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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

くろねこネバーランド

作者: 室外機
掲載日:2026/06/18

僕は猛烈なスピードで自転車を漕ぎ続けた。

今にも壊れそうな心を繋ぎ止めるには、ただ、どこまでもペダルを回し続けるしかなかった。

それはまるで、この世界そのものから逃走するかのような感覚。

漕げば漕ぐほど、周囲の景色から色が抜け落ち、僕だけが、この世界の外側へ、弾かれるようにはみ出していく。


それでも、こうすることで、とめどなく溢れ出す涙を向かい風が拭ってくれる。悲しみの泥に埋もれて窒息しそうな肺に、無理やり空気を送り込もうという気持ちが芽生える。

体のどこかを動かし続けていなければ、頭の中が狂ってしまいそうだった。


「走れ、走れ! 止まるんじゃないぞ……!」


涙で視界が歪む。その時、視界の端に何かが飛び出した。


あまりにも突然だった。


「あ――」


黒い影。猫だ。

反射的にハンドルを切った。猛烈なスピードに振り回されるように、僕の体は宙へと放り出された。

全身が激しくアスファルトへと叩きつけられる。

涙と鼻水と悲しみが、僕の全身を侵食しているせいか、不思議と痛みは感じない。

ダメだ、もう、疲れてしまった。このままどうなってもいい。

目を閉じると優しい風が僕を温かく包んでくれたような気配があった。

けれど、その風には微かに、泥と獣の匂いが混じっていたのだ。


「おい、大丈夫かい? 僕が飛び出してしまったばっかりに、悪かったね」


僕は耳を疑った。目の前にちょこんと座る小さな黒猫が、当然のように話しかけてきたからだ。


「……お前、急になんだよ。人間の言葉が喋れるのか?」


「そうだなぁ、僕が人間の言葉を話せるというより、君が猫の言葉を分かるようになったのかもしれないよ」


黒猫のつぶらな瞳が、僕の視線を真っ向から射抜く。その瞳の中に、僕は見たこともないほど深い闇を垣間見た。


「いいなぁ、人間は。羨ましいよ。だってさ、人間は手足を器用に使えるだろう。あぁ、人間になってみたいなぁ。僕はね、人間になって、どうしても、やりたいことがあるんだ。それは、人間の手足を巧みに使って、なんとしても成し遂げたいことなんだ」


猫の黄金色の瞳が、僕の視線を離さない。その奥に、底知れない執着の影が揺れていた。


「……ねえ、君だってさ、1日くらい人間を辞めて、猫になりたいと思うことがあるんじゃないかい? 猫になったら、勉強も学校もテストもないんだよ。お昼過ぎまで毎日、誰にも邪魔されずに眠っていられるんだよ。それって最高の暮らしだと思わないか」


