表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サン外典 陽だまりの檻  作者: Chroe


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/4

第四話 陽だまりの檻


サンという名は、最初、一冊の紙束の表紙にだけあった。


退院後の所在。

薬の継続。

夜間の確認。

就労の可否。

宿所の見回り。

発作時の連絡先。

本人の希望。


そして、本人の希望を保留すべき場合。


はじめ、それは単なる記録だった。

誰がどこへ帰ったのか。

誰が夜に眠れていないのか。

誰が仕事に戻り、誰が戻ったふりをしているのか。

誰が大丈夫だと言い、誰の大丈夫を信じてはいけないのか。


セフィアは書いた。

毎日、書いた。


朝に患者の熱を測り、昼に薬包を数え、夕方に退院者の宿所を巡った。

夜には、帰ってくる足音を待った。

待っても来ない者には、翌朝こちらから行った。

大丈夫だと笑う者には、その笑いの先にある指の震えを見た。

眠れましたと言う者には、布団の皺と、窓辺に置かれた靴の向きを見た。


サンの紙束は、一冊では足りなくなった。

次の紙束が作られ、その次も作られた。


やがて、施療院の奥に、小さな部屋が与えられた。


部屋の中には寝台が二つと、椅子が四つと、低い机。

窓は南に向いていて、昼になると、床の上に四角く陽が落ちる。


セフィアはそこに、退院した者を招いた。

まだ帰れない者。

帰ったはずなのに夜だけ戻ってくる者。

家にいると息が詰まる者。

外へ出たいと言いながら、門の前で足が止まる者。


病室ではなく、しかし待合室でもなく、

施療室でも、祈りの間でもない。


いつしかそこは「サンの部屋」と、そう呼ばれるようになった。


サンの部屋へ行けば、少し眠れる。

サンの部屋へ行けば、怒鳴られない。

サンの部屋へ行けば、大丈夫かと聞かれる前に、水が出る。

サンの部屋へ行けば、帰れと言われない。


その噂は、施療院の外にも広がっていった。


はじめは退院した兵が来た。

次に、兵の家族が来た。

その次に、戦に出ていない者たちが来た。


夫を失った女。

子を失った男。

家を失った老人。

職を失った若者。

人と関わることに怯えている者。


施療院の者たちは戸惑った。


ここは施療院である。

傷を縫い、熱を下げ、折れた骨を添え木で支える場所である。

涙の受け皿になる場所ではない。

眠れない夜を数える場所ではない。

帰りたいという言葉の奥を見る場所ではない。


そう言う者もいた。

セフィアはうなずいた。


「その通りです」


そう答えた。


「だから、変えます」


その頃には、彼女はもう、院長と呼ばれるようになっていた。


前の院長は老いていた。

増え続ける負傷者と民間の受け入れに追われ、古い規定を守るだけでは回らないことを誰より痛感していたのだろう。

戦後の混迷の中で施療院を維持していくために必要なのは抜本的な改革だと、彼は考えた。

