第一章★第七幕 ☆陰姫★
玖音は兵に囲まれ、郡衙の門前に立たされていた。
土塀に囲まれた広大な敷地。正面に聳える庁舎は重厚にして威容を誇り、
律令国家の権威をそのまま形にしたようである。
牢や倉が並び、役人や兵が行き交う様は、彼女にとってはまるで異世界の砦のように映った。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
けれど、それ以上に――心のどこかで胸を高鳴らせていた。
〔玖音心中〕
(これはもしや……姫様が語っていた“政を司る立派な場所”か!)
迎え出たのは痩せた下級役人であった。眼差しは氷のごとく冷たく、口元に笑みひとつない。
風が吹き抜け、玖音の羽衣の裾がふわりと舞った。
幾重にも重ねられた絹衣は、淡い桜色に染められ、陽光を浴びて霞のごとく柔らかに輝く。
その色は、春の花びらが散る一瞬の儚さを写し取り、見る者の心を奪った。
織り込まれた糸はどれも精緻を極め、触れれば溶けてしまいそうなほど繊細でありながら、重なり合うことでただならぬ威光を放っていた。
だが、その衣を纏娘の立ち居振る舞いには、雅の欠片もない。
姿勢は悪く、足元もおぼつかず、作法を弁えているようには到底見えなかった。
〔下級役人〕
「その衣は盗んだものだろう。」
〔玖音〕
「いや、そうではない。これは……姫より賜ったものだ。
それより急げ、鬼が来る。備えねばならない!」
役人は嘲るように鼻を鳴らした。
〔下級役人〕
「鬼だと? 笑わせる。高貴な者がそんな醜態を晒すものか。
その衣も、追剥でもして奪ったに決まっておる。」
〔玖音〕
「奪った?……衣って、奪って着られるものなのか?」
玖音の真顔の返しに、役人は一瞬だけ言葉を失った。
だがすぐに冷徹な声を取り戻す。
〔下級役人〕
「鬼などおらぬ。虚言を弄して成り上がろうとしているな」
〔玖音〕
「……どこに上がるというのだ?」
絶句した役人は、しばし玖音を睨みつけ、それから手を振り払った。
〔下級役人〕
「き、貴様の虚言など聞き飽きた!
あぁ分かった、分かったから、そこに入っておとなしくしておけ!
おい、聞こえたか! 牢に繋いでおけ! 郡司様を煩わせる必要などないのだ!」
牢獄の中で
縄をかけられ、玖音は牢に押し込まれた。
下級役人は安堵の息を洩らし、従者たちもほっと胸を撫で下ろす。
――が。
〔玖音〕
「……すまないが、水をくれないか?」
背後から声がした。役人も従者たちも、一斉に振り返る。
――そこには、縄をかけられ牢に入れられていたはずの女が、いつの間にか立っていた。
その光景に、役人も従者も言葉を失う。
本人にとっては、ほんの一瞬、陰に身を溶かしただけ。
門をくぐるような当たり前の所作でしかなかった。
〔従者共〕
「な、何ゆえ……牢に収めたはずの者が……!」
「しかも縄まで解けておりまする……!」
声を震わせる従者たち。
〔下級役人〕
「……これは尋常ならぬ。鬼か…妖しの術か……」
〔玖音〕
「鬼!? 気配は無いがどこだ!? 一体どこに!?」
〔下級役人〕
「……いや、それはそなたのことを申しておるのだ…。」
役人は額に汗を浮かべながらも、声だけは冷ややかだった。
〔玖音〕
「頼むから水をくれ。もう喉がカラカラなんだ」
茶を差し出されると、玖音は素直に礼を言い、そのまま牢に戻って正座した。
膝を揃え、所作正しく茶をすする姿は、どこか気高くすら見える。
〔玖音心中〕
「そうか、ここは宇治だったな。これほどの、お茶を頂けるとはありがたい。
姫様はお茶を飲む時の作法には厳しかったな。
……よき香り。まことに佳き茶にございます。」
しばしの沈黙ののち、下級役人は低く吐き捨てた。
〔下級役人〕
「このまま放置すれば郡衙の威信が揺らいでしまいかねん……。
もはや……鬼に相違あるまい。直ちに処刑するしかあるまい。」
〔従者共〕
「お、恐ろしゅうございます……!」
「……ひ、人払いをせねば……郡司様の御前に出るなど……」
「至急、ひ、火あぶりにせねば……!」
また別の従者は、震える声で言い放った。
〔従者共〕
「いっそ首を刎ね、晒し首と致すべきかと……!」
――従者たちがざわめく中、すぐ背後から声がした。
