(一)
(一)
携帯がスプリングコートのポケットのなかで震えた。この雑踏のなかでは着信音は無意味だ。真歩はポケットからシルバーの携帯を取り出すと、耳にあてた。
「今ついたよ。どこにいる?」直之の穏やかな声が聞こえてきた。
「デパートのエントランス。すごい人よ。わたしが見えるかな?」真歩は大きな声で返答した。
しばらく携帯で話ながら、真歩は人ごみのなかに彼の姿を探した。会社帰りの彼はスーツを着ているはず。きっと、髪が少し乱れてるだろう。この時間に待ち合わせるとなると、かなりのスピードで会社を出たはずだ。もしかしたら息もあがっているかもしれない。真歩は彼の姿を想像すると、口元に笑みが浮かんだ。
案の定、乱れた髪の直之が雑踏の中から姿を現した。春が来たとはいえ、夜はまだ肌寒い。にも関わらず、彼の額には汗が滲んでいた。どれだけ必死に、ここまで駆けてきたのか。
二人は笑い合いながら手をとり、デパートの中へと入っていった。直之のスーツからは汗と埃の匂い。まめとは言えない性格のため、彼はスーツをクリーニングに出すこともまれだった。真歩は直之の袖に顔をつけると、深く息を吸う。不思議と落ち着く自分がいる。
「おつかれさま。こんなに早く会社を出て、何か言われなかった?」真歩は直之を見上げ訊ねた。
「言われたよ。」直之が笑う。
「めちゃくちゃからかわれた。」困ったような顔を見せた。
「どうして早く帰るか話したの?」真歩はびっくりして声をあげた。
「そりゃ、まあ、理由を言わなくちゃ帰れないだろ。」
それから二人はくすくすと笑い合った。
二階のジュエリー売り場。
いつもは素通りしてしまう、真歩とは縁のないところだ。真歩はぴかぴかに磨かれたショーケースを眺め、不思議な気持ちになった。
「今日はこの中からひとつ選ぶんだわ。」それはとても特別なことだった。
売り場をぐるりと一周してから、真歩は直之を一つのガラスケースへと引っ張っていった。その中には数種類のリングが美しく並べられている。
「これ、どうかな?」真歩はその中央に据えられたリングを指差した。シンプルな大小のプラチナリング。中央には小さな石がはめ込まれている。シンプルではあるけれど、他のリングとはそのたたずまいが異なった。とても上品な感じがしたのだ。
「いいよ、はめてみる?」直之も特に不満はないようだ。
店員は尊いものを差し出すかのように、リングを二人に手渡した。直之が真歩の薬指にリングをはめる。まるでリハーサルのようだ。
「きれいだわ。」真歩は自分の薬指にぴったりとはまったリングを、うっとりと見つめる。
これは永遠を誓うリング。
「リングの内側には、ご結婚される日付とお名前を彫らせていただきます。」店員がすかさず付け加える。
真歩の気持ちはすでに決まっていた。薬指のリングをなでながら、直之の顔を見上げる。彼は「いいよ。」とあっさり同意した。
そして二人は結婚前に行わなければならない重要な仕事を一つ終えた。
あまりにもあっさりと決まってしまったので、二人は時間を持て余した。食事をするにも少し早いような気がする。
「どうする?もうごはんたべる?」真歩は訊ねた。
「そうだなあ。真歩、おなかへった?」直之が聞き返す。
「減ってはいないけど・・・直之のおうちの近くで食べようか?」
「せっかく銀座にいるのに?真歩の退職祝いをしようよ。」
「いいわよ、退職祝いなんて。節約もかねて、銀座はやめない?このあたりで食べると高いでしょ。」真歩はすでに妻のように振る舞った。
「わかった、いいよ。家計のことは真歩にお任せするから。」直之はくすぐったいような顔をする。
二人は人々が溢れる銀座の夜を背に、地下鉄に向かった。
銀座から地下鉄で一時間弱。
二人は駅前の小さなイタリアンレストランで食事をとり、直之の家へと向かった。
夜風は冷たいが、もう緑の香りがする。
「そろそろ桜が咲くね。」真歩はピンク色に膨らむ、街路樹のつぼみを見上げた。