そこで患者や退院者から圧倒的な支持を受けるセフィアに白羽の矢が立ったのだ。


彼は最後に、セフィアへ鍵束を渡した。


薬棚の鍵。

記録庫の鍵。

裏門の鍵。

そして、院長室の鍵。


「君のやっていることは、施療ではないかもしれない」


前の院長は言った。


「ですが、必要なことです」


それは承認ではなく、許可でもなかった。

ただ、役目を負うことに疲れた老人が、目の前にある現実をセフィアへ託しただけだった。


セフィアは鍵を受け取った。


重い。


鍵とは、開けるためのものだと思っていた。

けれどその日、彼女は初めて理解した。

鍵は、閉じるためにもある。


ある夏の終わり。一人の獣人の女が運び込まれてきた。


雨は降っておらず、むしろ、空はよく晴れていた。

それなのに女の髪は、濡れたように頬へ張りついていた。

額には汗が浮いていた。

唇は乾き、指先は冷えていた。

身体に大きな傷はない。

熱も高くはない。

血も流れていない。

だから、運んできた者は困った顔をしていた。


「突然倒れたんです」


それが説明のすべてだった。

女は寝台に横たえられてすぐ、身を起こそうとした。


「帰ります」


掠れた声だった。


「横になってください」


救護係が制したが、女は首を横に振る。


「帰ります。娘がいるんです」


セフィアは、その声を聞いて足を止めた。

女は目の焦点が合っていなかった。

それでも、帰るという言葉だけは、真っ直ぐだった。


「名前を」


救護係が尋ねる。

女は名を答えた。

けれど、その名は自分自身を示すためではなく、早く手続きから逃れるために差し出したもののように聞こえた。


「帰ります」


女はもう一度言った。


「娘が待っているんです」

「あなたは倒れました」

「少し疲れただけです」

「食事は」

「食べました」

「いつ」


女は黙った。


「眠りましたか」

「眠りました」

「いつ」


女はまた黙った。

沈黙の中で、彼女の手だけが動いている。

膝の上で、何かを整えるように指が動く。

布を畳む仕草。髪を結う仕草。小さな襟を直す仕草。


ここにいない子どもが、そこにはいた。


「娘さんのところへ帰りたいのですね」


セフィアは言った。

女は、初めてセフィアを見た。


「はい」


その返事は速かった。

速すぎるほどに。


「帰らなければ」


セフィアは、その言葉を聞いた。

帰りたい、ではなかった。

帰らなければ。


「旦那様を亡くされたと聞きました」


女の顔から、色が引く。


「その話は」

「しなくてかまいません」


セフィアは静かに言った。


「でも、そのあとも、あなたは暮らしてきた」


女は唇を噛む。


「当たり前です」

「当たり前」

「母親ですから」


その言葉が、部屋の中に落ちた。


母親ですから。


それは誇りのようでもあり、鎖のようでもあった。


「起きなければいけません。火を入れなければいけません。水を汲まなければいけません。あの子の髪を結わなければいけません。食べさせなければいけません。夜に泣いたら、抱かなければいけません」