〔玖音〕
「……すまぬ、とても美味であった。もう一杯もらえるか?」
振り返れば、牢の中にいたはずの玖音が、いつの間にか背後に立っていた。
従者たちが悲鳴を上げる。
〔従者共〕
「ひっ……!」
「で、出たぁぁぁっ!」
「こ、これはまさしく鬼……!」
従者たちは悲鳴を上げ、我先にと後ずさった。
〔従者共〕
「ば、馬鹿な……再び牢を抜け出し、また戻ったと申すか……!」
「これは祟りに相違ございませぬ!」
〔下級役人〕
「……ッ!茶だ!茶を出せ!早く致せ!」
玖音は茶を受け取り、にっこり笑って再び牢に戻る。
〔玖音〕
「かたじけない。どうにも……喉が乾いていてな。」
〔従者共〕
「……妖鬼の所業にござろう……!」
「…もはや火刑でも足りませぬ…!」
「…首を刎ね、…念のため塩漬けに致すべきかと!」
〔下級役人〕
「う、うむ……気奴に悟られぬよう、事を進めるのだ……」
――その時。
地鳴りのごとき足音が廊下の奥から響き渡る。
従者たちは縄も松明も斧も抱えたまま硬直し、一斉に息を呑んだ。
次の瞬間、低く響く声が轟いた。
〔郡司〕
「何事だ、騒々しい!」
その声が轟いた瞬間、場の空気が凍りついた。
声の主――郡司が姿を現した。
郡司の鋭い眼光は、彼らの手に握られた処刑道具を見逃さなかった。
従者たちは蒼白になり、畳に額をこすりつけるように膝を折った。
〔下級役人〕
「郡司殿っ! ち、違うのです、これは……!」
鍛え上げられた肩と胸板を揺らし、戦場を駆け抜けた将の威容が歩み出る。
その鋭い眼差しに射すくめられれば、誰もが息を呑まずにはいられない。
その眼差しが、ふと一点に留まった。
そこにいた玖音は――
膝を揃えて正座し、茶碗を持ち、所作正しく音も立てずに茶をすすっていた。
その姿、その声音、その伏せ目。すべてが、京の八国大領の娘・菜垂姫その人に重なって見えた。
そして、身を包む衣もまた、姫の威をそのまま映したかのように、気高き光を放っていた。
郡司の胸中を奔ったのはただ一つの名。
〔郡司心中〕
((((……っ! 菜…菜垂姫!!!!))))
声にならぬ叫びは喉まで出かかったが、唇は固く結ばれて動かなかった。
姫の御名を軽々しく口にすることなど、不敬以外の何物でもない。
ただ、その双眸の奥で、烈火のごとき動揺が燃え盛っていた。
〔下級役人〕
「郡司様!近づいてはなりませぬ、あれは下賤の女にございます!」
「牢を破り、何度も出入りを……妖鬼の所業!」
〔郡司〕
「――黙れっ!! 下賤とは何事か!!!!
牢に閉じ込めるなど、不敬千万っ!!
姫を何と心得るかぁぁぁっ!!!!」
郡司は烈火のごとく怒鳴りつけ、従者たちは蒼白になって畳へ額を擦りつけた。
〔玖音心中〕
(……え、私……牢に入っていたのか?
いや、皆が休めと言うから茶をいただいただけなのだが……)
〔下級役人〕
「ま、まことに……鬼に相違ありませぬ!」
「ひぃぃ……助けてくだされ……!」
〔郡司〕
「黙れと言うた!!!」
〔玖音心中〕
(でも……姫様、牢に入れられたこと、何度かあったなぁ……
あれは牢じゃなく、“御座所”と呼ばれていたような……
……そうか。牢も呼び方ひとつで、立派な御座所になるのか?)
玖音は妙に納得した顔で、またひと口、茶をすすった。
〔郡司〕
「……菜垂姫、この度の非礼お詫びいたします。
どうか寛大なご慈悲を……!」
牢の外で郡司が震える声を洩らした。
その言葉と共に、郡司は畳に両手をつき、深々と頭を垂れる。
従者たちも競うように土下座し、牢前の光景は、まるで小さな朝廷のごとき威儀を帯びた。
〔玖音〕
「いや、私は玖音だが?」
――…沈黙。
郡司「……え?」 従者「……え?」
玖音「……え?」
場の空気が凍りつく。
従者たちは息を呑み、郡司は言葉を失った。
茶碗を手にしたままの玖音だけが、きょとんと首をかしげていた。
――その時、郡司の胸中に走ったのは、ただひとつの戦慄であった。
〔郡司心中〕
(……姫と瓜二つ……いや、そもそも……。
なぜこの娘は、菜垂姫と同じ所作を……?)
あなたの御印ひとつ、次なる幕を灯す光といたします。
なにとぞよしなに。ひとしずくの灯火のごとく、希望を宿しましょう。