34話 死出の旅
ナタレ姫と、刺し傷を負い、地に伏した私。
そのすぐ傍で、ショウメイの姿をした
狼鬼が、涎を垂らしながら二人を見下ろしていた。
低い唸り声。
焦点の合わぬ眼。
――理性は、すでに失われている。
そして。
その肩に、女狐の姿をした存在がいた。
小柄な体に、細く長い尾。
歪んだ笑みを浮かべ、こちらを見下ろしている。
乾いた笑い声が、夜に響いた。
「キャハハ。狼鬼に罪を被せていたのに、
この姿まで見抜かれるとは……」
否応なく、視線が女狐へ引き寄せられる。
「……さっきまで話していたのは、狐の鬼。あなたですね」
問いかけに、女狐は楽しげに肩を揺らした。
「そうだとも。だが案ずることはない。
汝らは今宵、ここで死ぬのだから」
ナタレ姫が鈴刀を握り、立ち上がろうとする気配が伝わる。
――だが、動けない。
見えぬ力が、すでに全身に絡みついていた。
それは私にも、姫にも、等しく及んでいる。
「憎しみさえあれば、人も鬼も操れる。
すべて――想いのままに!!」
嘲笑とともに、狼鬼の刃が振り下ろされた。
その瞬間。
狼鬼の――腹の奥から、朱色の波動が弾けた。
まるで、呑み込んだ宝珠が砕けたかのように。
――チリンッ。
どこからともなく響いた、澄んだ鈴音。
一拍遅れて、両手が打ち合わされる。
――パァンッ。
理解した。
これは鬼の術ではない。
明確な意志を持つ、"何者かによる介入"だ。
世界が、止まった。
振り下ろされた刃は、宙で静止している。
気づけば、四者の間に白衣の女が立っていた。
どこか陰陽師を思わせる装いに、顔の半分を覆う面。
だが、私の知る誰とも一致しない。
それでも――
その呼吸、その踏み込みの距離。
鈴を構える、ほんの僅かな癖。
――知っている。
厚手の白衣が素肌を隠し、
その姿は誰とも判別がつかない。
それなのに、確信だけがあった。
白衣の女は、地に伏す私の血濡れた頭に、そっと掌を重ねる。
次の瞬間、言葉ではない理解が、直接脳へ流れ込んできた。
――飛べ。
私に向けられたものだと、疑いようがない。
指先が動いた。
呼吸が、戻る。
白衣の女は、ナタレ姫の震える頭を撫でる。
それは、母が子を送り出すような、静かな手つきだった。
白衣の女が、鈴を天へ向けて傾ける。
――チリンッ。
一拍。
――パァンッ。
空間が歪み、波となって広がる。
狼鬼と狐の鬼は、
声を上げることすら許されず、闇に引き剥がされるように消えた。
――死ではない。
この場から、切り離されたのだ。
さらに一拍。
――パァンッ。
嵐が、夜空が、霧のように崩れていく。
空そのものが――失せた。
白衣の女が、私を見る。
言葉はない。
だが、はっきりと分かる。
――今なら、通れる。
「――開け。冥界の門よ」
印を結ぶ。
その拍子に合わせ、
白衣の女が、さらに一拍。
――パァンッ。
血と灰に濡れた大地が、重力を失ったように剥がれ落ちる。
周囲すべてが暗闇に沈み、
重たい水の底へ沈められる感覚とともに、私は落ちた。
ナタレ姫を抱いたまま――
意識が、世界から切り離される。
……。
――月明かり。
目を開けると、青紫の花に満ちた場所にいた。
嗅いだことのない空気。
一目で、この世ではないと分かる。
やり遂げた。
姫を、窮地から救い出した。
鼓動は、もうない。
胸の内は、静まり返っている。
それでも――
意識だけが、不自然なほど澄み切っていた。
最後に、ナタレ姫の顔を、ほんの一瞬だけ見る。
どうか、泣かないでほしい。
……死にゆく体には、
もはや抗えない。
沈む意識の底で、姫の悲鳴が聞こえた。
それは、ただの声ではない。この世に私を縫い止める、確かな意志の叫びだった。
――まだだ。
私の意識は、
ナタレ姫の声で――掴み留められた。