女の声が次第に速くなっていく。


「夫がいないから。もう、あの人はいないから。私が立たなければ。私が笑わなければ。私が、あの子の前で」


そこで声が途切れる。

息を吸おうとしても、うまく吸えないようだった。


女は胸元を押さえた。

指が白くなる。


「帰ります」


彼女は言った。


「帰らないと、あの子が」


セフィアは、寝台のそばに椅子を置き、そして座った。


「あなたの“帰らなければ”は、あなたの声ではありません」


女は目を見開いた。


「何を」

「母であろうとする声です」


セフィアは言った。


「失った人の分まで立とうとする声です。倒れたら終わりだと、あなたを脅している声です」

「違います」

「違わない」


女の顔に怒りが走った。


「あなたに何が分かるんですか」


セフィアは答えなかった。

机の下。

割れる器。

怒鳴り声。

夜明け前の寝台。

井戸のそばの血。

最期にサン、と名乗った声。


それらは、セフィアの心の深くにずっと残っていた。


「分かるとは言いません」


セフィアは言った。


「ですが、見ます」


女は理解できないという顔をした。


「あなたの熱を。眠りを。手の震えを。帰ると言う時の呼吸を。娘さんの名を呼ぶ時に、あなたの目がどこを見ているのかを」

「帰してください」

「今は、帰しません」


その場にいた救護係が顔を上げた。


女も、息を止めた。


「娘がいます」

「知っています」

「私は母親です」

「はい、それもよく知っています」


「なら」


「だからです」


セフィアは、女の手を取らなかった。

取れば、女はその手を振り払うだろうと思った。

あるいは、握り返してしまうだろうと思った。


どちらも、今は違う。


「あなたの希望を、保留します」


刹那、部屋の空気が変わった。


それは規定にはない言葉。

処置名でも、病名でも、薬の名でもなかった。

けれど、セフィアはすでにその言葉を何度も書いていた。


本人の希望を保留すべき場合。


紙の上の一行が、初めて人の前に置かれた。


「希望を」


女は笑おうとして失敗した。


「私の希望は、帰ることです」

「今のあなたは、帰りたいのではありません」

「違います」

「帰らなければならないと思っている」

「同じです」

「同じではありません」


セフィアの声は、穏やかだった。

穏やかすぎた。


「帰りたいという言葉は、あなたの足です。ですが、帰らなければという言葉は、あなたを打つ鞭になる」


女はセフィアを睨んだ。


「綺麗な言葉で、人から子どもを奪うんですね」


救護係が息を呑む。

しかしセフィアは、その言葉を避けなかった。


「奪いません」

「なら帰してください」

「今は、預かります」

「何を」

「あなたを」


女の目に、涙が滲む。


怒りの涙だった。

恐怖の涙だった。

眠れない夜の奥に溜まっていた、名前のない水だった。


「私は、母親です」

「はい」

「母親が、休んでいるわけには」

「休んでいい」


セフィアは言った。


女は、言葉を失った。


「休んでいいんです」


セフィアはもう一度言った。


「母親でも、眠っていい。食べていい。泣いていい。立てない日があっていい。誰かのために戻る前に、あなたがここに戻ってきていい」


女の唇が震えた。


「そんなことをしたら」

「何が起きますか」

「あの子が」


女はその先を言えなかった。


あの子が、どうなるのか。

泣くのか。

怒るのか。

見捨てられたと思うのか。

自分を忘れるのか。


あるいは。


自分がいなくても、一日を越してしまうのか。


セフィアはその沈黙を聞いた。


かつて自分も、似た沈黙を抱えていた。

彼が外で一日を越したと知った時、胸の中に灯った温かさと、そのすぐ後に追いついてきた寂しさ。

救われることと、置いていかれることは、時に同じ形をしている。


「今日は眠ってください」


セフィアは言った。


「眠れません」

「眠らなくてもいい」


女は顔を上げた。

その言葉だけが、彼女の中のどこかに届いたようだった。


「眠らなくてもいい。目を閉じなくてもいい。横になっているだけでいい。ここにいるあいだは、何もしなくていい」


セフィアは、自分の声が遠くから聞こえるのを感じた。


