第一章★第五幕 ☆"嘘"★
―嘘と契―
巨影は“そこに在る”だけで、世界を揺らしていた。
まだ完全に動いてはいない。眠りの淵、覚醒の直前――その脈動は、胎動のようだった。
蒼鬼は静かに如意棒を構えた。
瞬く間に、棒はうねり、絡み合い、螺旋の球体を形作る。
黒き鬼神を閉じ込める、如意棒の檻。
〔蒼鬼〕
「……動くな。」
低い声が空気を震わせた。
〔赫鬼〕
「貴様、我らと人の世との繋がりを断ち切るつもりか!」
赫鬼が怒号を放つ。
蒼鬼は視線だけを向け、冷たく答える。
〔蒼鬼〕
「……繋がりなど不要だ。」
〔赫鬼〕
「許せぬ! あの者をわざと逃がしたな!」
赫鬼は刃を引き抜き、地を砕く。
〔蒼鬼〕
「愚問。」
蒼鬼は一歩も動かず吐き捨てた。
赫鬼の赤き刃が震え、炎を纏う。
〔赫鬼〕
「言葉など要らぬ、お前は敵だ!!」
赫鬼が飛びかかろうとした、その瞬間。
〔蒼鬼〕
「……赫鬼。」
〔赫鬼〕
「まだ喋るか!」
蒼鬼は拳を胸に当て、霊気を込める。
〔蒼鬼〕
「………貴様と我の魂は、“契”によって繋がっている。
我を討てば、貴様もまた消えることになる。
………他の鬼どもは別だがな。」
赫鬼の動きが止まった。目を見開き、低く唸る。
〔赫鬼〕
「……そのような繋がりなど、聞いたこともない!」
〔蒼鬼〕
「………封印の中で、貴様は何を学んだ。
………己を律する術も知らず、
暴れるだけならば――この世界に貴様の居場所はない」
赫鬼は怒りに揺れながらも刃を振りかぶった。
〔赫鬼〕
「戯言を……! 貴様の言葉など信じられるか!!」
轟音。
赫鬼が大地を蹴り、赤き閃光が蒼鬼に迫る。
蒼鬼も拳を一閃。霊気が炸裂し、赫鬼の一撃を弾いた。
爆風。地が裂け、空が震える。
火花と霊気が絡み合い、空間が歪む。
赫鬼は怒声とともに、炎を纏った刃を地に突き刺した。
〔赫鬼〕
「舐めるなよォオ!!」
赤黒い火柱が赫鬼の身から爆ぜ、
瞬く間に山ひとつを呑み込む炎嵐が広がった。
〔赫鬼〕
「焼き尽くしてやる、蒼鬼ィ!!」
夜空は赤に染まり、遠くの里までもがその光に怯え震えた。
炎刃が振り抜かれ、炎の波が押し寄せる。
だが蒼鬼は拳を構えた。
冷気が咲き、霜が足元を覆う。
燃え盛る世界のただ中に、そこだけが冬のごとき光景となる。
〔蒼鬼〕
「……無駄だ。」
赫鬼の炎刃が奔流となって襲いかかる。
だが蒼鬼は躊躇いなく拳を振り抜いた。
瞬間――炎と冷気が衝突。
轟音とともに天地が白光に呑まれ、蒸気が爆ぜ、世界そのものが揺らいだ。
赫鬼の斬撃は次々(つぎつぎ)と放たれる。
だが蒼鬼は拳で受け、逸らし、打ち砕く。
その動きに、焦りが生まれる。
〔赫鬼〕
「ぐっ……一撃が……氷みてぇに……重い……!」
〔蒼鬼〕
「……理なき刃は、届かん。」
赫鬼は全身の炎を一点に集中させた。
〔赫鬼〕
「これではどうだ!!」
地を砕き、渾身の一撃。
蒼鬼は冷気をすべて拳に纏わせ、突き上げた。
轟然――!
炎刃は粉砕され、氷と炎が爆発。天地が裂けんばかりに揺れた。
赫鬼は吹き飛び、地に叩きつ)けられる。
赤き刃は地に突き刺り、炎は掻き消えた。
ただ一人――蒼鬼が、爆心の只中に立っていた。
その姿は、まるで“まだ何もしていない”かのように静かだった。
赫鬼は血を吐き、膝をつきながら睨む。
〔赫鬼〕
「……ふざけるな……この屈辱……覚えておけ……!」
蒼鬼は歩み寄り、拳を下ろしたまま言った。
〔蒼鬼〕
「……滅ぼすべき時は、別にある。」
その声音に――赫鬼の背筋を冷たいものが走った。
〔赫鬼心中〕
(こやつ……まだ力を隠しているのか……!)
怒りよりも先に、得体の知れぬ恐怖が赫鬼を支配した。
蒼鬼は答えず、背を向けた。
赫鬼は吠えるように叫び、火の翼を広げて舞い上がる――
その咆哮は、まるで山を震わせる群れの喚声を思わせるものであった。
やがて赫鬼の姿は、炎の残滓を撒き散らしながら夜空の彼方へと消えていった。
その背後に広がる光景は、もはや“山”とは呼べなかった。
赫鬼の炎に呑まれた峰は抉られ、緑は灰と化し、谷は崩れ落ちている。
かつて連なっていた山々(やまやま)は消え飛び、
不気味なほど見通しのよい荒野が、月明りにさらされていた。
鬼たちは風に吹き払われる塵のごとく、散り散りに姿を消した。
蒼鬼は月明りの中、ただ封印された鬼神を見据えるのみでその場に立ち尽くした。
──その夜のことを、人は長く「鬼哭の戦い」と呼び伝えることになる。
あなたの御印ひとつ、次なる幕を灯す光といたします。
なにとぞよしなに。ひとしずくの灯火のごとく、希望を宿しましょう。