15話 魚の戯れ
私の胸に、ジゲンの言葉が棘のように刺さっていた。
――永い時の中で。
忘れようとしても、耳の奥で反響する。
「……あの夜から、一日しか経っていないはずだ」
問い詰めた瞬間、ジゲンの動きが止まった。
篝火に照らされた横顔が、わずかに強張る。
「……失言です。忘れてください」
軽い声。だが、その軽さが不自然だった。
「あの――鬼が湧いた夜だ。
群れが現れた時……お前は、どこにいた」
ジゲンは短く笑う。
「何を言いますか。
あなたは――私の首を斬り損ねたでしょう」
胸の奥を、冷たいものが這い上がった。
夜闇を裂いた白い角。
斬撃を弾いた、骨の感触。
確かに届いたはずの一撃が、容易く消えたあの瞬間。
――あの鹿の鬼が、ジゲン。
否定できない疑念だけが、胸に残る。
気づけば一行は、郡司邸の前に立っていた。
夜風に混じる、焼き魚の匂い。
身体は限界だった。
それでも、腹だけははっきりと空腹を訴えている。
赫鬼が――青白く光る鬼火を生み出し、屋敷へ入る。
子供ほどの背丈でありながら、堂々と。
「ジゲン……。あの夜のこと、まだ何か隠しているな」
「今は話せません。いずれ時が来れば、必ず」
それだけ言い残し、ジゲンは屋敷へ消えた。
――次の瞬間、力が抜け、視界が揺れる。
「……ジゲン……肩を……」
だが、私を支えたのは別の腕だった。
「クオン……しっかり……!」
ナタレ姫だった。
「お願い……。お屋敷の中に入るまでは……頑張って……」
必死に支える腕の細さに、逆に意識が遠のき、二人とも仰向けに倒れ込んだ。
その時――
「うわああああああっ!!
鬼が、出たっ!! 殺されてまうっ!!!」
屋敷の中から悲鳴が上がり、カヲルが門から飛び出してきた。
仰向けに倒れたナタレ姫が、か細い声で助けを求める。
「助けて……。助けて……」
私たちの姿を見た瞬間、地から手を伸ばす妖怪にでも見えたのだろうか。
「亡者や!! おばけぇ!! 鬼ぃぃ!!」
大声をあげてカヲルは叫んだ。
カヲルはそのまま塀をよじ登ろうとして
――池へ落ちた。
ばしゃん、と気持ちのいい水音が響く。
私は逆さになったまま――呆然と、屋敷の奥を見る。
鬼火を揺らす、赫鬼が焼き魚を串ごとかじっていた。
「これは美味い! 酒が霞むほどだ!!!」
池に転がり落ちたカヲルを見て、グンシ殿の笑い声が響く。
「わははっ!!
カヲル!! お前は一体なにをしておるだっ!!」
グンシ殿は片腕だけで、
軽々しくカヲルを救い上げた。
「義父様ぁ……!」
一度屋敷に入ったジゲンが、
私たちに気づいて駆け寄ってきた。
一瞬だけ目を伏せ、
次の瞬間、私を背中へと引き寄せた。
小さな背中に抱えられ、
視界がわずかに高くなる。
その背は頼りなく見えるのに、
不思議と、落ちる気がしなかった。
私は俯いたまま、
香ばしい匂いを嗅ぎ、小さく呟く。
「……魚……」
その声を聞いたせいかは分からない。
皆の光景を目にしたジゲンは――
涙を零しながら、微笑んでいた。
ナタレ姫は、ただ懸命に私を支えてくれている。
従者でありながら、誠に面目ない……。
「魚臭ぁあああ!!!」
その直後、
カヲルの断末魔のような悲鳴が響いた。
……私の晩ご飯は、まだ、遠そうだ……。
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