第一章★第六幕 ☆孤舞★
古き嵐山に生まれた菜垂姫は、民を思う優しき姫君であったが、
領主の圧政に逆らったがために幽閉される。
ただひとりの忠義の巫女・玖音が彼女を救い出すも、
民の誤解と暴乱の中で姫は命を落とし、国は深き闇へと沈んでいった。
残された玖音は姫の魂を胸に抱き、陰の術を頼みに鬼と相まみえる。
怒りや憎しみではなく「誓い」を支えに戦い抜いた彼女は、
やがて城を離れ、初めて人々の暮らす地へと足を踏み入れる――。
―玖音、宇治へ―
森を抜けると、大きな川と共に壮大な宇治橋が現れた。
朝の光に包まれた橋の向こうには、生活の匂いと声に満ちた宇治の集落が広がっていた。
玖音は思わず息を呑んだ。
茅葺きの家々(いえいえ)、魚を担ぐ男、薪を抱える女、笑い走る子ども。
京都の城に閉じ込められていた彼女には、すべてが新鮮で眩しかった。
〔玖音〕
「ここが……宇治……」
胸に小さな希望が灯る。だがその時すでに、人々(ひとびと)の視線は彼女に注がれていた。
玖音は胸の奥に渦巻く焦燥を抑えきれず、宇治橋の中央に立ち止まった。
眼下には大きな川がきらめき、両岸からは朝の光と人のざわめきが押し寄せる。
風が吹き抜け、羽衣の裾がふわりと舞った。
幾重にも重ねられた絹衣は陽光を受け、霞をまとうかのように淡く光を放つ。
橋の上に行き交う人々(ひとびと)の目には、それがただの衣とは到底映らなかった。
庶民が一生かけても手にできぬほどの価値を宿した、
まさしく姫君の装い――その存在は日常のざわめきから抜け出した異界の影のように浮き立っていた。
――だが、通りの人々(ひとびと)は首をかしげる。
〔町人〕
「なんだありゃ……?」
「姫さまの真似事か? 場違いな格好だな……」
「酔っぱらいの姉ちゃんか?」
ざわめきはさざ波のように広がり、視線は畏れではなく、好奇と警戒と嘲りに満ちていった。
絹を幾重にもまとい、まばゆい姫の装いに身を包んだその娘
――玖音が、橋の真ん中で声を張り上げた。
〔玖音〕
「鬼が来る! みんな逃げてくれ!」
「ここに居ては皆、死んでしまうぞ! 西へ逃げるんだ!」
しかし返ってきたのは失笑だった。
〔町人〕
「鬼? 酒でもあおったか」
「朝っぱらから縁起でもねえ!」
ある者は口に含んだ酒を噴き出し、咽かえっている。
〔町人〕
「げほっ、げほっ……! なんだよ、笑わせんなよ!」
隣の男は服に酒を浴び怒鳴り出す。
「おい! 俺の衣が!」
玖音の必死の叫びをよそに、橋の上では小競り合いが始まってしまった。
羽衣が光を放つほど、彼女の必死さが際立つほど
――周囲にはただの奇異でしかなかった。
まるで舞子が橋の真ん中でひとり舞いを始めたような、そんな様だったのだ。
袖を引かれた男はたまらず声を上げる。
〔町人〕
「なんだこいつは!? 放せ!」
袖を引き戻しながら、玖音は声を張り上げた。
〔玖音〕
「そっちは鬼の居る方角だ! 戻れ!」
〔町人〕
「なんだあれ、踊りの稽古か?」
「いや、鬼よりあの女の方が怖えぞ!」
人々(ひとびと)は距離を取り、母は子を抱き寄せ、商人は荷を引き寄せ、
誰も彼女の声に耳を貸そうとはしなかった。
やがて槍を手にした番人たちが駆け寄り、乱暴に玖音を取り押さえた。
〔雑兵(壱)〕
「その衣……ただ者ではないな。だが怪しきは捕らえるしかあるまい」
〔玖音〕
「放せ! 私は気狂いではない! 鬼が迫っているのだ!」
必死の叫びは、雑兵たちの嘲笑にかき消された。
〔雑兵(壱)〕
「鬼など、この辺りに出やせん」
〔雑兵(弐)〕
「ただの酔狂なら番所で済むが……この衣は只事ではない。郡衙に連れていけ」
〔玖音〕
「――郡衙! 初めて聞くが、そこに行けば聞いてもらえるのか!?」
玖音が縋るように叫ぶと、雑兵は面倒臭そうに鼻を鳴らした。
〔雑兵(壱)〕
「あぁ~、そうかもなぁ。……もっとも郡司様は、
最近は政務より茶菓子の方がお好きでな。
つまみでも持って行った方が話を聞いてくれるかもなぁ」
仲間の雑兵が吹き出す。
〔雑兵(弐)〕
「ははっ、それは言うな。聞かれたら今度はお前が縛られるぞ」
縄をかけられ、群衆の視線を浴びながら、玖音は橋を引き立てられていった。
朝日を浴びて黒々(くろぐろ)とそびえる郡衙の土塀、その高い棟門が遠くに見えてくる。
それでも――
〔玖音心中〕
(郡衙とやらなら……理をわきまえているはず……!)
かすかな望みが胸を支えていた。
だが同時に、不吉な影が心をかすめる。
〔玖音心中〕
(けれどもし……あちらも耳を塞ぐなら?
鬼が迫ることを、最後まで誰も信じなかったなら……)
足を進めるたび、視線の重さが背に突き刺さる。
嘲りと憐れみと恐れ――。
まるで自分が鬼そのもの
であるかのように。
玖音は唇を噛みしめ、前を見据えた。
縄に引かれながらも、瞳だけは曇らせまいと。
(鬼が来る。必ず。
その時、私の言葉が真実だと――誰もが知ることになる!)
そう心の奥で繰り返し、玖音はただ歩を運んだ。
一方で、通りの片隅では。
老婆が数珠を鳴らし「おお恐ろしや」と呟きながらも、茶菓子をぽりぽり。
子どもは母に抱き寄せられながらも「ねー母ちゃん、鬼ってほんとに来るのー?」と好奇心いっぱい。
母は「来るわけないでしょ」と笑い、子の頭を軽く小突いた。
やがて郡衙の土塀が朝日を受けて黒々(くろぐろ)とそびえ立った。
高い棟門は固く閉ざされ、その前には槍を手にした門番が控えている。
そこへ縄に引かれて進む足は、重く、けれど止まることは許されなかった。
〔玖音心中〕
(ここなら……きっと聞いてくれるはず……)
そう繰り返しながらも、胸の奥では冷たい予感がひそやかに膨らんでいく。
玖音は唇をきつく結び、目を閉じた。
そして再び開いた時、その瞳には、もはや退くことのない決意が宿っていた。
あなたの御印ひとつ、次なる幕を灯す光といたします。
なにとぞよしなに。ひとしずくの灯火のごとく、希望を宿しましょう。