(十)
十
気持ちが浮き立つのを押さえることができなかった。
なんてことはない。食事をするだけ。
それなのに、こんな風に自分が取り乱しているのが、滑稽に思えた。今すぐにでも直之に電話をして「今からいく」と言えたらいいのにと思う。
渋谷駅前のデパートのトイレで、真歩は念入りに化粧を直した。ハイライトを入れ、アイラインを強めに引いた。自然に見えるようにほお紅の入れ方には注意した。
鏡の中の自分を見つめる。
念入りに化粧をしたって、自分は自分で変わりない。
凡庸な顔立ち。
直之はこんな自分を愛してくれている。
真歩が一番きれいだと言ってくれる。
雪が言っていたように、直之が抱いてくれれば解決する事柄なのかもしれない。
「もし」真歩は考える。
「もし、利明に抱かれたら?」
そう考えて、真歩はカッと頬が熱くなった。なんて大それて身の程知らずの考え。
真歩は手早く化粧道具を鞄にしまうと、鏡の前から逃げるように、トイレから出た。
帰宅する人々を横目で見ながら、真歩は両手で身体を抱きしめて、夜にかけて強くなってきた風に体温を奪われないよう、身を縮めた。春用のカーディガン一枚ではいけなかったと後悔する。
渋谷のブックファーストにたどり着いた。ここの一階で待ち合わせをしているのだ。寒さから逃れられると、少し小走りに建物に入る。そこは人でいっぱいだった。
「こんなところで待ち合わせなんて、大丈夫なんだろうか?」前回利明に訊ねたとき、「東京は大丈夫」と言っていたけれど、本当に?真歩は不安になった。
女性ファッション誌を手にとり、眺める。でも、彼女の頭には内容がまったくはいってこない。すぐに頭を上げて、周りを見回してしまう。真歩は完全に浮き足立っていた。
するとハンドバッグから携帯が鳴っている振動が響いてきた。慌てて取り出す。
直之からの電話だった。
「どうしよう」真歩は躊躇した。やましいことをしているわけではない。幼なじみと会って食事をするだけ。それでも彼女は直之に正直に話すことができなかった。
しばらく迷って、通話を押す。真歩はまだ利明が来ていないかどうか、周りを見回した。
「もしもし?」明るい直之の声がする。
「うん、どうしたの?」真歩はなるべく平静を心がけて対応する。
「今日さ、早く仕事が終わったんだ。今から会えないかな?」
「・・・」真歩は言葉を失った。神様が間違いを犯さぬよう、配慮してくれているかのようだ。
「どうした?予定あるの?」黙りこくる真歩に直之が聞いてきた。
「・・・うん。あるにはあるけど・・・」真歩は言葉を濁す。
どうする?どうしたらいい?
