19話 導き手
ナタレ姫は、町の者たちから聞いた話だと前置きして、語り始めた。
それは、私が眠っていたこの一週間に起きた出来事だという。
赫鬼が現れたのは、夜更けだった。
雲の切れ間を縫うように、巨大な影が空を巡るのを、多くの者が目にしている。
逃げ延びた民は社に集まり、茣蓙を敷いて身を寄せ合った。
火は足りず、春先とはいえ冷えは厳しかった。
幼子は泣き、年寄りは震え、
このまま夜が明けぬのではないかと、誰もが怯えていたという。
そこへ、赫鬼が降り立った。
鳥居に足を掛けた瞬間、悲鳴が上がった。
喰われる、殺される――誰もが刃を掴んだ。
だが、追っては来なかった。
朴刀を掲げ、空に向けて術を唱えると、
雲が集まり、社を覆ったそうだ。
冷気は和らぎ、肌に温もりが戻った。
凍えていた者たちは、それをはっきりと感じたという。
夜が明けても、姿は消えなかった。
寒さに困っていると聞けば雲を呼び、
社とその周囲を包んで温めた。
それでも、人々はすぐには信じられなかった。
刃を手に、近づこうとする者もいたようだ。
彼は笑い、
「傷つけられるものなら、好きにしろ」と言った、という。
そうして朴刀を地に置き、
境内の中央に横たわった。
雲は消えず、社は温かかった。
だが一歩外へ出れば、凍え死ぬ寒さが待っている。
誰も、逃げることはできなかった。
眠っているのだと分かるまで、
民は遠巻きに、ただ見守るしかなかったそうだ。
それからだ、と姫は言う。
腹を空かせている者がいると知れば、
巨椋池から山のように魚を捕ってきた。
家を建てねばならぬとなれば、
木を切り倒し、黙って運んできた。
食を与えられ、
寒さから救われ、
暮らしを立て直す手助けまでされた者たちが、
少しずつ口にし始めたのは――恐怖ではなく、感謝だった。
「鬼に助けられた」
その言葉の行き場を探すうち、
人々は“崇めるもの”として語り始めた。
猿彦さま、と。
ナタレ姫は、そこで言葉を止めた。
私は、理解してしまった。
彼が名乗ったのではない。
町の者たちが、救われたという事実に耐えきれず、
そう定義してしまったのだ。
恐怖だった鬼が、
人の言葉によって、守り神へと変わっていく。
その歪さが、
私の背筋を冷たく撫でていた。
――だが、その時。
私の胸に、別の疑念が浮かんだ。
真に恐ろしいのは、
それを導いた――
ナタレ姫。
あなたではないか、と。
かつての私を、
従者へと導いたように――
今度は鬼を、
神へと導いてしまった。
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