32話 姫の決意
意識は薄く、視界は滲んでいた。
だが、音だけは不思議なほど鮮明だった。
布が擦れる、静かな気配。
次いで、指先が――姫の額に触れる。
半面が、外された。
怒る――
姫の顔を、私は初めて見た。
月明かりに照らされたその横顔は、驚くほど静かだった。
静かすぎて、却って、恐ろしい。
姫は外した面を地に置き、
迷いなく、拳を振り下ろす。
乾いた破壊音。
砕けた破片が跳ね、
黒衣の裾が、風にひとつ揺れた。
――その瞬間。
空気が、はっきりと変わる。
夜気が張りつめ、
音が消え、
言葉もなく、ただ何かが“決まった”としか思えなかった。
沈黙を裂いたのは、低く、凍りついた声。
「……裏切り者」
闇の奥で、何かが息を詰める。
一拍。
次いで、嘲るような笑いが返ってきた。
だが――
姫は、一歩も退かない。
「信じたかった……
守るべき民の中に、裏切りなどないと」
声は、わずかに震れている。
だが、それは恐れではない。
長く、深く、押し殺されてきたものが、
今になって、堰を切ったのだ。
私には、そうとしか思えなかった。
「騙したのですか。里の皆を、父上を――
……母上の命まで踏みにじるなど、人の所業ではない」
言葉の端々に、深い痛みが滲む。
刃物のように、鈍く、確かに。
何を思い、
何を失ってきたのか――
私には分からない。
それでも、分かることがあった。
姫の声から、
ためらいが、完全に消えている。
「不滅の肉体?
すべてを殺し、自分だけが永らえる……
そんなものに、何の意味があるのですか」
血が、私の指先から落ちた。
ぽたり、と。
その音に重なるように、
姫の声が、鋭く夜を裂く。
「この命に代えても、必ず貴様を裁く。
桜塚家当主の名にかけて――
あなたを、赦さない」
その言葉は、刃だった。
躊躇なく、逃げ場なく、突き立てられる。
闇に潜む者へ、
真っ直ぐに。
だが――
“歪む影”は、嗤った。
私は、思わず息を詰める。
……違う。
姫の言葉は、
ただの怒りではない。
目の前の鬼だけに向けられたものでもない。
もっと多くのものを背負い、
もっと大きな何かを、
ここで断ち切ろうとしている。
何を決めたのかまでは、分からない。
だが――
この者の思い通りには、させない。
その覚悟だけは、
痛いほど、はっきりと伝わってきた。
鬼は、
まるで言葉そのものに斬られたかのように、
わずかに、揺れる。
「キハハ……
その言葉に、人の名残が震えておるわ」
嘲る声が、夜に滲む。
笑いの奥に、苛立ちが混じった。
「従者を装っておったとは愉快なものだ。
だが小娘よ――
汝は、私の正体を知らぬ」
「復讐は、どう果たすつもりだ?
今、この場で死にゆく者が――」
言葉は、そこで途切れた。
場は、
言葉よりも濃い“殺意”で、
すでに満ちきっていた。