「予定があるのか・・・そうか・・・突然だしね。」直之が残念そうな声をだした。
とたんに真歩は堪え難い罪悪感に苛まれる。
慌てて「都合をつけるわ」と言いそうになって、ふと視界の隅に利明の姿を捉えた。
彼は雑誌を開き、立ち読んでいるふりをしながら、こちらに顔を向けて、にこりと笑った。
先日かぶっていたのと同じ帽子。めがね。カジュアルなジャケットの下は、清潔そうな白いシャツ。細身のジーンズでより一層スタイルをよく見せていた。右手には大きなアナログ時計。ブルーの文字盤が印象的だ。
真歩のすべてが彼にもっていかれる、そんな気がした。直之の声がなにも残さず頭を通り抜ける。「ごめん、また連絡するね。」そういって彼女は電話を切った。
電話が終わると、利明は雑誌を棚に戻し、こちらに近づいてきた。誰も彼の存在に気づいていない。なぜ?こんなにも惹き付けられるのに。真歩は自分がどんなに呆然とした表情をしているか、想像して恥ずかしくなった。
「電話大丈夫?」利明が声をかける。
「うん、もう終わったから。」真歩が答えた。
そして二人で並んでブックファーストをあとにした。
外の空気の冷たさは、身体の先から徐々に内部を浸食する。利明は「こっちだよ」と住宅街の方を指差した。松濤方面へ二人で足早に進む。
「予約はしてあるから。」利明は真歩を気遣いながら、道案内するかのように、少し先を歩く。
そこは住宅街の真ん中で、ひっそりとしていた。誰もそこがお店だとは気づかないように思う。しっとりとした日本家屋。門をくぐると初めて、そこがイタリアンのお店だということがわかった。
お店に入ると利明は予約名を告げ、二人は奥座敷に通された。そこは床の間の間接照明と、テーブルの上のろうそく、そして窓から見える中庭の灯籠のみの明かりしかなかった。
「何を飲む?ワインとか飲める?」利明が畳に座るやいなや真歩に訊ねる。
「えっと、甘めのものなら・・・」真歩はアルコールを飲んではいけないのではないかという最後の自制心を無視してしまった。
「じゃあ、そうしよう。」利明は襖のところでずっと待機していた店員に伝えると、「それからいつもの。」と言った。
「よくここにはくるの?」真歩は訊ねた。
「そうだね。ここはプライバシーにも配慮してくれるし、味もいい。何より、畳でイタリアンなんて面白いから。」そして彼は笑った。
利明は帽子をぬぎ、右手で髪を整えた。眼鏡をとってテーブルにぞんざいにおく。ろうそくの揺らぎで、彼の顔もいろいろな表情を見せた。
優しげだと思えば、恐ろしいとも感じる。
微笑んでいても、悲しんでいるように見える。
とにかく、これほど美しい人は見たことがなかった。
それから二人はたわいもないことをしゃべりあった。
天気の話から始まって、最近見た映画の話、仕事の話、それから学生時代の話。
食事が始まると、お酒の力もあってか、話がはずんだ。
真歩は最初は重ならなかった昔の記憶が、時間が経つにつれ徐々にシンクロし、目の前にいる男性が隣に住んでいた利明であることを納得し始めていた。
髪をかきあげる仕草。箸を口に運ぶときの様子。笑ったときに見せる目尻。どれも見覚えのあるものだった。
食事もそろそろ終盤に差し掛かるころ、利明がジャケットのポケットからタバコを取り出した。
「吸ってもいい?窓開けるから。」
「もちろん。でも知らなかった、吸うんだ。」
「ああ、食後なんかは欲しくなるよ。でも秘密にしといて。」利明がいたずらっ子のような表情を浮かべる。
「事務所の方針で、ぼくは吸わないイメージでいきたいらしいんだ。」
彼は窓を細く開け、タバコに火をつけた。
直之はタバコを吸わない。
タバコの苦く甘い香りと夜の冷たさが混じり合って、真歩はたまらなく刺激された。
「変わらないように見えて、」利明がタバコを持ったまま、真歩を見つめる。
「そうじゃない。ぼくたちは大人になった。」利明がゆっくりと言う。
「真歩はもうすぐ結婚する。ぼくの隣に座って、お菓子をほおばっていた小さな女の子とは違うんだな。」
利明は手をのばすと、テーブルの上に置かれていた彼女の左手の薬指に光るリングを、中指でそっとなぞった。