そう言って猫が僕の胸に手を置いた。いや、前足を乗せてきた。その肉球の感触が、驚くほど冷たい。


「お願いだ、ほんの少しでいいから、僕と体をとりかえっこしてくれよ」


返事をする間もなかった。その猫は何か急いでいるようにも見えた。

目の前にいた黒猫が、僕の胸にずんと飛び込んできた瞬間、魂が体から弾き出されるような奇妙な感覚に襲われたのだ。


体温が一気に上がる感覚、全身にこれまで感じたことのない力がみなぎる。どこまでも走っていけそうだと思ったその時に、気がついた。


僕は、四本足の黒猫になっていたのだ。


「こんなことがあっていいのか?」と驚くと同時に、すべての苦しみから解放されたような、晴れやかな心地よさが、脳の芯まで突き抜けていった。


あれ?人間の形をした「僕」は、一体どこへ消えたのだろう。

周囲を見渡しても、さっきまでそこにあったはずの肉体は見当たらない。

自分の体が行方不明だというのに、なぜだか必死に探そうという気持ちにはならなかった。

それよりも、この黒猫の身軽さと、余計な感情が一切削ぎ落とされた、ひんやりと軽い心のままで、どこまでも駆け巡り、この世界を感じてみたいと思っていたのだ。


「ああ、もう二度と、あちら側へは戻りたくない、人間には、なりたくない」


そんな、じわりと熱を帯びた確信だけが、僕の心を静かに満たしていた。


僕は、新しく生まれ変わったこの美しい世界を堪能するために、思う存分、自由な散歩の時間を愉しんだ。

太陽の光をたっぷりと吸い込んだ、草の匂いが溢れる田んぼの畦道。

古びたシーソーが一つあるだけの、小さな公園の茂み。

そこをくぐり抜ける時、足の裏に湿った泥の匂いがまとわりつくことさえも、今の僕には心地が良かった。


突然、目の前に巨大な怪物が現れた。ぬらぬらと玉虫色に光る、イボカエルだ。その異形に一瞬たじろぐが、恐怖はすぐに、弾けるような喜びへと塗り替えられていく。


「そうだ、今日からは君とも、親友になれるんだな!」

僕は思わず、初対面のカエルに声をかけていた。カエルは僕に驚いて逃げていく。その必死な背中さえも、今の僕にはたまらなく愛おしく思えた。


なんだこれは。今まで気がつかなかったな、散歩とは、これほどまでに愉しいものだったのか。

僕は、初めて手に入れた両手両足の「むっちりとした肉球」で、この世界に触れることが楽しくてたまらなかった。

その感覚は驚くほど鋭敏で、それでいて力強い。触れるものすべてが僕の支配下に入るような、底知れない万能感があった。

僕は飢えた獣のように、この世界のすべてを暴き、知りたくて仕方がない状態になっている。


猫になった僕は、完全に舞い上がっていた。

無我夢中で、道端に揺れる猫じゃらしの、あのふわふわとした穂先を掻き集める。

この体も、あの穂先と同じだ。どこまでも軽やかで、実体がない。

ついさっきまで僕を縛り付けていた「重たい悲しみ」も「受け入れられない現実」も、この毛並みを撫でる風が、すべて遠くへ押し流してくれた。


僕は、集めた猫じゃらしをふかふかの枕にして、温かな陽だまりの中で静かな眠りについた。





……けれど。


夕方、目が覚めたとき。

吹き抜ける風が急に冷たくなって、僕は全てを思い出した。


降り注ぐ現実は、あまりにも残酷だった。


そうだ、親友の「達ちゃん」は、もうこの世にいない。

治ることのない病を患い、死んでしまったのだ。


「テルくん、遊びに行こうよ」


いつものように僕を呼ぶその声が、今も耳元でリフレインしている。

僕らは「鍵っ子」同士だった。

僕は毎朝、テーブルに置いてある朝食を一人で温めて食べ、学校から帰ると静まり返った部屋で過ごし、夕食はいつも、甘い菓子パンとトマトだけだった。


家族と過ごせない寂しさ、ぶつけようのない心の痛み。

そんな冷え切った日々の中で、僕らは田んぼを越えた小さな茂みの奥で出会った。


達ちゃんもまた、僕と同じ孤独を抱えていたのだ。

母子家庭で育った彼は、朝から晩まで働くお母さんと顔を合わせる時間は、ほとんどなかったという。


僕らの集まる小さな茂みには、たくさんの黒猫たちが生息している。

子猫から大きな大人の猫まで、何十匹もの猫たちに囲まれて過ごす時間だけが、僕らの悲しみに蓋をしてくれた。

言葉はなくとも、生き物の確かな温もりに触れている瞬間だけは、凍えた心に安らぎと安心が灯るのを感じたのだった。


そうして孤独を埋め合わせるように、誰にも見つからない秘密基地を、二人だけで作ることにしたのだ。

不思議とたくさんの黒猫たちが集まるその場所を、僕らは「くろねこネバーランド」と名付けた。


忘れもしない、あの日。

達ちゃんが入院した日は、お小遣いを貯めて買った竿に二人の名前を書いて、秘密基地に手作りの旗をあげる「完成式」の当日だった。


なのに、達ちゃんは病院に入ったまま、一度も喋ることができないうちに、あっという間に死んでしまった。


一生懸命作った秘密基地は、未完成のままだ。


僕は、重たくなった足を引きずりながら、秘密基地へと向かった。

一人きりでもいい。僕だけでもいいから、絶対に完成させなきゃいけないんだ。

そうしなければ、二人で作ってきたものが、何も無かったような、全て「嘘」になってしまうような気がする。


一歩、また一歩と茂みの奥へ足を進めていくと、そこにあるはずのない光景があった。

僕が立てかけておいた竿に、見覚えのある旗が掲げてあるのだ。


『くろねこネバーランド』

そこには、僕たちしか知らない秘密の言葉が記されていた。間違いなく、達ちゃんの文字だった。


「……達ちゃん? なのか」


そんなはずはない。心臓の弱かった達ちゃんは入院してからずっと意識がなく、体も動かせないまま、すぐに死んじゃったじゃないか。

いつの間に、どうやってこの旗を取り付けたっていうんだ。


その時、頭の中にあの感覚が蘇った。

自転車で転んだあの時、僕の胸の中に飛び込んできたあの猫。

僕と入れ替わったのは、もしかして、達ちゃんだったんじゃないのか?