夜空は雲一つない。
郊外とは言っても東京。
満天とはいかなかったが、濃紺の空にぽつぽつと輝く星が見えた。
直之のアパートの階段をあがる。
部屋は一般的なワンルームで、独身男性が住むにはちょうど良かった。
六畳一間。フローリング。
狭いながらも心地よい空間が作られている。
シングルベッドとテレビ、そして音楽好きな直之らしい、オーディオセット。
南向きの窓には生成りのカーテンがかかっている。
直之はキッチンでコーヒーを入れる。
インスタントでもよい香り。
真歩はベッドの上に座り、彼が慣れた手つきでコーヒーを入れるのをみた。
直之とは大学のサークルが一緒だった。
彼は穏やかな物言い、優しい物腰で、サークルの中でも一目置かれる存在だった。決して目立つ訳ではなかったが、いつのまにか物事の中心にいて、なんとなくリーダーになっているような人。
真歩はこれまでつきあった男性のように、男らしさを強調する様な強引な態度をとらない直之に、なんとなく引かれるようになった。
少しウェーブがかった髪。
優しげな表情。
何より直之から溢れるあたたかな空気に、彼女は心奪われたのだった。
幸い、直之のほうも真歩に興味をもったようだった。彼女自身は、自分のどこを気に入って側にいてくれるのか、わからなかったのだが。
真歩は大学時代から普通だった。容姿も、性格も、成績も、なにもかも。これは決して彼女の自己評価が低いということではなかった。平均的なのだ。ただ彼女自身は気づいていなかったが、両親から大切に愛をもって育てられたが故に、彼女の表情や動作には、特別な優雅さがあった。
社会人になり、二人は別々の会社に就職した。
直之は電子機器メーカーに。
真歩は銀行の窓口に。
社会人になると別れてしまうカップルがたくさんいる中、二人の交際は順調に続いた。
そしてついに、直之は真歩に勇気をもって結婚を申し込んだのだ。
「一生側にいてくれるかな?」
その日の直之は、ずっとそわそわして落ち着きがなかった。
レンタカーで箱根までドライブに出たはいいが、観光するわけでもなく、うろうろと車で走り回った。今思えば、プロポーズに最適なシチュエーションを探していたのだろう。結局、行く先々でたくさんの修学旅行生に出会ってしまったため、真歩を家まで送り届けるまで何も言えなかった。ようやく指輪を渡したときの直之のあの顔を思い出すと、真歩はいつもこそばゆい気持ちになる。
コーヒーカップを両手にもち、直之がやってきた。
真歩のカップには、たっぷりの砂糖とミルクがすでに入れてある。
長い付き合い。真歩の好みはわかっている。
ベッドに並んで座る。
コーヒーを一口のんで、二人ともテーブルにカップをおいた。
出会った頃のように若くはない。
二人とももう三十歳。
自分達がこれからどんな人生を歩んでいくのか、なんとなく見えてきた。
そしてこれからの人生に、お互いがどのくらい必要なのかもわかってる。
直之は真歩の長くつややかな髪を撫でる。
大学時代からほとんど髪の長さはかえていない。
真歩の自慢の一つでもあった。
直之は真歩に優しく口づける。
「コーヒーが甘すぎる。」直之が言った。
「直之のは苦すぎるわ。」真歩が答える。
そしていつもの通りの愛の行為が始まる。
せまいベッドの上で愛し合った後、真歩は時計を気にした。
「帰るの?」直之が眠そうな声を出す。
「うん。あの家に帰るのも後少しだし。終電で帰るわ。」
「じゃあ、駅まで送ってくよ。」
こんな風に家に帰らなくてはならないとき、大学時代からずっと変わらず、真歩は離れる寂しさを感じる。時に涙することもあった。でもそれも終わり。真歩はこれからの生活を考えると、この寂しさもとても貴重なもののように感じた。
駅までの道のり、二人は手を絡めて歩く。時折互いの顔を見て、たまらず笑顔がこぼれる。
今が一番幸せなとき。
それは間違いなかった。