第一章★第九幕 ☆十傑鬼・蠢鬼★
鬼の影が忍び寄る中、玖音は郡衙に捕らえられる。
解き放たれた彼女は郡司のもとへ招かれるが、鬼を前にした人々の心は疑念と恐怖に揺れていた。
やがて城下に不穏な気配が満ち、宇治川の方角から迫る黒き影が、町を震撼させていく――。
―二人の少年と少女―
その時すでに、郡司の邸宅にいても鬼の気配は感じ取れていた。
大気を震わせる重苦しさ。遠くから押し寄せる呻きのようなざわめき。
玖音は屋敷の屋根に上り、四方を見渡す。
〔玖音〕
「――宇治川か。」
黒き影が川辺を覆い、土煙を巻き上げながら市の方へと迫っているのが見えた。
郡司はすでに、雑兵と陰陽道の一団を、少数ながら差し向けていた。
玖音は迷わず屋根を蹴り、宙を翔ける。
高みから高みへと飛び移り、影の源へと一直線に駆けた。
轟く咆哮と共に、河畔の町並みは土煙に覆われていた。
雑兵たちが必死に槍を突き出し、陰陽道の術者たちが護符を投げ放つ。
しかし、黒き影を前にしては、如何なる抵抗も虚しい。
〔雑兵〕
「押せ! まだ押し返せるぞ!」
〔雑兵〕
「槍が効かん! 化け物め!」
槍は折れ、術は掻き消される。
やがて雑兵は次々(つぎつぎ)と背を向け、陰陽道もまた符を取り落として逃げ去った。
その場に残されたのは、潰えた陣形と、取り残された民だけ。
〔群衆〕
「ひっ、こっちに来るぞ!」
〔母親〕
「子供を抱いて逃げてぇ! 早く!」
〔玖音〕
「兵共は何をしている……、どうして民を置いて逃げるのだ……!」
だが、川辺に近づくにつれ耳に届くのは、鬼を討つ声ではなく、逃げ惑う悲鳴ばかり。
すでに陣形は崩れ、槍や符は散り乱れ、戦の気配は失われていた。
屋根上に立つ玖音の声は、誰一人振り向くこともなく喧騒に呑まれた。
だが彼女の眼差しは烈火のごとく燃えていた。
剣を抜き放ち、宙を翔ける。
振り下ろされる刃は風を裂き、黒影を炎の刃で次々(つぎつぎ)と薙ぎ払った。
紙を裂くが如く、鬼どもの体はあっけなく斬り伏せられていく。
〔玖音〕
「退け! ここは私が引き受ける!」
わずかの刹那で、死の淵にあった場は一転した。
呻き声を上げていた民たちに、安堵の息が戻る。
だが――その時であった。
鬼のいる方角から逃げてくる二つの影があった。
息も絶え絶えに逃げ惑う、
年端のいかぬ少年と少女が二人。
〔金髪の少女〕
「…ぁぁ!良かった…!…人だ!人がいる!助かった!」
〔黒髪の少年〕
「…ぜぇ…はぁ…!ぉおぃ!…た、助けて……助けてくれぇ!」
〔群衆〕
「子どもだ! 誰か、助けてやってくれ!」
〔玖音〕
「下がれ! 私の後ろに!」
玖音は咄嗟に飛び込み、影の爪から二人を庇う。
剣を振り抜き、迫る鬼を弾き返した。
〔玖音〕
「止まるな! ひたすら走れ!」
〔金髪の少女〕
「………………………………………………………………………………………。」
〔黒髪の少年〕
「…ぜぇ!…ぁあ゛!わかった!恩に着る!」
だが、奇妙なことに気付く。
鬼どもの狙いは、民でも雑兵でも私でもなく――この二人に向けられていた。
まるで、どうしても仕留めねばならぬ獲物であるかのように。
〔玖音〕
「何故……この二人を狙う……!」
戦力にはとてもならぬ、ただ怯えるばかりの二人。
玖音は眉をひそめつつも、彼らを守るように剣を構え直した。
鬼の群が迫る。
玖音は徹底して二人を庇いながら、渦中を斬り裂いていった。
そして――その瞬間。