真歩は全身がしびれた。
利明が彼女を見続ける。真歩はいたたまれなくなって、手を引っ込めようとしたが、指先をぎゅっとつかまれた。
「おぼえてる?」利明の声がいつもより低く感じる。
真歩の心臓が一つ大きくはねた。
「何を?」やっとのことで答える。
彼は笑みを崩さない。
「真歩の家の押し入れ。とても蒸し暑かった。」利明がタバコの煙を吐き出す。
「身体から心臓がでてしまいそうだった。でもどうしたらいいかわからなかった。ぼくたちがとても幼かったから。」
真歩は言葉を発することができない。
「でも今なら・・・」利明が指で真歩のリングを支える。
「あの先に何があるのか、わかってる。」利明はそういうと、彼女の指をなぞるように離した。
真歩はこの鼓動が利明に聞こえてしまうのではないかと思った。頭はしびれ、正常な判断はアルコールのせいで全くできなくなっている。
息ができない。そう思った。
利明はそんな真歩の様子を見ると、まじめな顔になり「結婚祝いは何がいい?」と訊ねた。
「考えたんだけどね、特にリクエストがないならば、掛け時計なんかどうかな。新居のリビングに飾ってもらうんだ。そろいの食器やなんかは、きっとたくさんもらうから。」
「・・・はい、じゃあ、それで、お願いします。」真歩はやっとのことで答える。声はうわずっていた。
利明はまた微笑むと「ワイン少し残ってるよ。もうデザートだから、飲んじゃえば?」といって勧めた。
「大丈夫だよ、酔っても。車を呼ぶから。家まで送らせるよ。」
タクシーの扉がしまると、利明は軽く手をあげた。口が「また連絡するよ」と言っているように見える。真歩が窓からそれを確認するやいなや、タクシーは自宅の方へと出発した。
高速道路をまっすぐに走る。美しい都会の夜景はあっという間に消え、東京郊外へといくにつれ、夜の暗さが増してくる。
真歩はまだ芯が震えていた。身体の中心がうずいている。利明が真歩のリングを指でなぞったときの光景が、何度もリプレイされる。「覚えている?」と訊ねたあの唇。微笑み。タバコの香り。
口当たりの柔らかいあのワインのせいだけではない。真歩は身体が熱かった。
「唇を重ねたらきっとタバコとワインの香りがするだろう。」
そう考えて、真歩はさらにどうしようもなくなってきた。
真歩は衝動的にタクシーのドライバーに行き先の変更を告げた。
直之のアパートにつくと、部屋の窓からの明かりを確認した。真歩は小走りで外階段を上がり、預かっている合鍵で扉を開けた。
部屋の中には、くつろいだ格好の直之がいた。ベッドの上で雑誌を読んでいる。直之は突然入ってきた真歩にびっくりして飛び起きた。
「どうしたの?」直之が立ち上がってこちらに来る。
真歩は靴を脱ぎ捨てると、直之にしがみついた。
「どうした?」再び直之が訊ねる。
「抱いて。今すぐ。」真歩は直之の胸に顔を埋め、言う。
真歩は電気を消すと、二人でベッドに倒れ込んだ。
「顔が見えないよ。」直之が言う。
「だめ。電気はつけないで。」真歩が言う。
そして激しく唇をあわせた。
「彼」がわたしを抱く。
その長い指でわたしの身体をなぞる。うずくような感覚が全身に広がって、わたしは思わず声がでる。「彼」のその唇が敏感な箇所を探し当てる。じらすように、そして執拗に攻め立てる。わたしは大きな快感に唇を噛み締めた。
「入れて。早く。」真歩は吐息のような声で懇願した。
「彼」がわたしに入る。熱くて、そこから溶けてしまいそうだ。もっと、深く。もっと、激しく。身体全部で「彼」を感じる。
内から溢れ出る例えようもない激しい感覚で、真歩はあっというまに絶頂に達した。
荒い息使いのまま、真歩はシーツに顔をうめた。直之が彼女を背後から抱き寄せ、身体をぴったりとくっつける。互いの汗が密着度を高めた。
カーテン越しにも、夜の冷気が感じられる。
窓の外は痛いほどの静けさ。
風はやんだようだ。
「シーツから洗剤のいい香りがする。」真歩は頬をシーツにつけたまま言った。
「真歩がもしかしたらくるかもしれないと思って、きれいなのに取り替えたんだ。」直之が穏やかに答え、彼女の耳に愛しげにキスをした。
そして真歩は静かに泣き出した。