いつか、自分に向けられた言葉。

いつか、彼に向けた言葉。

そして今、目の前の女に向けている言葉。


「ここにいるあいだは」


女は小さく繰り返した。


「はい」

「ここにいるあいだは、母親でなくてもいいんですか」


セフィアは少しだけ迷った。

そして言った。


「母親であることを、休んでもいい」


その瞬間、女の顔が歪んだ。

泣くのをこらえる顔ではない。

泣き方を忘れた者が、泣くことを思い出した顔だった。


「帰らなければ」


まだ、その言葉は出た。

けれど、さっきよりも弱かった。


「はい」


セフィアは言った。


「その言葉は、こちらで預かります」


女は抵抗した。

一日目、彼女は寝台から降りようとした。

二日目、彼女は食事に手をつけなかった。

三日目、彼女は娘の名を何度も呼んだ。


セフィアはそのたび、記録した。


食事、三口。

水、半杯。

睡眠、なし。

夜間、娘の名を七度。

帰宅希望、強い。

手指振戦、継続。

呼吸浅い。

泣けず。


四日目、女は突然怒った。


「あなたは、私を分かったつもりでいる」


セフィアは頷いた。


「そうかもしれません」

「私の家を知らない。あの人の死に方も知らない。私がどれだけ、あの子の前で笑ってきたか知らない」

「はい」

「なのに、帰るなと言う」

「はい」

「ひどい人」

「はい」


セフィアは否定しなかった。


女はそれが気に入らなかったのか、布団を掴んで泣き始めた。

声は出なかった。

ただ、涙だけが落ちた。

長い時間だった。

セフィアはそばに座っていた。

女の手を握らなかった。

慰めなかった。

泣いていいとも言わなかった。

もう泣いていたからだ。


五日目、食事に手をつけるようになった。


六日目、眠った。


長い眠りだった。


昼を越えた。

夕方を越えた。

夜に一度目を開けたが、もう帰るとは言わなかった。

水を飲み、また眠った。


セフィアはその寝台のそばで、椅子に座っていた。

窓から入る月の光が、女の頬を薄く照らしていた。

昼の陽ではない。

冷たい光だった。

それでも、セフィアは目を逸らさなかった。


夜が来ても、この部屋は失われなかった。

誰かが眠るそばに、誰かがいる。

それだけで、夜は少し形を変える。


七日目の朝、女は目を覚ました。


長い眠りの後の顔だった。

まだ青白く、まだ痩せていた。

けれど、目の奥に絡まっていた糸が、ほんの少しほどけていた。


セフィアは水を差し出した。


女は受け取った。

両手で器を持ち、少しずつ飲んだ。


「帰らなければ」


そう言うだろうと、セフィアは思った。


しかし女は、器を膝の上に置き、長い間黙っていた。

そして、言った。


「あの子に、会いたい」


セフィアは、息を止めた。

帰らなければ、ではなかった。


会いたい。


その言葉は弱かった。

責任の声ではなかった。

罪悪感の声でもなかった。

自分を鞭打つ声でもなかった。


それは初めて、心の奥から出てきた声だった。


「会いたいですか」


セフィアは尋ねた。

女は頷いた。


「はい」


その頷きは、小さかった。

けれど、確かだった。


「でも」


女は続けた。


「今、帰ったら、また同じことになってしまうと思います」


セフィアは黙って聞いた。


「起きなければ。笑わなければ。泣いてはいけない。あの子の前で、ちゃんとしなければ」


女は自分の手を見た。


「そう思うと思います」

「はい」

「それが、怖いです」


怖い。


その言葉を聞いた時、セフィアの胸に何かが満ちた。


彼女はようやく、自分の恐怖を自分の言葉として置けた。

母親の言葉ではなく、妻の言葉でもなく、風下の者の言葉でもなく、役割の言葉でもない。


彼女自身の声だった。


「では、今はここにいましょう」


セフィアは言った。

女は目を閉じた。

拒まなかった。


「もちろん、会うことはできます」


セフィアは続けた。


「ただし、あなたが壊れたまま戻るためではなく、あなたがあなたのまま会えるように」


女の目から、また涙が落ちた。

今度は、静かな涙。


「私は」


女は言った。


「少し、休みたいです」


その言葉は、施療院の中で、何よりも重かった。


