表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/17

第一章★第七幕 ☆陰姫★

 玖音(くおん)(へい)(かこ)まれ、郡衙(ぐんが)門前(もんぜん)()たされていた。


 土塀(どべい)(かこ)まれた広大(こうだい)敷地(しきち)正面(しょうめん)(そび)える庁舎(ちょうしゃ)重厚(じゅうこう)にして威容(いよう)(ほこ)り、

 律令国家(りつりょうこっか)権威(けんい)をそのまま(かたち)にしたようである。

 (ろう)(くら)(なら)び、役人(やくにん)(へい)()()(さま)は、彼女(かのじょ)にとってはまるで異世界(いせかい)(とりで)のように(うつ)った。


 (むね)(おく)がぎゅっと()()けられる。

 けれど、それ以上(いじょう)に――(こころ)のどこかで(むね)高鳴(たかな)らせていた。


玖音(くおん)心中(しんちゅう)

(これはもしや……姫様(ひめさま)(かた)っていた“(まつりごと)(つかさど)立派(りっぱ)場所(ばしょ)”か!)


 (むか)()たのは()せた下級役人(かきゅうやくにん)であった。眼差(まなざ)しは(こおり)のごとく(つめ)たく、口元(くちもと)()みひとつない。


 (かぜ)()()け、玖音(くおん)羽衣(はごろも)(すそ)がふわりと()った。


 幾重(いくえ)にも(かさ)ねられた絹衣(きぬごろも)は、(あわ)桜色(さくらいろ)()められ、陽光(ようこう)()びて(かすみ)のごとく(やわ)らかに(かがや)く。

 その(いろ)は、(はる)(はな)びらが()一瞬(いっしゅん)(はかな)さを(うつ)()り、()(もの)(こころ)(うば)った。


 ()()まれた(いと)はどれも精緻(せいち)(きわ)め、()れれば()けてしまいそうなほど繊細(せんさい)でありながら、(かさ)なり()うことでただならぬ威光(いこう)(はな)っていた。


 だが、その(ころも)(まとう)(むすめ)()居振(いふ)()いには、(みやび)欠片(かけら)もない。

姿勢(しせい)(わる)く、足元(あしもと)もおぼつかず、作法(さほう)(わきま)えているようには到底(とうてい)()えなかった。



下級役人(かきゅうやくにん)

「その(ころも)(ぬす)んだものだろう。」


玖音(くおん)

「いや、そうではない。これは……(ひめ)より(たまわ)ったものだ。

 それより(いそ)げ、(おに)()る。(そな)えねばならない!」


 役人(やくにん)(あざけ)るように(はな)()らした。


下級役人(かきゅうやくにん)

(おに)だと? (わら)わせる。高貴(こうき)(もの)がそんな醜態(しゅうたい)(さら)すものか。

 その(ころも)も、追剥(おいはぎ)でもして(うば)ったに()まっておる。」


玖音(くおん)

(うば)った?……(ころも)って、(うば)って()られるものなのか?」


 玖音(くおん)真顔(まがお)(かえ)しに、役人(やくにん)一瞬(いっしゅん)だけ言葉(ことば)(うしな)った。

 だがすぐに冷徹(れいてつ)(こえ)()(もど)す。


下級役人(かきゅうやくにん)

(おに)などおらぬ。虚言(きょげん)(ろう)して()()がろうとしているな」


玖音(くおん)

「……どこに()がるというのだ?」


 絶句(ぜっく)した役人(やくにん)は、しばし玖音(くおん)(にら)みつけ、それから()()(はら)った。


下級役人(かきゅうやくにん)

「き、貴様(きさま)虚言(きょげん)など()()きた!

 あぁ()かった、()かったから、そこに(はい)っておとなしくしておけ!

 おい、()こえたか! (ろう)(つな)いでおけ! 郡司様(ぐんじさま)(わずら)わせる必要(ひつよう)などないのだ!」


 牢獄(ろうごく)(なか)

 (なわ)をかけられ、玖音(くおん)(ろう)()()まれた。

 下級役人(かきゅうやくにん)安堵(あんど)(いき)()らし、従者(じゅうしゃ)たちもほっと(むね)()()ろす。


 ――が。


玖音(くおん)

「……すまないが、(みず)をくれないか?」


 背後(はいご)から(こえ)がした。役人(やくにん)従者(じゅうしゃ)たちも、一斉(いっせい)()(かえ)る。


 ――そこには、(なわ)をかけられ(ろう)()れられていたはずの(おんな)が、いつの()にか()っていた。

 その光景(こうけい)に、役人(やくにん)従者(じゅうしゃ)言葉(ことば)(うしな)う。


 本人(ほんにん)にとっては、ほんの一瞬(いっしゅん)(かげ)()()かしただけ。

 (もん)をくぐるような()たり(まえ)所作(しょさ)でしかなかった。


従者共(じゅうしゃども)

「な、(なに)ゆえ……(ろう)(おさ)めたはずの(もの)が……!」

「しかも(なわ)まで()けておりまする……!」


 (こえ)(ふる)わせる従者(じゅうしゃ)たち。


下級役人(かきゅうやくにん)

