
「直之はその日仕事が遅いって言ってたから・・・じゃあ、会社で一緒だった女の子誘ってみようかな。いいの?本当に?」
「いいに決まってるじゃない。手ぶらできてね。でも多少化粧してこなくちゃだめよ。ジーンズはお断り。」そう言って雪は笑った。
雪とはあのランチ以降まともにしゃべっていなかった。彼女も忙しかったし、それに真歩も「利明と会った」とはいいづらかったから、連絡しなかったのだ。
雪はこの件に関して何も言わない。確かに更なる忠告をしたって、真歩の問題なのだから無駄だとわかっている。雪は頭がいい。無駄なことはしないのだ。
電話を切ると、真歩はクローゼットを開けた。引っ越しに向けて整理された衣類を眺める。その中でパーティに着ていけそうなものは、友人の結婚式できたシンプルな濃紺のワンピースだけ。これに少し大振りなアクセサリーをつけたら、華やかに見えるかしら?
真歩はそのパーティを思い浮かべ、少し楽しくなった。
雪の新しいサロンは、目黒川沿いの雑居ビルにあった。駅からは徒歩十五分ほど。アクセスが良いとは言いがたかったが、いつも人通りが多いところだった。桜が咲く頃であれば、すばらしい景観だろう。真歩はそう思った。
元同僚の咲子と、二人連れ立って歩いた。道々、インテリアショップやカフェなど、新居のレイアウトに参考になりそうなお店には、自然と目がいってしまう。
真歩は紺色のワンピースに、この日のために新たに購入したアジアンテイストのペンダントとブレスをつけ、いつもより高いヒールの靴をはいた。この靴にもきれいな石があしらってある。髪は美容室でまとめてもらい、ネイルは雪がするのを見よう見まねで自分で手入れしてみたが、よく見るとうまくぬれておらず、少々がっかりした。咲子も華やかなイエローのワンピースに身を包んでいる。
サロン前にはたくさんの花が飾られ、夜の目黒川沿いを彩っているようだ。すでに人は溢れんばかりだったが、パーティ自体はサロン右隣のスペイン料理の店を貸し切って行われているようだ。サロンから出るお客達は、そのままレストランへと流れ込む。心地の良い夜風が川から吹いてくる。そのせいか、人々の顔はみな穏やかだ。
雪はサロン前に背筋を伸ばして立ち、来客ひとりひとりににこやかな笑顔を見せ、挨拶をしていた。
こんな時、雪は本当に美しく見える。彼女は凛と見える上質なパンツスーツに、シンプルな本物の真珠のネックレスをしていた。美しい肌は上気して薄桃色に輝いている。長い黒髪は、サロンの照明を反射して、つややかだ。
彼女は真歩の姿を目にとめると、手をあげて満面の笑みを見せた。
「ありがとう、来てくれて。」雪は真歩の手を取り感謝を表した。
「おめでとう。」真歩は手に持っていた華やかなブーケを手渡した。
「もう、手ぶらできてって言ったのに。でもありがとう、うれしいわ。」雪はその香りを楽しむように、花に顔を近づけた。
真歩は咲子を紹介し、忙しそうな雪を気遣って「またね。」といってサロンへと入った。
広尾のサロンよりもずっと広かった。他のサロン同様、インテリアを白で統一し、清潔感を出している。左右に並ぶネイル用の座席、そして奥には個室がもうけてあるようだ。
美しく着飾った女性達が、サロンを品定めしているように感じた。しかしながら、おおむね好評のようだ。みな、一様に軽く興奮している。きっとこのサロンも繁盛するだろう。
真歩と咲子の二人は、そのままレストランの方へと移動した。
レストランは吹き抜けの二階建てで、両フロアともこのパーティのために貸し切っているようだ。バーカウンターで甘めのカクテルをもらう。立食パーティなので、奥のテーブルには、おいしそうな匂いのスペイン料理が大皿に盛られていた。
二人は一階と二階両方をカクテル片手に見て回り、結局一階の入り口付近のコーナーに立つことにした。