帰りたいでもなく。

帰らなければでもなく。

大丈夫でもなく。

申し訳ないでもなく。


休みたい。

セフィアは頷いた。


「はい」


そして、記録に書いた。


本人の希望、帰宅より休息へ変化。

娘との面会希望あり。

帰還延期。

サンの部屋での滞在継続。


筆が止まる。


帰還延期。


それは、正しい言葉だった。

少なくとも、その時のセフィアには。


帰さなかったから、壊れなかった。

眠らせたから、声が戻った。

希望を保留したから、本人の希望が現れた。


彼は、出ていった。

そして、失われた。

彼女は、留まった。

そして、戻ってきた。


その対比は、あまりにも明るい。

明るすぎて、影が見えなかった。


その日から、サンの部屋へ来る者は増加の一途を辿る。

女のことが噂になったのだ。

風下の街から来た女が、サンの部屋で眠った。

帰ると言い張っていた者が、休みたいと言えた。

倒れるまで母親であろうとした者が、ようやく自分の名で泣いた。


誰かが言う。


「サンは、帰れない者を追い出さない」


別の誰かが言う。


「サンは、本人より先に、その人の痛みに気づく」


また別の誰かが言う。


「サンに預ければ、壊れた希望を温め直してくれる」


言葉は、人から人へ移るたび、少しずつ形を変えた。


退院後支援は、帰還支援になった。

帰還支援は、滞在保護になった。

滞在保護は、陽だまりの教えになった。


けれど、それは最初から教えとして置かれていたわけではない。

はじめに変わったのは、札だった。


退院予定、と書かれていた寝台の札が、ある朝、外された。

代わりに、薄い黄色の小札が掛けられた。


帰還延期。


その札を見て、若い救護係が少し戸惑った。


「退院ではないのですか」


セフィアは、眠っている患者を見た。

昨夜まで、家へ戻ると言い張っていた男だった。

だが、家族の名を呼ぶたびに呼吸が乱れ、荷をまとめようとする手は震えていた。


「帰ろうとする声がまだ、本人のものではありません」


セフィアは言った。


「では、帰還延期ですか」

「はい」


若い救護係は頷き、札に小さく追記した。


帰還延期。

サンの部屋で経過を見る。


その言葉は、次の日には別の寝台でも使われた。


帰還延期。

面会は段階的に。


帰還延期。

本人の希望、再確認。


帰還延期。

夜間発作後につき、三日後に再判定。


はじめは、セフィアだけが書いていた。

やがて、他の救護係も書くようになった。


家族への返書にも、同じ言葉が入った。


すぐに帰すことはできません。

ただし、拒んでいるのではありません。

面会は段階的に行います。

まずは短い時間で、水を飲める距離から始めます。

帰るためではなく、会うために。


家族の中には怒る者もいた。

なぜ帰さないのか、と。

本人が帰ると言っているではないか、と。

サンは家族を疑うのか、と。


そのたびに、救護係は同じ説明をした。


「本人の希望を保留しています」


最初、その言葉はセフィアのものだった。

けれど、いつの間にか、他の者の口にも移っていた。


「今は、本人の希望を保留します」

「大丈夫という言葉を、そのまま判断には使いません」

「帰りたいと帰らなければは、分けて見ます」

「面会はできます。ただし、戻すためではなく、会うために」


声に出されるたび、その言葉は少しずつ硬くなった。


手順も増えた。


朝、薬棚を確認する前に、サンの部屋の窓を開ける係が決められた。

陽が床へ入るように、椅子の位置を直す。

眠っている者の足元に光が当たりすぎないよう、布を少し引く。

水差しを置く。

入口の机に、面会希望、帰還希望、休息希望の三つの紙を並べる。


はじめ、サンの部屋には寝台が二つと椅子が四つしかなかった。


しかし、すぐにそれでは足りなくなった。


椅子が二つ増えた。

次に、低い机がもう一つ置かれた。

家族が座る椅子と、本人が逃げずに座れる椅子は、向かい合わせには置かれず、少し斜めに置かれた。

目を合わせなくても、同じ部屋にいられるように。


面会時、扉は閉め切らない。

本人の背後に立たない。

家族を寝台の足元に立たせない。

泣いている者へ、すぐに謝罪を求めない。

帰りたいと言った場合、誰のもとへ、何をしに、いつまでに戻りたいのかを聞く。