あれは夢なんかじゃなかったんだ。あの猫は確かに言っていた。

「やりたいことがある」って。

きっと、この旗を立てるために、猫になった達ちゃんが僕の体を選んだのだろう。


そうだ、僕はあの時、間違いなく猫になっていた。


ふいに妙な重みを感じて、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

するとそこには、黒い猫の毛が絡みついた、たくさんの猫じゃらしが入っていた。


「……やっぱり」


そうだったんだ。これはあの時、僕が夢中で集めてふかふかの枕にした、あの猫じゃらしだ。


いつの間にか、秘密基地の周りには小さな黒猫たちがたくさん集まっていた。十匹、いや、もっといるかもしれない。


「なあ、達ちゃん。そこにいるんだろう? 達ちゃんは、自分の体から抜け出して、猫になったんだよな。どこにいるんだよ、僕の前に出てきてくれよ」


けれど、子猫たちはにゃあにゃあと鳴くばかりで、何を考えているのかさっぱりわからなかった。


これまでのことが全部、夢じゃなくて本当の出来事、真実だったと受け止めた途端、体がずっしりと重たくなった。

ぐにゃりと体が歪むような、つぶれたような感覚が僕を襲う。


「だめだ……。もう、動けない」


秘密基地の中には、手作りのテーブルやベッド、ランプにラジオも置いてある。

今さら家に帰ったところで、夜中までお父さんもお母さんも帰ってこないんだ。

「今日は、この秘密基地に泊まろう。そうすれば、また達ちゃんに会えるかもしれない」


達ちゃんに会いたい。


僕は段ボールのベッドに横たわって、ぎゅっと目を閉じた。

ひどく寂しい。


一人ぼっちには慣れていると思っていたのに。


これほどまでに自分が、何もかも絞り切った生粋の「ひとり」なのだと感じたのは、生まれて初めてだった。

このまま小さくなって、砂の一粒よりも、もっともっと小さくなって、この世界から、跡形もなく消えてしまいたいと思いながら、僕は深い眠りについた。





「おい! テルくん! いつまで眠ってるんだよ。朝だぞ!」


どこからか、達ちゃんの声がする。

あれ……僕はどこで何をしていたんだっけ。

今、どこにいるんだっけ。

眩しい光に目を細めると、すぐそばで、再び聞き慣れた声が響く。


「ここだよ。よく見て、目の前にいるよ」


眩しさに目を細めると、そこにいたのは、僕の予想していた通り、

――黒猫になった達ちゃんだった。


「なんだ、やっぱりそうだったのか。いつの間に猫になんてなったんだよ。それにさ、昨日、僕の体を借りていったのは、達ちゃんだろう?」


黒猫は尻尾を揺らして、僕の足元に体をすり寄せた。

「そうだよ。テルくんなら、絶対に気がついてくれるって信じてたんだ。秘密基地の旗を立てたのはこの僕さ、テルくんとの約束を破りたくなかった。どうしても守りたかったんだ」


「やっぱり達ちゃんが立ててくれたんだな。でもさ、危なかったんだぞ。達ちゃんが急に飛び出してきたから、僕は自転車で派手に転んだんだ。そこから次々に不思議なことばかり起きて……結局ここで眠っちゃってた。朝になってしまったし、早く家に帰らなきゃ」


