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宵星の巫女―鬼封神楽―  作者: いろはにぽてと
序章・鬼と宿命の物語
22/34

番外編 奪う者

グンシに抱きつかれた、その瞬間。


鼻腔を刺したのは、腐りかけた酒の残香。

掃き溜めのような匂いが胸の奥に沈み、

意識が底へ引きずり込まれる。


――ああ。


この匂いを、儂は知っている。


父の背。

祈りの声。

そして、すべてを奪った女。


かつて――

儂は、人だった。


異界の片隅で生きていた、ただの子供。

今の言葉遣いは、依代の記憶にすぎない。

だが魂の奥は、今も変わらない。


牧師だった父と、幼い兄。

慎ましく、温かな家。


神を信じ、善を疑わぬ父。


……あの女が来るまでは。


女は美しかった。

憐れを装い、施しを受け、

来るたびに家から何かを奪っていく。


後に“魔女”と呼ばれる存在。


金、信用、尊厳、未来。

父は疑わず、慈悲を示し続けた。


その果てに家は貧しくなり、

父は牧師の座を失った。


食うにも困る日々。


僕は盗んだ。

父と兄を生かすため。


だが二人は怒らなかった。

盗んだ先へ連れて行かれ、頭を下げさせられた。


「善意は、義と共にあらねばならぬ」


父の言葉は揺らがない。


そして父は、

すべてを自らの罪として告白し、戻れぬ牢獄へ送られる。

――僕の名は、最後まで口にされなかった。


兄と僕は父を救おうとした。

だが世は冷たく、幼い二人を雇う者はいない。


「……盗むしかない」


そう言ったのは、僕だ。


「父が許すはずがない」


兄は否定した。


それでも僕は、正義より父の命を選んだ。


金袋は、子供の手には重すぎた。

監守は嗤う。


「盗みの匂いがする」


金は奪われ、僕は捕えられる。

怒りに任せて拳を振るった、その瞬間――


すべてが終わった。


僕は奴隷として売られ、兄と引き裂かれた。


――五年。


僕は奴隷として生きた。

痩せ細り、怒りだけが胸に残る。


そんな僕を探し出したのは、兄だった。

法外な金を払い、僕を取り戻す。


「僕を買う金で……

父を助けて欲しかった」


兄は、静かに首を振る。


「父は……もう、いない」


その瞬間、世界が壊れた。


それでも兄は立ち上がる。

働き、学び、僕を支え続けた。


僕は己を恥じた。

奪うことしかできなかった自分を。


平穏は、長く続かない。


町に魔女の噂が流れた。

父を貶めた、あの女。


最初に狙われたのは、僕だった。


無実の罪で牢獄に放り込まれる。

父が死んだ、あの地獄へ。


それでも兄は、またすべてを差し出して僕を救った。


僕の頭を撫でる。

――なぜかその指は、

もはや手の形を留めていない。


家に戻り、僕は問う。


「……あの人は?」


いつもなら、帰れば兄の妻がいた。

兄は、かすかに笑う。


「愛想を尽かされたよ」


その意味を、僕は後で知る。

すべてを失っても、兄は僕を守ってくれた。

だが胸の奥には、空虚だけが漂う。


そこへ、あの――魔女の声。


「父を生き返らせたくはないか?」


甘く、血の匂いを孕んだ囁き。

壊れた兄の手が、脳裏をよぎる。

……それでも。


父を想う心が、僕を縛った。

契約の代償は、僕自身。

僕は、契約を結んだ。


もう、人ではない。

魂だけの怪物へと堕ちる。


白き魔女が嗤う。


兄は、そんな僕を抱きしめる。

爪が喉を裂いても、離さなかった。


《弟を救いたいなら、契約しろ》


兄も、初めから、あの魔女に狙われていた。

それでも、微笑む。


「……必ず守る。

兄ちゃんだからな」


異界の門が開く。

赤い月の下、悲劇が始まる。


――こうして儂は、奪う者となった。

この物語を続ける力になります。もし心に残ったら、ブクマで応援いただけると嬉しいです。

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