答えられない場合は、帰還判断を急がない。


紙が増えた。札が増えた。椅子が増えた。

窓を開ける順番が決まった。


そうして、いつの間にか、サンは部屋だけではなくなっていった。


朝の手順になった。

記録の欄になった。

家族への返書になった。

若い救護係が、迷った時に口にする言葉になった。


「サンへ回します」


誰かがそう言えば、患者は別の寝台へ移された。

退院予定だった者の荷はほどかれた。

家族への使いは一日待たされた。

門前まで歩ける者でも、もう一度椅子に座らされた。


それは乱暴には見えなかった。


むしろ、丁寧だった。

ひとりで帰すより、二人で見る。

すぐに外へ出すより、陽の入る部屋で待つ。

本人の言葉を否定するのではなく、いったん預かる。


そうすることで実際に、眠れる者がいた。

食べられる者がいた。

泣ける者がいた。

帰らなければと繰り返していた者が、帰りたいのか分からないと言えるようになった。


それは間違いなく救いだった。

嘘ではなかった。

だからこそ、強かった。


施療院の規定も書き換えられた。


第一に、傷ついた者の希望は、ただちに本人のものとみなしてはならない。

第二に、本人の希望が傷によって歪められている場合、サンはこれを一時的に預かる。

第三に、帰還は目的ではなく、回復の後に検討されるものである。

第四に、陽だまりに留まることは逃避ではなく、回復である。

第五に、外へ出たいという願いが、傷の症状である場合を見落としてはならない。


最後の一文を書いた時、古い救護係が言った。


「院長」


セフィアは振り向いた。


「これは、施療院の規定でしょうか」


セフィアは紙面を見た。


そこには、治療の手順だけではないものが書かれていた。

熱を測るための言葉ではなかった。

骨をつなぐための言葉でもなかった。

薬包の数を数えるための言葉でもなかった。


人が自分の希望をどこまで信じてよいのか。

誰がその希望を預かるのか。

どこへ帰ることを許すのか。


それを決める言葉だった。


「規定だけでは、足りません」

「では、何ですか」

「祈りです」


その日から、施療院の朝は少し変わった。


薬棚の確認の前に、サンの部屋の窓を開ける。

陽が床に入るように、椅子を動かす。

眠っている者を起こさないように、足音を落とす。


そして、部屋の入口で小さく唱える。


帰りたいという声の奥を見ます。

大丈夫という笑みの下を見ます。

壊れた希望を、壊れたまま外へ出しません。

冷えた手を、陽だまりの中で温めます。


最初は、手順だった。

次に、習慣になった。

それから、祈りになった。


セフィアは、誰にもひざまずけとは言わなかった。

サンを信じろとも言わなかった。

外は悪だとも言わなかった。


ただ、こう言った。


「まだ出なくていい」


その言葉を聞いて、泣く者がいた。

眠る者がいた。

救われる者がいた。


そして、出られなくなる者もいた。

セフィアは、それをまだ区別できなかった。


いや。


区別しようとすれば、また誰かを失う気がしていたのだろう。


ある夜、セフィアは記録庫の奥にいた。


古い棚には、王国軍時代からの文献が残されている。

戦傷の処置。

毒の抜き方。

熱病の隔離。

骨を切る手順。

血を止める祈祷。

今では使われなくなった施術。


その奥に、さらに古い箱があった。


前の院長が、生前に一度だけ言ったことがある。


「開けない方がいいものもあります」


セフィアはその時、理由を尋ねなかった。

今なら分かる。


開けない方がいいものとは、役に立たないものではない。

役に立ちすぎるもののことだ。


箱の中には、古い文献が入っていた。


頁は乾き、端は黒ずみ、文字はところどころ消えかけている。

王国の文字ではないものも混じっていた。


灯を近づけると、そこに記されていたのは、白陽の秘儀と呼ばれる不老の禁術だった。


王のためのものではない。

美しさを保ちたい者のためでもない。

力を欲する者のためでもない。


表紙には、たった一言、こう書かれていた。


失うことを恐れる者のための手順。


セフィアは、長い間その一文を見ていた。


失うこと。


彼女は多くのものを思い出した。


机の下から見上げた暗い脚。