「……これは尋常(じんじょう)ならぬ。(おに)か…(あや)しの(じゅつ)か……」


玖音(くおん)

(おに)!? 気配(けはい)()いがどこだ!? 一体(いったい)どこに!?」


下級役人(かきゅうやくにん)

「……いや、それはそなたのことを(もう)しておるのだ…。」


 役人(やくにん)(ひたい)(あせ)()かべながらも、(こえ)だけは()ややかだった。


玖音(くおん)

(たの)むから(みず)をくれ。もう(のど)がカラカラなんだ」


 (ちゃ)()()されると、玖音(くおん)素直(すなお)(れい)()い、そのまま(ろう)(もど)って正座(せいざ)した。

 (ひざ)(そろ)え、所作(しょさ)(ただ)しく(ちゃ)をすする姿(すがた)は、どこか気高(けだか)くすら()える。


玖音(くおん)心中〕

「そうか、ここは宇治(うじ)だったな。これほどの、お(ちゃ)(いただ)けるとはありがたい。

 姫様(ひめさま)はお(ちゃ)()(とき)作法(さほう)には(きび)しかったな。

 ……よき(かお)り。まことに()(ちゃ)にございます。」

 しばしの沈黙(ちんもく)ののち、下級役人(かきゅうやくにん)(ひく)()()てた。


下級役人(かきゅうやくにん)

「このまま放置(ほうち)すれば郡衙(ぐんが)威信(いしん)()らいでしまいかねん……。

 もはや……(おに)相違(そうい)あるまい。(ただ)ちに処刑(しょけい)するしかあるまい。」


従者共(じゅうしゃども)

「お、(おそ)ろしゅうございます……!」

「……ひ、人払(ひとばら)いをせねば……郡司様(ぐんじさま)御前(ごぜん)()るなど……」

至急(しきゅう)、ひ、()あぶりにせねば……!」


 また(べつ)従者(じゅうしゃ)は、(ふる)える(こえ)()(はな)った。


従者共(じゅうしゃども)

「いっそ(くび)()ね、(さら)(くび)(いた)すべきかと……!」


 ――従者(じゅうしゃ)たちがざわめく(なか)、すぐ背後(はいご)から(こえ)がした。


玖音(くおん)

「……すまぬ、とても美味(びみ)であった。もう一杯(いっぱい)もらえるか?」


 ()(かえ)れば、(ろう)(なか)にいたはずの玖音(くおん)が、いつの()にか背後(はいご)()っていた。

 従者(じゅうしゃ)たちが悲鳴(ひめい)()げる。


従者共(じゅうしゃども)

「ひっ……!」

「で、()たぁぁぁっ!」

「こ、これはまさしく(おに)……!」


 従者(じゅうしゃ)たちは悲鳴(ひめい)()げ、我先(われさき)にと(あと)ずさった。


従者共(じゅうしゃども)

「ば、馬鹿(ばか)な……(ふたた)(ろう)()()し、また(もど)ったと(もう)すか……!」

「これは(たた)りに相違(そうい)ございませぬ!」

下級役人(かきゅうやくにん)

「……ッ!(ちゃ)だ!(ちゃ)()せ!(はや)(いた)せ!」


 玖音(くおん)(ちゃ)()()り、にっこり(わら)って(ふたた)(ろう)(もど)る。


玖音(くおん)

「かたじけない。どうにも……(のど)(かわ)いていてな。」


従者共(じゅうしゃども)

「……妖鬼(ようき)所業(しょぎょう)にござろう……!」

「…もはや火刑(かけい)でも()りませぬ…!」

「…(くび)()ね、…(ねん)のため塩漬(しおづ)けに(いた)すべきかと!」

下級役人(かきゅうやくにん)

「う、うむ……気奴(きやつ)(さと)られぬよう、(こと)(すす)めるのだ……」


 ――その(とき)


 地鳴(じな)りのごとき足音(あしおと)廊下(ろうか)(おく)から(ひび)(わた)る。

 従者(じゅうしゃ)たちは(なわ)松明(たいまつ)(おの)(かか)えたまま硬直(こうちょく)し、一斉(いっせい)(いき)()んだ。

 (つぎ)瞬間(しゅんかん)(ひく)(ひび)(こえ)(とどろ)いた。


郡司(ぐんじ)

何事(なにごと)だ、騒々しい!」


 その(こえ)(とどろ)いた瞬間(しゅんかん)()空気(くうき)(こお)りついた。

 (こえ)(ぬし)――郡司(ぐんじ)姿(すがた)(あらわ)した。


 郡司(ぐんじ)(するど)眼光(がんこう)は、(かれ)らの()(にぎ)られた処刑道具(しょけいどうぐ)見逃(みのが)さなかった。

 従者(じゅうしゃ)たちは蒼白(そうはく)になり、(たたみ)(ひたい)をこすりつけるように(ひざ)()った。


下級役人(かきゅうやくにん)