次々と入ってくる客を見やる。二十代後半から四十代の女性達が、上品な身のこなしで歩いている。みな、上客なんだろう。真歩はそう思った。
その中に、ひときわ目を引く女性がいた。壁際に並べられた椅子の一つに、足をくんで腰掛け、赤ワインを飲んでいる。年は若くは見えるがおそらく四十代なかば、豊かな髪をゆるくカールさせ、大胆なスリットの入った黒いスカートをはいている。そこから見える長く細い足は、いやに官能的だった。
彼女がグラスに唇をつけるという、ただそれだけの仕草が、あまりにも意味ありげに見える。
「こんな女性もいるんだ。」真歩は自分との差にすこしがっかりした。咲子も小声で「すごいね、あのひと。」と耳打ちした。みんな、見るところは一緒なのだ。
そこにパーティの主催者が入ってきた。雪はその女性とはまた違った美しさを放っている。むしろ中世的とも言えるかもしれない。真歩は雪の存在に、誰よりも憧れている、そう自覚していた。
雪が一階フロアの中央に立って、丁寧な挨拶をし、パーティがスタートした。
真歩と咲子は忙しそうな雪には話しかけず、飲んで食べることに専念した。他に知っている人もいなかったし、やっぱり、なんとなく場違いなところにいるような気にもなっていたからだ。
料理はすばらしかった。通常営業の時にも来てみたい、真歩と咲子はそう言い合った。
咲子は幼い顔をしている。真歩と同年齢にも関わらず、まるで中学生のよう。ただ、彼女が笑うと、周りにいる人も思わず笑みになる、そんな女性だった。こんな人を求める男性もきっとたくさんいるだろう。真歩は咲子のその雰囲気が大好きだった。
おいしい料理を口にしながら、二人でくだらない話をしていると、真歩の目の端に、先ほどの女性と雪が話しているのが映った。相変わらず女性はワインを飲んでおり、組んだ足もそのままだ。雪はその女性の横に腰を屈めて座り、にこやかにはなしている。雪の様子をみていると、その女性もかなりの上客なのだろうと推測した。
するとその女性が優雅に立ち上がり、「もう失礼するわ。」というような身振りをした。雪も深々と頭を下げる。そして、その女性は真歩たちの側を通り過ぎ、玄関から出て行った。彼女の甘い香りが、真歩たちを包んだ。
真歩はその女性をウィンドウ越しに目で追う。
そこに、利明が立っていた。
帽子と眼鏡はかけていたが、見間違うはずがない。川の欄干に持たれている。しかし女性がでていくと親しげに近寄っていった。
女性は「待たせた」という素振りも見せず、利明に近づいて、挨拶代わりか、彼の頬にそのきれいに整えられた指先で触れる。利明も微笑むと彼女の髪を優しくかきあげ、そのまま彼女の耳をなぞった。
真歩は完全に停止していた。
その情景が語ることは、明確だ。
二人は親しい関係なのだ。
手が、足が、心臓が震えている。
二人が連れ立って歩き出す。真歩の視界から消えてしまう直前、利明と目があったような気がした。
咲子もその光景を目撃し、興奮したように真歩に耳打ちする。
「あれ、俳優じゃなかった?間違いないよね。」
「そうよ。あの女性は芸能事務所の社長さんなの。」突然後ろから声がして、びっくりして振り返る。
雪がいつのまにか背後に立っていた。顔には変わらぬ笑みをたたえている。
「あの俳優の方は、時々広尾のサロンのところにも、彼女を迎えにきているわ。なんだか、社長とタレントっていうだけじゃないように見えるわよね。」雪が言った。
咲子がそれを聞いて、さらに興奮している。雪はそのまま「じゃあ、まだまだ楽しんでいってね。」と言って、その場を立ち去った。
咲子がしきりに真歩に話しかける。
でもその半分も彼女の耳に入っていなかった。
雪はだから真歩をこのパーティに呼んだのだ。
釘をさすために。
本当に効果的だった。
口で何度も忠告するよりも、よっぽど大きな一撃だった。