第一章★第二幕 ☆祈願★
―火刑の刻―
玖音に扮した姫は、絢爛な十二単ではなく、質素な黒装束に身を包んでいた。
それは仕える者が用いる簡素な衣にすぎず、華やぎとは無縁のもの。
その顔には、玖音に与えられた白き面が掛けられている。
篝火の光を受けて揺らめく姿は、誰の目にも「姫」ではなく「従者」に映っていた。
〔菜垂姫〕
「父上……玖音……どうか争わず……幸せに……
民が安寧に暮らせる世を……。」
篝火へと投じられる刹那まで、姫は瞼を閉じたままだった。
それは、玖音に交わした口づけの折、わずかに口移しされた薬の効きめである。
薬は深い眠りを誘い、炎の轟きすら遠ざけてゆく。
夢路を辿るように、姫は意識を手放した。
ゆえに痛みも恐怖もなく、ただ安らかに――。
縄に縛られたまま、組み上げられた篝火の上に据えられた足場へと引き立てられる。
火の粉が舞い、熱が肌を刺すなか、群衆のざわめきが広がった。
〔里の者共〕
「突き落とす前に、仮面の下を拝ませてもらおうか。」
「やめろ! 祟られるぞ!」
「…そうだな……」
その声を背に、姫は突き出された。
落ちる刹那、白き面が熱風にさらわれ宙を漂う。
露わとなった顔を見た瞬間、群衆は凍りついた。
〔里の者〕
「……ひ、姫……! 姫様ではないか!」
次の瞬間、民衆は我を忘れ、篝火の下へ群れを成した。
落ちゆく姫を受け止めようと、老も若きも、女も子も、熱を顧みず両手を伸ばす。
先ほどまでの狂気は消え、ただ必死の叫びと涙だけが満ちていた。
だが――夢に落ちる人のように、姫の身体はゆるやかに前へ傾き、烈火に呑まれていった。
民衆の悲鳴が夜を裂いた。
〔民衆〕
「姫様を――救え!」
「水を! 水を持て!」
されど烈火はあまりにも強く、熱風が人々を弾き、次々と地へ伏させる。
誰ひとり、炎の中の御身に届く者はいなかった。
やがて火勢が鎮まると、黒く崩れた篝火の中から人々は姫を探り出した。
烈火に打たれ痕を刻まれていたが、御顔だけは炎に穢されることなく――
まるで安らかな眠りのままに留められていた。
誰もが声を詰まらせ、地に伏して慟哭した。
だが、どれほど呼びかけても、姫が再び瞼を開くことはなかった。
そのころ、玖音が目を覚ました。
飛び起きた彼女の手縄は解かれていた。
己の身が姫の装いをまとっていると気づいた瞬間、血の気がすうっと引いていく。
眠りを誘う薬――。
解毒薬の副作用で昏々と眠るあいだに、姫は己の衣を替えたのだ。
社を飛び出すと、篝火の前には泣き叫ぶ人々の影。
その光景を、玖音はただ遠くから見つめるしかなかった。
風に揺れる榊の葉が、ざわざわと音を立てる。
それは神々の囁きにも似て、胸を締めつけた。
声を上げることなく、心の奥で絶叫する。
〔玖音〕
(なぜ……なぜ、私ではなく姫様が……!
なぜ、あの御方がすべてを背負わねばならぬのです!)
怒り、嘆き、そして深い自責。
「護る」と誓ったはずの己が、眠りに沈んだまま無力であったこと。
その痛みはやがて誓いへと変わった。
〔玖音〕
「姫様……たとえこの命が朽ちようとも、
御身の魂だけは必ず護り抜きます……!」
玖音はついに禁忌とされる術へと手を伸ばす。
――その誓いは、魂をひとつの人形へ封じる術。
祈りであり、呪いでもあった。
――
一刻の後。
牢に繋がれていたはずの菜垂が、玖音と共に姿を消した。
城中が混乱に包まれるなか、さらに信じがたい報せが届く。
数多の報告が雪崩のように押し寄せ、八国は動けずにいた。
やがて確信だけが胸を突き刺す。
盃が砕け、血がにじむほど指を掻きむしる。
父としての慟哭、大領としての絶望が胸を裂いた。
〔大領・桜塚八国〕
「菜垂が死んだ……。なぜだ……妻だけでなく、最愛の娘までも……!」
嗚咽は声にならず、畳を濡らす。
その姿は、国を治める大領ではなく、ただの父であった。
だが――静寂を破るように、耳元へ囁きが忍び寄る。
〔邪気〕
「悲しまなくていい。娘は……蘇る。」
〔大領・桜塚八国〕
「……何を……申す……?」
〔邪気〕
「望むのだろう? 再び会いたいと。
代償は単純だ。お前の身と魂、それだけでいい。」
〔大領・桜塚八国〕
「……身も……魂も……?」
〔邪気〕
「理に適っている。命を繋ぐには、等しいものを差し出さねばならぬ。
不合理ではあるまい?」
八国は首を振り、口を閉ざした。
だが唇は震え、声が零れる。
〔大領・桜塚八国〕
「……委ねる……すべてを……」
その瞬間、八国の口は知らぬ言葉を紡ぎ始めた。
〔邪鬼 大領・桜塚八国〕
「ヤクシィ・オゥ……ムス・ムラァ……カナ・ズゥ……リィ・セル……」
八国の知るいかなる言葉とも異なるその響きは、邪気に満ちていた。
黒炎が噴き上がり、肉を、心を焼き尽くす。
八国は絶叫しながら己の悪心を邪気に捧げ、良心を五つに裂いた。
「慈しみ」「勇気」「誠実」「忍耐」「愛惜」。
それらは黒炎に抗う光となり、鬼神の胎より生まれる十の鬼のうち、五体へと刻まれた。
血と影が渦を巻き、空を裂く。
――鬼の王、いま顕現せり。
……されど、この夜の闇の底にて。
ただひとすじ、白き灯火がなお消えずに揺れていた。
烈火をも越えて残りしそれは――菜垂姫の御霊。
玖音はその微光を胸に抱き、固く誓いを刻む。
やがてその白き灯火は、鬼を討ち滅ぼす刃へと姿を変えてゆくのであった。
あなたの御印ひとつ、次なる幕を灯す光といたします。
なにとぞよしなに。ひとしずくの灯火のごとく、希望を宿しましょう。