郡司殿(ぐんじどの)っ! ち、(ちが)うのです、これは……!」


 (きた)()げられた(かた)胸板(むないた)()らし、戦場(せんじょう)()()けた(しょう)威容(いよう)(あゆ)()る。

 その(するど)眼差(まなざ)しに()すくめられれば、(だれ)もが(いき)()まずにはいられない。


 その眼差(まなざ)しが、ふと一点(いってん)(とど)まった。


 そこにいた玖音(くおん)は――

 (ひざ)(そろ)えて正座(せいざ)し、茶碗(ちゃわん)()ち、所作(しょさ)(ただ)しく(おと)()てずに(ちゃ)をすすっていた。

 その姿(すがた)、その声音(こわね)、その()()。すべてが、(みやこ)八国大領(はちこくだいりょう)(むすめ)菜垂姫(なたれひめ)その(ひと)(かさ)なって()えた。

 そして、()(つつ)(ころも)もまた、(ひめ)()をそのまま(うつ)したかのように、気高(けだか)(ひかり)(はな)っていた。


 郡司(ぐんじ)胸中(きょうちゅう)(はし)ったのはただ(ひと)つの()


郡司(ぐんじ)心中(しんちゅう)

((((……っ! ()菜垂姫(なたれひめ)!!!!))))


 (こえ)にならぬ(さけ)びは(のど)まで()かかったが、(くちびる)(かた)(むす)ばれて(うご)かなかった。

 (ひめ)御名(みな)を軽々しく(くち)にすることなど、不敬(ふけい)以外(いがい)何物(なにもの)でもない。

 ただ、その双眸(そうぼう)(おく)で、烈火(れっか)のごとき動揺(どうよう)()(さか)っていた。


下級役人(かきゅうやくにん)

郡司様(ぐんじさま)(ちか)づいてはなりませぬ、あれは下賤(げせん)(おんな)にございます!」

(ろう)(やぶ)り、何度(なんど)出入(でい)りを……妖鬼(ようき)所業(しょぎょう)!」


郡司(ぐんじ)

「――(だま)れっ!! 下賤(げせん)とは何事(なにごと)か!!!!

 (ろう)()()めるなど、不敬千万(ふけいせんばん)っ!!

 (ひめ)(なん)心得(こころえ)るかぁぁぁっ!!!!」


 郡司(ぐんじ)烈火(れっか)のごとく怒鳴(どな)りつけ、従者(じゅうしゃ)たちは蒼白(そうはく)になって(たたみ)(ひたい)()りつけた。


玖音(くおん)心中(しんちゅう)

(……え、(わたし)……(ろう)(はい)っていたのか?

 いや、(みな)(やす)めと()うから(ちゃ)をいただいただけなのだが……)


下級役人(かきゅうやくにん)

「ま、まことに……(おに)相違(そうい)ありませぬ!」

「ひぃぃ……(たす)けてくだされ……!」


郡司(ぐんじ)

(だま)れと()うた!!!」


玖音(くおん)心中(しんちゅう)

(でも……姫様(ひめさま)(ろう)()れられたこと、何度(なんど)かあったなぁ……

 あれは(ろう)じゃなく、“御座所(ござしょ)”と()ばれていたような……

 ……そうか。(ろう)()(かた)ひとつで、立派(りっぱ)御座所(ござしょ)になるのか?)


 玖音(くおん)(みょう)納得(なっとく)した(かお)で、またひと(くち)(ちゃ)をすすった。


郡司(ぐんじ)

「……菜垂姫(なたれひめ)、この(たび)非礼(ひれい)()びいたします。

 どうか寛大(かんだい)なご慈悲(じひ)を……!」


 (ろう)(そと)郡司(ぐんじ)(ふる)える(こえ)()らした。

 その言葉(ことば)(とも)に、郡司(ぐんじ)(たたみ)両手(りょうて)をつき、深々と(あたま)()れる。

 従者(じゅうしゃ)たちも(きそ)うように土下座(どげざ)し、牢前(ろうまえ)光景(こうけい)は、まるで(ちい)さな朝廷(ちょうてい)のごとき威儀(いぎ)()びた。


玖音(くおん)

「いや、私は玖音(くおん)だが?」


――…沈黙(ちんもく)


 郡司(ぐんじ)「……え?」 従者(じゅうしゃ)「……え?」


 玖音(くおん)「……え?」


 ()空気(くうき)(こお)りつく。

 従者(じゅうしゃ)たちは(いき)()み、郡司(ぐんじ)言葉(ことば)(うしな)った。

 茶碗(ちゃわん)()にしたままの玖音(くおん)だけが、きょとんと(くび)をかしげていた。


 ――その(とき)郡司(ぐんじ)胸中(きょうちゅう)(はし)ったのは、ただひとつの戦慄(せんりつ)であった。


郡司(ぐんじ)心中(しんちゅう)

(……姫と瓜二(うりふた)つ……いや、そもそも……。

 なぜこの(むすめ)は、菜垂姫(なたれひめ)(おな)所作(しょさ)を……?)


あなたの御印ひとつ、次なる幕を灯す光といたします。

なにとぞよしなに。ひとしずくの灯火のごとく、希望を宿しましょう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