「ねえ、テルくん。家に帰るなら、僕もついていっていいかな?」


「いいよ。ついでにおやつを持ってきてさ、またここで食べようじゃないか。完成した僕たちの秘密基地でさ」


僕らはいつも通りに戻ったみたいに、二人きりの時間を過ごした。

次は秘密基地にどんなものを置こうか、一緒に描いた絵を飾ろうか。花の種を上てみようか。

またやって来る、明日がわくわくするようなことばかりを話し続けながら、家へと向かった。


けれど、家の前に着くと、どうも様子がおかしい。

いつもは閉じているはずの引き戸が開いていて、仕事に行っているはずの両親が泣き崩れている。


その向こう、座敷に横たわっていたのは――僕だった。

お婆ちゃんのお葬式で見たのと同じ、動かない「僕」の姿。


僕は驚いた。

自分自身が死んでいることにも、両親が泣き崩れていることに驚いているのではない。


お父さんとお母さん、そして僕。家族三人が同じ空間に揃っているという、見たことのない光景に驚いたのだ。


三人が揃うことなんて、もう何年もなかった。

僕の息が絶えてから、ようやく家族が一つになる瞬間がやってくるなんて。


「最後に、良い思い出ができたな」


僕はちっとも悲しくなかった。涙一つ流れない。

次第に、あれは自分ではなく、どこか遠い他人に起きている出来事のように思えていたのだ。

それが僕にとって、人生のすべての答え合わせのように感じられた。


「へえ……。僕は、死んじゃったのか」


慌てた様子の達ちゃんが、静かに語り始めた。


「……テルくん。君に謝らなければならないことがある。あの時、僕が急に飛び出したせいで事故が起きて、テルくんは強く頭を打ったんだ。その直後にはもう……君は、死んでいた。

でも、その瞬間のテルくんの魂は、死んだことを受け入れられずに、自分は人間のままだと思い込んだまま彷徨っていたんだ。

だから、僕は今しかないと思った。イチかバチか、まだ温かさの残るテルくんの体に飛び込んだんだ。君が死を受け入れるまでのわずかな時間、その体を借りて、僕は大急ぎで秘密基地に旗を立てに行ったんだよ。どうしても、約束を守りたかったから。

……そして、君の魂が秘密基地の中で眠りに落ちたとき、肉体もようやく、死を受け入れたんだ」


僕はおかしくて笑った。そして、今の自分がどうなっているのか、ようやく気がついた。

あまりにも馴染みすぎていて、自覚することを忘れていたけれど。


僕の体は、小さな黒猫になっていた。


僕はもう、人間ではなくなっていたのだ。


「テルくん……。ようやく、気がついてくれたかな。僕も君も、小さな黒猫になったんだ。生まれ変わった、と言えば聞こえはいいけれど、僕たちはもう、人間ではない。……こうなったのは、全部僕のせいだ。ごめんよ。本当にごめん。怒ってるよね」


「何言ってるんだよ、怒るもんか。それどころかさ、またこうして達ちゃんと話せることが、震えるほど嬉しいんだ。それにさ、達ちゃんの魂が僕の体を借りて、あの旗を立ててくれたんだろ? つまり、二人であの場所を完成させたんだ。そう思うと……僕は、ものすごく嬉しいんだ、嬉しくてたまらない」


それから、達ちゃんが教えてくれた。

秘密基地に集まっている黒猫たちは、かつて、元は人間だったということ。


事故や病気で不本意に命を終え、それでも「まだこの世界にいたい」「大好きな誰かのそばにいたい」と強く願った魂が、黒猫へと姿を変えて、あの場所に身を寄せ合っているのだ。


その後、家族の元へ帰り、ひっそりと飼い猫として受け入れてもらい、住み着く者もいれば、自由気ままに長い旅へ出る者もいる。

――あそこは、まだ、さよならを言いたくない魂たちの、束の間の休息所なのだと。


「それなら、僕と達ちゃんにとって、あの秘密基地は……本当の意味で、文字通りの『くろねこネバーランド』になったんだな」


僕はそう言って、隣に座る達ちゃんを、今度は猫であることを自覚した瞳で見つめ返した。


僕らはもう、孤独な鍵っ子なんかじゃない。

病の友を失った片割れでも、寂しさを押し殺して震える子供でもないんだ。


離れることなんてない。僕たちは、ずっと一緒だ。

人間として生きる道は途絶えてしまったけれど、僕たちの魂は今、かつてないほど自由な形で呼吸をしている。


燦々と降り注ぐ朝日を浴びながら、僕らは寄り添って歩き出した。

その足取りは、重い体を引きずっていた頃よりもずっと軽く、眩い光を纏っている。


このひだまりの中には希望が満ちている、無限の自由が僕たちを待っているんだ。


さあ、のんびり散歩をしながら帰ろうじゃないか。

僕と達ちゃんの、二人のネバーランドへ。

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