大地を震わせる異様な気配が、闇の底から湧き上がった。
地を這う無数の黑きもの。うごめくそれは、蛆虫の群れ。
〔群衆〕
「な、なんだあれは……!」
〔老人〕
「ウジの魔物に足が……人の手に似ておる!」
よく見れば、それぞれの塊には足のような突起があり、のたのたと這いずり歩いていた。
人の手にも似た足が大地を踏みしめるたび、ぬめる音が響き、吐き気を催す臭気が漂う。
群れは一つ、また一つと集い、蠢きながら互いに絡み合い、膨れ上がっていく。
積み重なり、面を重ねるごとに、やがてひとつの「形」を成していった。
それは玖音の間下の地面を盛り上がらせ、宇治川を挟んで膨張した。
川は奔流を裂かれ、濁流は流れを変じて、逃げ惑う人々(ひとびと)の方へと逆巻いていく。
水路は溢れ、土砂を巻き込み、町路へ奔流が迫った。
〔群衆〕
「川が裂けたぞ!」
「西へ逃げろ、西へ!」
「子どもを連れて西だ、早く!」
叫びは波のように伝わり、群衆の流れをひとつの方向へ押し流した。
母は子を抱え、老人は杖を放り出して走り出す。
水煙に包まれた町路で、逃げ惑う声が重なり合い、祈るような嗚咽すら混じった。
人々(ひとびと)が逃げ惑うその方角は――先に玖音が橋上で促した避難の方角と重なっていた。
濁流は軒を薙ぎ倒さんばかりに押し寄せ、家屋はぎしりと悲鳴をあげる。
まるで町そのものを飲み干そうとするかのように――だが、まだ決壊はしていない。
人々はその気配を背に感じ取り、必死に走った。
すぐ背後に泥濘の息吹が迫る。
足をもつれさせれば呑まれると知りながら、誰もが命の限りに駆けた。
悲鳴は重なり合い、岸辺を駆ける群衆は蟻のように散り乱れる。
それでも、不思議なほどに誰一人捕らわれず、寸前のところで逃れ続けていた。
――蛆の群体は膨れあがり、やがてひとつの姿を象った。
その巨体は三階建ての楼閣に匹敵する――いや、それ以上。
人の上半身を持ちながら、下半身は溶け崩れ、蛇の如く尾を引く。
脇腹からは絶え間なく蛆が溢れ落ち、地を這っては再び本体に戻っていく。
ぬらり、と持ち上げられた腕は、血肉のかわりに蛆の束で編まれたかのようであった。
その眼窩の奥では、幾百もの白き幼虫が蠢き、見る者に目を合わせるかのように蠢動している。
――ただひと目で、常の鬼とは隔絶した怪異と知れる。
その身を覆う蠢きは、まるで地獄そのものが姿を現したかのようであった。
その名を与えることこそが、己が戦いの始まりであるかのように。
玖音は剣を握り直し、血を滲ませた唇から、震える息を吐き、言葉を刻む。
〔玖音〕
「――蠢鬼ッ!」
町ごと押し潰すかのようなその巨影に、玖音は思わず息を呑んだ。
これまで幾度も鬼と刃を交えてきた彼女でさえ、胸の奥を冷たく撫でられるような恐怖を覚える。
だが足を止めることは許されない。
ここで退けば、町はひと呑みにされるのだ。
玖音は両の掌に力を込めた。
冷たく湿った鍔が軋み、握りしめた刀はわずかに震えていた。
その怪異は――ただの鬼ではない。
あの夜、屠ると誓った十傑鬼のひとり。
町を川が、玖音を蠢鬼が――飲み込まんとしていた。
あなたの御印ひとつ、次なる幕を灯す光といたします。
なにとぞよしなに。ひとしずくの灯火のごとく、希望を宿しましょう。
※「第一章★第九幕 ★十傑機・蠢鬼★」につきまして、以下の内容に修正しました。
〔痩せこけた少年〕→〔金髪の少女〕
〔前髪を下した少年〕→〔黒髪の少年〕