18話 猿彦
一週間が過ぎた。
私が目を覚ましたのは、高熱にうなされ続けた末のことだった。
瞼を開くと、視界が滲む。天井が揺れ、焦点が合わない。
最初に映ったのは――
ナタレ姫の顔だった。
声を出そうとして、喉が鳴る。
身体は鉛のように重く、指先ひとつ動かすのも難しい。
額に触れると、ぬるい布が置かれていた。
何度も替えられたのだろう。湿り気と、人の温もりが残っている。
姫の頬はやつれていた。
私の看病に加え、慣れぬ営みを続けていた疲労が、隠しきれずに滲んでいる。
――それでも。
その姿だけは、あの夜と変わっていなかった。
従者の服。
面。
そして――腰に差された、見知らぬ刀。
守る者の装いを、姫は解いていなかった。
「……長く、眠ってしまいました」
掠れた声でそう告げると、姫はすぐに首を振った。
「目覚めてくれただけで、十分です」
柔らかな声音。
だが、次の言葉には、わずかな緊張が滲んでいた。
「……それよりも。見てほしいものがあります」
姫の視線を追い、私は郡司邸の門の外を見た。
思わず、息を呑む。
赫鬼が、そこにいた。
暴れるでもなく、威圧するでもなく。
ただ、静かに座している。
そして――そこへ至る道。
門口まで、供物がずらりと並べられていた。
米。
魚。
干した野菜。
まだ湯気を立てる握り飯。
まるで、神を迎える祭壇だ。
「……これは」
言葉を失った私に、姫は小さく息を吐いた。
答えは、語られなかった。
それが、かえって不気味だった。
あの日。
姫が赫鬼に告げた言葉。
それが、何かを変えてしまったのではないか。
そんな予感だけが、胸の奥に沈んでいく。
その時。
赫鬼が、ゆっくりと目を開いた。
炎のような瞳が、まっすぐに私を捉える。
だが、そこに敵意はない。
唇が、わずかに動いた。
「……わからぬ」
低く、静かな声。
怒号でも、嘲笑でもない。
夜明け前の風のように、淡々とした響きだった。
直後。
境内に、小さな声が落ちた。
「……猿彦さま」
誰が言い始めたのか、分からない。
だが次の瞬間には――
あちこちから、囁くようにその名が広がっていった。
「「 猿彦様 」」
私は、凍りついた。
恐怖の象徴だった鬼が、
人々の口の中で、別のものに変わろうとしている。
その兆しだけが、
私の背筋を、冷たく撫でていた。
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