自分を救った女の手。

施療院の寝台。

朝の井戸。

煤の匂い。

血を含んだ布。

サン、と名乗った男の声。

帰らなければと繰り返した女の顔。

休みたい、と初めて自分のために言った声。


失うこと。


人は失われる。

名も失われる。

帰る場所も失われる。

救う者も、いつか老いる。

見守る者も、いつか眠ったまま起きなくなる。


そのあと、陽だまりはどうなるのか。


セフィアは文献をめくった。


血を薄めること。

眠りを浅くすること。

歳月の熱を、身体の奥で逃がすこと。

名をひとつ、陽の下へ置くこと。


失敗すれば、心が削れるとあった。

長い時の中で、痛みが古びなくなるとあった。

老いない身体は、別れを積み続ける器になるとあった。


それでも、セフィアの手は止まらなかった。


彼女は自分が永く生きたいのではないと思った。


そうではない。


陽だまりを消してはならないのだ。


救う者が先に消えれば、また誰かが寒い場所へ戻される。

見守る者が老いて倒れれば、また誰かが大丈夫だと言って外へ出ていく。

帰らなければと泣く者の声を、誰も測れなくなる。

休みたいと言えるまで待つ者がいなくなる。


ならば。

自分は、失われてはならない。


それは願いでも祈りでもなく、責任だった。


少なくとも、セフィアにはそう思えた。


儀式は、夜明け前に行われた。

大きな祭壇はなく、鐘も、歌も、群衆もなかった。


サンの部屋の床に、細い陽が届く前の時間。

眠る者たちの呼吸が、廊下の奥からかすかに聞こえていた。


セフィアは水で手を洗い、古い文献を開く。

そして机の上に置いた小さな器に、自分の血を一滴落とした。


赤い色が、水の中でほどける。

彼女は目を閉じた。


「サン」


その名を呼ぶと、井戸のそばの朝が戻ってきた。


君が、そうだったから。


あの声がした。


俺の名はそれでいい。


セフィアは唇を噛んだ。

もう、失わない。


あの名を、死亡欄の横にだけ置かない。

休みたいを、帰らなければに戻さない。

眠れる者を起こさない。

泣いている者を外へ押し出さない。

大丈夫という言葉を、そのまま信じない。


すべてを、陽だまりの中で温める。


帰りたいと泣く者も。

大丈夫だと笑う者も。

まだ自分の痛みを知らない者も。

外の明るさに壊される者も。

誰かを愛しているからこそ、自分を削る者も。

助けを呼ぶことを、愛の汚れだと思ってしまう者も。


セフィアは、文献に記された通り、名を陽の下へ置いた。


サン。


それはもう、ひとりの男だけの名ではなかった。

部屋の名。記録の名。祈りの名。救いの名。

そして、これから失われてはならないものの名だった。


窓の外で、夜がほどけはじめた。

細い光が、床の上をゆっくり伸びてくる。

まだ弱く、冷たい朝の光だった。


セフィアはその光の中に立った。


痛みはなかった。


ただ、身体の奥で、何かが静かに変わっていく感覚があった。

歳月の流れから、自分だけが半歩ずれていくような感覚。

水面に映る影が、岸に残されたまま、川だけが遠ざかっていくような感覚。


セフィアは目を開いた。

その眼差しは穏やかだった。


それは、眠る者を起こさないように歩く時の目。

あるいは、泣く者のそばに椅子を置く時の目。

あるいは、熱のある額に濡れ布を置く時の目。


優しく、静かで、揺るがなかった。

朝の光が、彼女の足元から部屋の隅まで満ちていく。

サンの部屋は、明るかった。

あまりにも、明るかった。


そうして陽は、その日から、沈むことを許されなくなった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。


セフィアが求めたものは、人を縛ることではありませんでした。

ただ、もう二度と、大切な誰かを失いたくなかった。

けれど、出口のない陽だまりは、やがて人を守る場所ではなく、人を留める檻になる。


この物語で描かれた出来事は、『勇者ではなく、測量士』本編へと続いていきます。

セフィアが何を守ろうとし、何を失ったのか。

本編で彼女とサンを見る時に、その背景の一つとして、この物語が残っていれば幸いです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